坂本龍馬について‐3
東京五輪も終ってしまいました。これからはパラリンピックが楽しみです。もう公共の電波放送で文句を言うのやめて欲しいです。
それと、全国的な大雨で急に涼しくなりました。二つの台風がうまい具合にそれてくれて喜んでいた矢先でした。
相変わらずコロナがおさまりませんね。変異株デルタ、恐るべし。気を付けましょう。ワクチン接種で大人しくしていましょう。私はまだ感染していません。
武市半平太が率いる「土佐勤王党」は、文久二年(1862年)4月8日、参政吉田東洋を暗殺して、土佐藩の藩是を「尊王攘夷」にまとめあげることに成功しました。
同年6月28日、土佐藩主山内豊範出府の為に土佐を立つ。
同年8月25日、京入り。朝廷は、土佐藩主に滞京、市中警備を依頼。薩長と共に国事周旋するよう沙汰を出した。
閏8月14日、武市半平太と平井収二郎、藩官僚小南五郎右衛門、谷干城、京都での他藩応接掛を命じられた。
遂に武市半平太は、正式に京で「勤王活動」を行うことが出来るようになったのです。願いが叶って嬉しかったでしょうね~。真面目な性格であった武市半平太は、更に精力的に活動して先鋭化していきます。
「土佐は薩長に続く三番手。これでは存在感が薄い」
と考えるようになったのです。それで、これまで幕府方に加担して安政の大獄に協力してきた者を殺して、土佐の名を知らしめようと動き出したのです。
どうしてこのような考えに至り、誰にも止められずに実行してしまったのか。そしてそれが土佐藩の為になると信じていたところが、全然理解できません。
8月21日、越後浪人・本間誠一郎
9月1日、目明し文吉
9月23日、幕吏・渡辺金三郎
が武市門下・岡田以蔵(人斬り以蔵で有名だそうです)薩摩の田中新兵衛らによって斬り殺されたのです
土佐藩の活動が実を結び、遂に将軍徳川家茂に攘夷実行を迫る為の勅使を派遣することになったのです。おそらく薩摩藩島津久光のパフォーマンスに影響されたのでしょう。
正が三条実美、副が姉小路公知でした。武市らはその護衛として江戸まで同行したのです。
10月12日京発、28日品川着。ところが家茂公は流行病の麻疹にかかっており会うことが出来ませんでした。(本当ですか~? 体よく逃げてませんか~? )
一方、彼はというと。脱藩後「勤王の志士」としての活動をしていません。少なくとも長州の久坂玄瑞を頼ってもいないのです。そうしていれば記録に残るはずですが、無いのです。通説では、京都には行かず薩摩に行ったが、関所の守りが固くて断念したそうです。
この点を見ても薩摩藩島津久光の上洛・挙兵に参加する為の脱藩というのは無理があると思います。
「いや~、武市さんのお考えはブラック過ぎて付いていけんちや。尊王攘夷の志はわかる。わしも同意じゃ。じゃけんど、異人の武力は強力じゃ。それに槍刀で勝てるかい? 無理ぜよ」
「そして、吉田東洋様の暗殺メンバーにされてしまっては、かなわんのう。わしは人斬りなんぞしとうないぜよ。もうここ(土佐)にはおられんちや」
という感じで、脱藩して武市から、土佐勤王党から逃げ出したと考えた方が私には納得できます。彼は人斬りも辞さない武市の先鋭化された攘夷の論理と、その実現性に疑念を持っていて、それから抜け出すには土佐からいなくなること、つまり脱藩しか方法がないと考えたのです。
こうしてみると、親戚関係の武市半平太が、長州・久坂の入説感化がなければ、又武市が吉田東洋暗殺を企てなければ、彼はまったくのんきな一生を終えていたかもしれませんね。
実際、吉田東洋が暗殺された後の武市・土佐勤王党の栄達は、非常に驚いたことでしょう。彼はそれを風の便りに知ったかもしれません。
そして、彼はお金にとても困っていました。
そもそも兄の権平や家族は脱藩に反対していましたから、当然まとまったお金を得ることができませんでした。
そこで領地の農民から二両借りた借用書が残っています。当時の金利は15~18%でした。その他に頼母子講という基金から借りて、多くて20両位持って出たようです。これで半年分ギリギリの生活費だそうです。
彼が脱藩するおりに、次姉の栄が名刀忠弘を内緒で渡し、後でそれを咎められて自害した。という件があるようですが、これは創作です。栄さんは病で既に亡くなっていて、人の生死をウソ逸話に絡めるって腹立ちます。
脱藩浪人は当時どのような暮らしだったのでしょうか。
文久二年(1862年)7月、彼は大阪にいました。土佐藩士の一部が参勤交代で大阪に逗留していたおりに目撃されていて、刀の柄の部分に布を巻いていた。どうしたのか? と尋ねると、「縁頭を売ったんちや」と笑って答えたそうです。
同年7月23日、土佐勤王党の首領格・樋口真吉は、大阪で彼と会い、見かねて小判一枚を渡したと日記に書いています。
彼はやはり困窮していたのですね。収入が無い上に働いて収入を得ることもできないのですから仕方がありません。
日々腹は減るし、懐は寂しい。衣服も着たきりで汚れ放題、汗やらなんやらで身体中から異臭がする。病気にならずに良かったです。
今更土佐にゃあ戻れんし、さぁてこれからどうするかと色々と考える内に千葉重太郎殿の顔が浮かび、江戸での楽しかった日々が思い出されたのではないでしょうか。それで、なんとかなるんじゃないかと彼は江戸に行きました。文久二年(1862年)8月です。
千葉道場で彼は重太郎との再会を喜び合い、さなさんもさぞや喜んだことでしょう。これでなんとか食いつなぐことができました。いやいや良かったですね~。これも彼の人懐こい人柄のおかげでしょう。
彼は身なりこそ落ちぶれていましたが、心までは落ちていなかったと思います。そして思想はしっかりと勤王。
因みに同年8月21日、あの生麦事件が起こりました。
同年11月12日付の長州藩士・久坂玄瑞の日記に面白いものがあります。
「同12日、暢夫(長州藩士・高杉晋作)同行、勅使館に往、武市を訪、龍馬と萬年屋一酌、品川に帰る」
長州藩士・久坂玄瑞と高杉晋作といえば、松下村塾の双璧と呼ばれる勤王の志士。そして土佐勤王党の武市半平太は、勅使の護衛として京から江戸入りしておりました。龍馬とたまたま勅使屋敷にいたところへ、二人が訪ねてきて、萬年屋という店で一献傾けた。ということです。
いやいやなんとも濃い面子が揃ったもんです。始めは和やかに良い気分で宴は進んだのですが、やっぱり久坂が、横浜の異人館を襲撃して異人を斬り殺す計画を、二日後に決行する旨をもらしたのです。
驚いたのは武市と龍馬です。そして一定の理解を示しつつもやんわりと思いとどまる様に説得するのですが、そんなもの聞き入れる二人ではありません。結局宴は解散となり、久坂・高杉は品川の土蔵相模に帰ったそうです。
この二人の破天荒な活躍はここでは記しませんが、拙著「奇人のシャッフル」を読んで下さい。笑えますよ。又名前で検索すればたくさんヒットするのでそちらでも楽しめます。彼らの場合、脚色の様な事実。正にハチャメチャです。
武市の立場としては、聞いてしまった以上勅使に報告しないわけにはいきません。久坂とは志を同じくした仲なので心苦しかったと思います。
この攘夷計画は、武市~勅使~長州藩世子・毛利定弘の耳に入り、強制中止になったとさ。
武市や龍馬にとって久坂玄瑞は、尊王攘夷の志を入れてくれた人ですから再会は嬉しかったでしょうが、苦い酒になったでしょう。高杉晋作みたいな人に初めて会えて衝撃も受けたことでしょう。今で言えばバリバリのテロリストですからね~。
文久二年(1862年)12月4日、彼は間埼哲馬・近藤長次郎と共に常盤橋の福井藩邸を訪れました。勿論キチンと用件を伝えると、明晩なら謁見に応じると約束を得たのです。
文久二年(1862年)12月5日、彼は間埼哲馬・近藤長次郎と共に松平春嶽に会うことができたのです。松平春嶽といえば、当時幕府の政事総裁職にあり、今で言えば日本国の首相です。そんな大人物と脱藩浪人が、何故会うことができたのか奇跡的なことです。
そして彼らは、堂々と大阪湾防備策を具申したのです。
春嶽公もよく応じてくれました。千葉重太郎や間埼哲馬につてがあったからだ。とかいう人もいますが、それは事実です。でも彼がいたからこその具申じゃないですか。立派ですよ。
その場において、彼がプレゼン中春嶽公に怯みグダグダになって、凡庸な人物と映ればそれまでのこと。しかし、春嶽公は彼を見込んだのです。
先ずは挨拶、それから面を上げて自己紹介と近況報告、そしてプレゼンはうまく出来たのでしょう。
春嶽公は幕府の要職にあって勿論暇ではありません。だが会うとなれば、坂本龍馬なる男そのものを見たに違いないと思います。そして彼の人柄と可能性を見出して、勝麟太郎に会うが良かろうと紹介状を書いてくれたのです。
多分周囲の者から「凄いぞ龍馬! 」てなったと思います。さぞ嬉しかったことでしょう。
今まで土佐で「金で買うた郷士、所詮は下士やないか。頭が高いわ! 」と上士から散々蔑まれてきました。そのくせ上士らは本家才谷屋の裏口からこそっと入るや、借金を頼むのです。そして返済が遅れるや滑稽なほどの平伏。
彼は幼い頃からそんな話を身内からよく聞いていました。お金の力の前では上士も下士も無いもんだと悟りました。そして脱藩して困窮し、お金のありがたみをつくづく実感したことでしょう。
それでも彼は、友人知人から支えてもらいながら、快挙を成し遂げたのです。それは友情・人情・愛情があったからこそです。
私は図書館で十冊以上は「龍馬本」をめくりました。そしてこのプレゼン逸話を見つけて喜びました。通説では脱藩後ここを飛ばして勝海舟と会っているのです。ここから彼の快進撃が始まるのです。進撃の龍馬?
しかも、開明派の勝を斬りに! 「……でも世界情勢を説明して、こんなことをやってる場合じゃねぇよ。と諭してやったら、改心して門弟になった」
と本人が「氷川清話」で残した談話に飛びついているのです。
実は勝海舟は、話を面白おかしくする傾向があり、聞き手も更に面白くしようと盛ったようです。
春嶽公から紹介状まで頂いた大先生を斬りに行くわけないです。ここが面白いから春嶽の紹介状はカットしたのでしょう。
文久二年(1862年)12月25日、彼は近藤長次郎・千葉重太郎と共に兵庫滞在中の勝麟太郎を訪ね、彼と近藤長次郎は正式に門弟となるのです。千葉重太郎さんは道場を継ぐのでパスですね。
文久三年(1863年)1月1日、兵庫を出立、大阪を経て京に入る。
勝麟太郎は幕臣で軍艦奉行並の地位にあって2千石の大身です。急に昇進したので代々の家来がおらず、信頼できる門人を探していた、あるいはいたらいいなと思っていたところに彼が来たのです。
二人は相性が抜群に良かったのでしょう。それに、日本初の海軍をつくろうぜ! という構想に思いっきり賛同したのです。そして、明日をも知れぬ惨めな浪人から、漸く生きてゆくためのお金の心配が無くなったのは大きい。と思います。
一口に海軍を造るといっても、簡単ではありません。人材が圧倒的に足りません。それに当時の日本は藩ごとに分かれていたので、バラバラに海を守っても、あまり効果は望めないのです。
そこで、ここは一つオールジャパン(挙国一致)で、金を集めて軍艦を買い、広く人材を集めて教育・訓練して、操舵・砲撃の熟度を上げる必要がある。
軍艦だっていつまでも外国から買ってばかりじゃ能がねえ。早く自前で造れるようにしなきゃあな。(産業勃興)
その為には金がいる。今までは領地の農民から年貢を6:4の4でとっていたが、商人からも税金とろうよ。(税制改正)
それに外国ともっと貿易をして国を富ませる必要があるな。国が富めば民も富むってわけだ。
待てよ、こう考えると幕府はもう必要ねえな。てか邪魔? おっとあぶねえ、これ以上はヤバイから今はここらで止めておこう。
彼は勝先生の目も眩むほどの構想を聞いて、今までぼんやりとかかっていた霞が晴れ、自分の道はこれだ。と初めて思ったでしょうね。こういう時は、がんばればそれだけ良い結果が出るので、評価も鰻登りです。毎日が楽しかったことでしょう。
まずは、やる気のある若い者を連れて来い。ということで門人集めに奔走し1月8日、高松太郎・千屋寅之助・望月亀弥太・沢村惣之丞・新宮馬之助を入門させました。更に入門希望者が集まり、勝の私塾は大いに賑わったとさ。
文久三年(1863年)1月13日、彼は勝に随行し、順動丸で江戸に向かう。
同年1月15日、伊豆下田に入港。
同年1月16日、下田に前土佐藩主・山内容堂がいることを知る、面識があった勝は挨拶がてら会いに行き、龍馬の脱藩罪赦免を要請、赦される。
同年2月25日、京都土佐藩邸で七日間の謹慎後、赦免される。
これで自由の身となり、気分も晴れて心おきなく働きましたとさ。
同年2月某日、彼の元に岡田以蔵がやって来ました。以蔵は武市に言われるままに、天誅と称して文久二年から三年までの二年でわかっているだけで8人を斬っていました。
土佐藩士・井上佐市郎、越後浪士・本間誠一郎(前述)、目明し文吉(前述)京都町奉行与力・渡辺金三郎(前述)、同心・森孫六、大河原十蔵、上田助之丞、儒者・池内大学。
ところが、武市は以蔵を便利な殺し屋としか思っておらず、天誅が一段落ついたら邪魔になり、勤王党の中で居場所が無くなったのです。
彼は以蔵を受け入れ、人斬りはやめて、勝塾入門をすすめ、以蔵はそれを受け入れたのです。それで以蔵は勝の警護をすることになりました。
同年3月7日夜、勝は京都市中で3人の攘夷派暴徒に襲われました。以蔵は素早く抜刀し、一人を真っ二つに斬り裂いた。そうです。
生きた人間を真っ二つて、縦からは無理だから横からですか。肋骨と骨盤の間からなら骨は背骨一本だけ、そこに刃を入れて凄まじい力で胴払いで引き斬ればできなくもない。
しかし、生きた人間の胴は、着物を着て袴に帯を締めている。そして背骨に内臓や腹筋があって、右からか左からわかりませんが、真っ二つにするには左右部分を一刀で斬らねばなりません。
腹を半分斬り、背骨も断ち斬れば上半身が支えられませんから、二つ折れで倒れたでしょう。
この話、そのまま信じては危ないと思います。何しろあの勝さんの談話で氷川清話からの出典ですからね。
ともかく一人を斬殺して「弱虫どもが、何をするか」と一喝。残った二人は泡を食って逃げたそうです。勝は以蔵の剣の冴えに感動したという。
後日、勝は以蔵に注意を与えた。
「君は人殺しを嗜んではいけない。先日の様な挙動はあらためたがよかろう」
それを聞いた以蔵は応えた。
「先生。それでもあの時私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょう」
「これには俺も一言も無かったよ」
勝は維新後に回想しました。出典は氷川清話でした。
同年3月4日、将軍家茂が京都入りしました。身辺警護は「浪士隊」でしたね。詳細は省きますが、この3月中には近藤勇らで「新選組」を結成しました。
勝麟太郎は、将来がある若者たちが、攘夷運動に加わっていたずらに命を散らしている事態に心を痛めていた。脱藩して浪人となれば、たちまち食い詰める。そして生きる為に悪事を働き、死ぬる為に斬り合う。おかげで京の治安は大いに乱れている。
そうした者の生活を安定させ、方向性を与えて日本の為に役立ってもらおう。と考えていたところへ、脱藩浪人だが面白い男が転がり込んできた。この勝にできることといったら、航海術を叩きこんで海軍の一員にすることだ。
一方幕閣も同じような目的で設立したのが「浪士隊」で、後に「新選組」となるのです。こちらも腕に覚えがあれば、出身や身分を問わないのです。浪士らを集めて生活を安定させて「京の治安を守る」という方向性を与えて、不逞浪士を取締らせたのです。
同年4月2日、彼は沢村惣之丞ら4人と共に江戸に下り、二番町の旗本屋敷を訪れた。元外国奉行兼大目付の大久保一翁に会い、松平春嶽宛ての親書を受け取る為です。
初対面の挨拶の後、まぁ話をするのですが、大久保一翁は勝と同様開明派であったので、色々と楽しくお話が出来た様です。
この時期の京都では長州藩を中心とした尊王攘夷派が勢力を強めており、朝廷内の尊攘派公卿と結んで幕府に圧力をかけていました。天皇の勅許無しに諸外国と条約を締結するとは、けしからん。
即刻条約を破棄し攘夷を実行せよ! というのです。
幕府としては実情を暴露できないから、説得も出来ないというジレンマに陥り、朝廷や長州藩の勢いに圧され、ただただ畏れ入るばかりでした。
大久保一翁も頭を悩ませ内心では、それほどまでに攘夷実行というのなら、幕府は政権を朝廷に返還して一大名に戻るから、できるものならやればよい。と思っていたのです。一種の大政奉還論ですね。
大久保一翁はその思いを、彼らに話したそうです。彼と沢村惣之丞は手を打って賛同したそうです。
同年4月3日、彼らは松平春嶽宛ての親書を携えて出立。大久保一翁は初対面の彼を「真の大丈夫」と高く評価しましたとさ。
同年4月9日、順動丸で大阪に着いた彼はそこで、松平春嶽が政局に疲れて政事総裁職を辞任し、越前福井に帰国したことを聞きました。
同年4月16日、やむなく大久保一翁の親書を持って福井に向けて出立。
同年4月24日、神戸村に海軍操練所設立の辞令が出る。運営予算は年間三千両。これは勝の念願でした。勿論彼もみんなも大喜びですよ。
詳細は以下のようになります。
上洛した将軍家茂が京都に滞在中、摂海(大阪湾)沿岸の防備状態を視察することになり、勝が順動丸で案内するように命じられたのです。
同年4月23日、天保山沖から出航した順動丸が神戸に差し掛かった時、勝は家茂公に、海軍と海軍学校の必要性を懸命に説きました。
家茂公は納得し、その場で海軍学校設立を許可しました。勝の作戦勝ちですね。
通常この様な大きなプロジェクトでは、役人が何人も間に入って、ああでもないこうでもないとやるのでかなり時間がかかるものですが、将軍がOKしたのですから、後はトップダウンで、全力で実現に向けて動き出すのです。翌日には辞令が発布されて運営の予算は年間三千両が計上されることが決まりました。
後に正式に「神戸海軍操練所」と名付けられ、日本の海軍の歴史が始まったのです。実際に学校を始めるためには、校舎・宿舎・寮の設計・建設、実習船(蒸気船)の確保、教授の選定(長崎に軍艦伝習所がある)、教育カリキュラムの設定、実習器材の購入など実務がたくさんあるので、数カ月は必要です。
実は、造船所も建設して、四十~五十間(約73~91メートル)の軍艦を建造する予定もあるそうです。
そこで幕府は、開校までの間、勝の私塾という形で海軍教授を行ってもよいという許可を与えました。彼も他の門人たちも異論はないのですが、私塾となると、幕府から運営予算は出ないのです。年間3千両の予算は正式に開校してから支出されるのです。
嬉しい反面、苦しい資金難です。幾ら勝が2千石の大身でも、数百人の門人を食わせていくことは無理です。
そこで、勝は松平春嶽から資金を出してもらおうと考えて龍馬を福井に差し向けるのです。
同年5月16日、彼と高松太郎、近藤長次郎の三人は思わぬ大役を背負わされて福井に出立しました。
福井に着いた一行は松平春嶽と面会して、御挨拶から始まり近況報告、そして神戸海軍操練所の話に持っていき、それが出来るまで資金が乏しいことを説明。何卒の一千両の御援助願いたい旨を嘆願し、見事一千両を出していただいたのです。
一説には五千両というのもありますから、最終的には五千で、とりあえずの一千両ではないかと思います。福井藩は32万石の大藩ですが、これはかなりの大金です。それを出すのですから、龍馬と勝さんが信頼されているかがわかるというもの。
これは凄い! 勝からの添え状もあったと思いますが、お気に入りの龍馬から迫真の説明を受けて、得心してお金を出しやすかった。と思いますよ。
この時、彼は横井小楠(肥後藩)や由利公正とも面会して意気投合しています。
多分周囲の者から又もや「凄いぞ龍馬! 」てなったと思いますよ。やっぱりお金を持ってきたというのは大きいです。仲間から大いに喜ばれて尊敬されたと思いますね。
ところが、彼は問題を起こしています。
「神戸海軍操練所」のお金は、大坂町奉行の幕臣松平大隅守が預かっていて、設立準備を担当する幕臣佐藤与之助がお金を引き出した時、50両足りなかったのです。
お金の流れを確認すると、龍馬らが50両引き出していたことが判明しました。
はい、これは公金横領という罪です。更に事情を訊くと、「なんぜ! こりゃわしらぁが持ってきた金ぜよ。50両位手間賃ちや」
幕臣たちも彼らの活躍を知っていましたが、大金を投資してもらい、手数料を頂く商法は当時まだありませんで、更に内訳を追及されます。
龍馬・10両、高松太郎・10両、近藤長次郎・30両。龍馬とその身内の高松が10両で、部下の近藤が30両なのに作為を感じて面白い。
使途は当然、三人で芸妓を上げて遊んでしまってもう無いとのこと。幕臣佐藤与之助は困り果てて、この旨を勝に手紙で伝え、50両はこの三人に貸し付けたことにしました。
勝はその手紙を読みましたが、彼らは少しも罪を犯した意識が無いので無視、当然返納の記録もなくうやむやになったとさ。
いや~、勝先生に龍馬さん。楽しそうですね~。
同年5月2日、勝の使者として大阪本願寺に滞在していた姉小路公知を訪問して御挨拶。姉小路公知は昨年10月に攘夷実行を促す勅使の副として武市さんらと江戸に行ったお公家さんです。
この年の5月10日には、長州が馬関で外国船を砲撃してしまうんです。攘夷実行です。さぞ驚いたことでしょう。
将軍家茂が上洛し、朝廷から攘夷の期日を迫られて、殆ど苦し紛れに5月10日と約束し、全国に御触書を出していたのです。
でもこの御触書の中身が微妙で、「5月10日が攘夷決行の期日なんだけども、無抵抗な者に積極的に攘夷実行しなくてもいいんじゃないかな」というものでした。
しかし、異人嫌いの孝明天皇と朝廷に入り込み、主導権を握っていたのが長州藩です。本当に5月10日に攘夷実行し、他藩は攘夷実行しなかったのでした。
長州藩は朝廷に取り入たいがために尊王攘夷を唱えていたわけではありませんで、日本を外国からの侵略から守るためならば率先して戦い、たとえ藩が滅んでもかまわない。と本気で考えていたのです。
同年5月10日、アメリカの商船ペンブローク号
同年5月23日、フランスの軍艦キンシャン号 死者4名
同年5月26日、オランダの軍艦メデューサ号 死者3名 重傷者5名
の被害が記録に残っています。幕閣の中では、「……これは大変なことになるぞ」と覚悟して事態の収拾に取り組むのです。
歴史には色々なことが起こります。それらを今の物差しで単純に良し悪しを判断してはいけないと思います。
ここでは、詳細を省きますが大事件でした。勿論その後下関戦争に突入するのです。七月には、前述の薩英戦争が勃発するしで、幕閣のトホホは続くのです。
龍馬は暇を見つけてはよく手紙を書いて送っていたことは有名です。ここで一つ、文久三年(1863年)6月29日付の乙女姉やんに送った手紙を記します。長くなるので抜粋を現代語訳にします。
「……しかしながら、長門の国(長州)で馬関(下関)戦争が始まり、先月より六度の交戦で、日本側は甚だ不利な状況で、(加えて)呆れ果てたことには、その長州で戦った外国の軍艦を江戸(幕府)で修復しては、又長州に送って戦わせたということです。
これらは皆、幕府側の腹黒い売国奸物官僚・佞臣らが夷人と内通したことによるものです。
右の奸吏らはかなりの勢力があり、大勢ではありますが、龍馬は二~三藩と約束を固くし同志を募り、朝廷からまず神州を保つという大本の思想を掲げ、ひいては江戸の同志、旗本・大名その他各位と心を合わせ、右に申した奸吏らを一撃の闘争のもとに打ち殺し、日本を今一度洗濯いたし申すことにすべきとの神願でございます。
この一念を大藩に申し上げたところ、すこぶるの同意を得て、内々に使者を御遣わし下さること二度。されど龍馬は仕官を求めたわけではまったくないのです。
実に、天下に物の道理をわかる人士がいないこと、これをもって知るべく、ただ嘆くべしでござるよ」
と乙女姉やんに口止めした上で、長州が負けそうなのに、幕府は夷人の軍艦を修復していることに怒っています。これは幕府に悪い官僚がいて夷人と内通しているからだ。二~三の雄藩と心を合わせて、こういう悪い官僚を打ち殺すべし。と珍しく物騒なことを書いていますね。
「日本を今一度洗濯…… 」はとても有名ですが、この「洗濯」は、横井小楠先生の「天下一統人心洗濯願うところなり」という口癖を拝借したんですね。
そして、この頃から既に、二~三藩(薩摩? 長州? )と幕府内の悪者をやっつけようぜ。という思いに至っていたのでしょうか? まだ幕府を倒そうとまではいっていないようですが、興味深いですね。
でもこれ、本当に文久三年なのかな? と率直に思います。確かに5月10日の砲撃は一方的でしたが、6月にはアメリカが仕返しに出て長州の軍艦が撃沈されました。その程度でした。
「先月より六度の交戦で、日本側(長州)は甚だ不利な状況で、 」の部分以降が、気になるのです。この時点でそこまでやるかな? もしこれが、翌年の元治元年(1864年)8月5~7日の四国戦争のことなら理解できるのです。
もっといえば、手紙では「先月」とありますから元治元年9月に書いたものではないでしょうか? この時点なら彼は勝塾の塾頭となり、勝先生について回って色々な人物と会い勉強して見識を広め、神戸海軍操練所でバリバリ修行に励んで自信もついているでしょうから、あれくらいの威勢のいい手紙が書けると思うのですが、どうでしょう。もう少し調べたいと思います。
さて、図書館通いの中、調べてわかりました。
結論は、上記の手紙は、文久三年のもので、長州藩の無謀な攘夷戦について書かれたものでありました。ただの自分勝手な思い込みでした。
一回目の関門海峡を通過する外国船の攻撃は5月10日。アメリカ商船ペングローブ号に対する庚申丸の砲撃。三十斤砲6門が火を吹きました。一部破損とのことです。
二回目の攘夷戦は、5月23日、フランス軍艦キンシャン号へ庚申丸、癸亥丸が砲撃。
三回目は5月26日、オランダ軍艦メデューサ号へ庚申丸、癸亥丸、壬戌丸が砲撃。
四回目は6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号が5月10日の砲撃に対する報復で関門海峡に現れ、1時間10分にわたって交戦。アメリカ側の発表では発射数55弾、被弾20余、死亡4人、重傷2人、軽傷2人。長州側は庚申丸、癸亥丸、壬戌丸が沈没。癸亥丸は航行不能。人家も被害を被る。
五回目は6月5日、フランス軍艦セミラミス、タンクレード2隻が前田砲台を占拠。兵員が上陸。砲台は破壊されて成す術を失った。
六回目は不明ですが、五回目で既にコテンパンでした。
私としては、この時点でもう惨敗とう有り様なのに、この上尚翌年四国戦争やらかすんか~い。という印象です。不謹慎かもしれませんが、すみません。あまりに長州の負けず嫌いが強すぎて、感服したのです。
しかし、孝明天皇は御不満です。何故に幕府は、攘夷実行をしないのか。と発します。攘夷は征夷大将軍が頭となりて実行すべし。と思っているのです。(正解だと思います)
幕府はたまりかねて、遂に天皇に実情を御伝えするのです。このまま諸外国と戦となれば、武力の差は如何ともし難く、国はおろか天皇の御命の保証もできかねる。
孝明天皇は衝撃を受けたことでしょう。ところが、長州藩に至っては幕府が攘夷実行をしないことに怒り、こうなったら孝明天皇を旗頭にして攘夷実行を唱えよう諸国僥倖を提案するのです。
孝明天皇は仰天してしまい、とうとう長州系の七公卿と志士達を京都から追放します。これが世に言われている、八月十八日の政変です。
長州藩としては、驚きと絶望の大事件であったことでしょう。尊王攘夷と勤王に励んでいたのに何故? とはいえ天皇に逆らうことはできないので失意の中で都落ちしたのでした。
この世の中の大きな変化に、彼も驚いていたことでしょう。長州藩の久坂さんの顔が浮かんできて、尊王攘夷という思想について改めて思いを馳せたのではないでしょうか。
今まで当たり前と思うちょったもんが、一日でひっくり返ってしまう。
そうなってしまった空気を実際に味わった彼は、勝先生と共に自分達の理想に向かって忙しく福井、京都、江戸、大阪、神戸を奔走したのでした。
文久三年5月20日、姉小路公知が暗殺される。享年25。
文久三年6月7日、長州藩で高杉晋作が、奇兵隊を結成。
この間には、彼にとってショックな事件が起こりました。
文久三年6月8日、粟田宮令旨事件です。
土佐藩の山内容堂が尊王攘夷を一向に実行しないことに業を煮やした土佐勤王党の有力者、間崎哲馬、平井収二郎、広瀬健太の三人が尊攘派公卿粟田宮を謁見、土佐藩前藩主山内豊資宛てに「勤王奨励の令旨」を出させたことで、容堂が激怒。三人は切腹させられたのです。
平井収二郎は、龍馬の元カノである加尾さんのお兄さんで、子供の頃から知っていました。自分のやったことに対する沙汰が切腹とは無念で、それをあらわすために腹を十文字に掻っ捌いたといいます。
間崎哲馬さんは龍馬の盟友で、高知にいた頃、江戸にいた頃からお世話になった人です。
親しかった人が亡くなるのは非常に悲しいのですが、それが切腹となると、どうして? というやるせなさが加わるのでしょうね。
同年9月21日、山内容堂は元々は幕府寄りであったのですが、今回の政変で尊王攘夷派が失脚とみるや、土佐勤王党の弾圧に乗り出し、土佐勤王党首領・武市半平太、島村寿之助、島村衛吉、河野万寿弥ら幹部を捕縛土佐の獄につなぎました。あの、岡田以蔵も捕まりました。
これもショックであったと思います。「武市さん! 」という嘆きが聞こえるようです。結局は吉田東洋様の暗殺が追及されて、その責めを負うのです。
悲しいことが続いた龍馬ですが、裏腹に自身の道には明るい展望が開けていました。同年10月、彼は勝塾の塾頭になるのです。(神戸海軍操練所の塾頭ではないですからね~)
やることなすことうまくいき、衣食住の心配は無し。みんなからは信頼され、毎日活力に満ちて仕事をこなし、身体は至って健康で飯・酒・女もがっつりいただき。
「人生楽しゅうて楽しゅうて、たまらんぜよ! もう将来は日本初の海軍ぜよ。楽しみでしかないちや」
そんな絶頂の彼でしたが12月、土佐出身者の帰国命令が届くのです。
この空気で帰国したら、戻って来れる保証はないし、殺されるかもしれません。多分その可能性が大です。
ここで冷水をピシャーと浴びた気分になります。勝先生も今はなにもかもが非常にうまくいっているので、彼を国許に帰すわけにはいきません。
土佐召還の延期を書状にしたためて送ったのですが、認められませんでした。このまま操練所に残れば、再びの脱藩の罪となり、今度は捕縛対象で捕まれば斬首もありです。
彼らは熟慮の末に、脱藩止む無しの覚悟で操練所に残る決意を固めたのでした。
年が明けて元号は元治となりました。
元治元年(1864年)1月8日、大阪から京都に上る。
元治元年(1864年)1月13日、島津久光が参与に命じられる。昨年の政変で、人事が変り11月30日から、松平の慶喜、慶永(春嶽)、容保、山内豊信、伊達宗城が参与を命じられています。雄藩の大名が話し合って国事を決めようとしています。
元治元年(1864年)2月10日、勝先生と長崎へ出立。
元治元年(1864年)2月19日、勝の使者として熊本の横井小楠を慰問。
元治元年(1864年)3月17日、藤田小四郎の水戸天狗党挙兵。
水戸といえば水戸学、尊攘思想の総本山です。尊王攘夷論者にして徳川斉昭の懐刀として活躍した藤田東湖(安政二年1855年に発生した安政江戸地震で死亡)の四男である小四郎(24)が挙兵したということで話題になりました。
その目的は、横浜港の閉鎖でした。当時幕府は異人に言われるままに横浜港を開いたのですが、国内から非難を受けて慌てて閉鎖を決めて各国の異人に通達。すると各国から強硬な反発を受けてわずか九日で通達を撤回したのです。
これに藤田小四郎が幕府の弱腰を非難し、武力で攘夷実行を要求したのです。小四郎は同志62名と鈴之宮稲荷神社で必勝祈願。総大将に田丸稲之衛門(水戸町奉行)を担ぎあげた。
やはり藤田東湖の子というネームバリューで人が集まるのですね。数日後には兵は二百を超えて、長州・桂小五郎から激励と共に五百両の軍資金を頂きました。これが又話題を呼んで武田耕雲斎(62)も加わって総勢一千人を超えてしまいました。
人・カネ・モノが集まり、周囲が何をしてくれるのかを大いに期待したのですがザックリまとめると、横浜港閉鎖の主張を行う大義名分はどこかへ行って、尊王攘夷が先鋭化されて内部統制がとれなくなり、規律はあやふや、仲間割れが始まり、軍資金が枯渇してきて、金を得ようと町や人を襲い始めました。府中・筑波・柿岡などの町村の役人、富農、商人らを尊攘恫喝して金品・食料を徴発、少しでも抵抗すれば、放火・殺戮を繰り返しました。
他でも6月5日、フル武装した千人を超えた軍団水戸天狗党は栃木宿(現栃木県栃木市)に入ると、たまたま通りがかった町人らを殺害、家々に押し入って強盗・強姦・殺人・放火のやりたい放題。
町の治安を守る陣屋が、天狗党の代表から話を聞いて、一応理解をするものの、この様な惨事を引き起こした責任を追及すると、天狗党・田中愿蔵が賠償金として150両を支払ったといいます。そういうことじゃないと思いますが、同日夜、田中は軍資金三万両を要求しました。
あまりの異常さにここに書くことにしたのですが、町側も早くどこかに行って欲しいので協議し、五千両しか出せないと回答すると、田中は放火を始め、消火に集まった人々を斬り殺しました。もはや手が付けれられない悪行三昧です。火は翌朝まで燃え続け、237戸が焼失と記録が残っています。
まだあります。6月21日、真鍋宿(現茨城県土浦市)、足利・桐生・大間々・結城などの町々でも火付け・強盗・殺戮の非道を重ね、町方と戦い勝ってしまうと、これはもう悪質な大盗賊集団と認知されて周囲の理解など得られるものではありません。
ネットで検索すると、幾らでも出てきますが、当初の盛り上がりとは対照的に非常に評判を落として、幕府から討伐対象になってしまい。何故か京都を目指して西へ進軍するのです。それなりに大義名分はあるのでしょうが、理解されるわけないです。その結末は後程。
元治元年(1864年)4月14日、龍馬京都着。相変わらず凄いフットワークです。
元治元年(1864年)5月、勝麟太郎は軍艦奉行並から軍艦奉行に昇進し、待望の神戸海軍操練所が開校となりました。
すぐに修行生の募集が行われ、旗本や御家人の子弟、諸藩の志士、勿論龍馬のような脱藩浪人大歓迎で、多くの者が集まったのです。
念願が叶って感無量だったでしょうね~。若者が集まって厳しい訓練や蒸気機関や砲術、英語・数学を学び、実習船とはいえ蒸気船を操るのですから、毎日がエキサイティングだったことでしょうね。
彼は勝塾の塾頭としてみんなをまとめていたことでしょう。そして海軍修行とは別に蝦夷地(北海道)の開拓するという構想を抱いたのです。
土佐の同士、北添佶摩の発案で、諸藩を脱藩した浪士たちを未開の蝦夷地に移住させ、彼らのエネルギーを北方の開発・開拓・防衛に役立てようというものでした。
龍馬はこのアイデアに飛びつきました。脱藩浪人の辛さを知っているだけに、彼らに生きる道、方向性を与えられる。未開発の蝦夷地が開拓されて開けてくる。ロシアなどの外国から蝦夷地を守ることもできる。という良いこと尽くめに思えたからです。
既に北添さんは同志の能勢達太郎と共に、現地調査を済ませており下準備を進めていたのです。
「そこに操船技術を習得したわしらが船で行ったら、海産物の取引ができるぜよ」などと夢は又膨らむのでした。
あのう海軍の話はどうなったんでしょうか? もう尊王攘夷もどこかに行っていますね。そこが又彼の面白さです。
そんな彼らの元に、食事などの世話をする女性を雇うことになり、やって来たのが、貞さんと娘の龍さんでした。
彼女こそが将来龍馬の妻となる「お龍さん」です。彼女のエピソードは沢山あるようですが、意外と普通の出会いです。
写真を見ると、色白な京美人です。気が強い人だったようです。
彼は初対面で、お前の名の「りょう」はどんな字かいのう。と尋ね、彼女は紙に「龍」の字を書いてみせた。すると、わしの「りょうま」の「龍」の字と一緒じゃとアピールするのでした。掴みとしてはこんなもんでしょう。
その後彼はお龍さんの壮絶な身の上を知ります。彼女の父は楢崎将作で、尊攘派の医師でした。しかし先の安政の大獄のあおりを受けて投獄されてしまい、二年前に獄死してしまいます。
そこからは経済的に困窮し、妹の君江は騙されて(と本人は言っていますがお金が絡んできます)大阪の女郎屋に売られました。
お龍さんはその女郎屋に乗り込んで、「妹を返せ! 」と訴えました。相手もそれが商売なので、お龍さんを脅しつけて諦めさせようとしましたが、お龍さんは怯まず殺すの、殺さないのの大立ち回りを演じて妹を取り返したそうです。
まぁこの手の話、お龍さんの豪気な振る舞いもありますが、借りた金に利息を付けて返さなければどうにもならないものです。お金をどうにか工面して借金問題を解決したということです。お龍さんを本当に殺しても徳が無いのを業者は十分知っているのです。
でも、龍馬はこの話にシビれました。彼はこういう気の強い女が大好きなのです。
彼はお龍さんに猛アタックして、三カ月後の8月1日、内祝言を挙げるのです。良かったですね~。
しかし、龍馬がお龍さんに夢中になっている間、世の中は大きく動きます。
元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件が起きました。これは新選組がメインです。龍馬は直接関わっていませんが、蝦夷地開拓計画の北添佶摩さんと修行に励んでいたはずの望月亀弥太が殺されたのです。
北添さん達は、京都に残っていた尊攘派の志士に蝦夷地開拓計画を披露して賛同者を集めようと活動していましたが、思うように行きませんでした。
この頃の尊攘派の志士といっても、もはや後ろ盾の長州藩は先の政変で京都からいなくなり、たちまち食い詰めています。瘦せ細り、衣服もすさんで目だけが爛々としている連中です。
「君らの言うことはわかる。しかし、何故に我らが蝦夷地に追いやられて生きてゆかねばならん。我らはこの手で幕府を倒し、新しい政府を樹立するために活動しておるのだ。他をあたるが良かろう」
それもそうです。わかります。自分が信じた道をそう簡単に変えられるものではないのです。今はやさぐれた浪人となろうとも、いつか回天の時は来る! そう信じている以上、蝦夷地なんぞ行こうという者はいないのです。
そして逆に北添さんの方が志士の熱い説得にやられてしまった。熱い血が通じてしまったのです。
一方、望月さんの方は、実直に修行に励んではみたものの、どうも捗らない。仲間から遅れをとっているのが自分でもわかる。悩みますわな。自分は見込みがないんじゃないかと思い始める。
そんな時に、尊攘派の志士達の話を聞いていると、こっちの方が向いているんじゃないか。いや、熱い血がたぎるのです。(勉強せんでもいいしね)
北添さんは池田屋の集会には出席していませんでしたが、方広寺近くの寓居を新選組に踏み込まれて逃げたのですが結局斬殺されました。
望月さん池田屋で深手を負いながら脱出しましたが、二条の角倉邸門前で自刃しました。
この事件、池田屋で攘夷派の志士が集まり、悪だくみをしているところを新選組が一網打尽にし、悪だくみを潰しましたぞ!
してその悪だくみとは、風の強い夜に、京の都に火を放ち大火せしめて多くの人心が混乱しているところを天子様(孝明天皇)を連れ去ろう。というものでした。京都守護職松平容保を殺害するというのもありました。
はい、これウソですよ~。これまでたくさんの人が信じていたようです。幕府方もこれを信じて、新選組を賞賛して幕臣に取り立てたのです。
証拠は何も無いのです。尊攘派の古鷹俊太郎さんを拷問して、そう自白させた。という新選組方の主張のみです。古鷹さんはその後、新選組の手の者によって斬首されてます。(口封じかい! )
その後の動きをみても、天皇を連れ去ろう(どこへ? 長州? )などという行動は全く見当たりません。その悪だくみとやらを実行したところで、何の効果があるというのでしょう。荒唐無稽です。
これも私の発見とかではなくて、新史料が発見されて研究が進んでこれが今のトレンドということです。
新選組は今も人気が高いのは知っています。好きな人には気の毒ですが、私は特に深い思い入れはなく、真面目に一級史料を研究されたものを支持したいと思います。
池田屋事件(騒動)は、その日池田屋に集まった尊攘派の志士は、言われているような「悪だくみ」はしておらず、捕まった古鷹さんをどうするかを協議しながら、お金の心配をしていました。
お金はある商人が三百両を出してくれるという話が出て、安心して飲んでいたところへ新選組が乗り込んできたそうです。
池田屋の表と裏口に三人ずつが固め、局長近藤勇ら四人が二階へ上がってきたのですが、志士たちは腰の刀は入り口付近の棚に預けていたため(宴席なのでそうする習わし)、小太刀のみでした。(刀は新選組が乗り込んだ時に押収されました)
近藤たちは鬼の形相で斬りかかってきたので、斬り合いになりました。新選組は二十人はいたとの主張ですが、あんな二階の狭い所そんなに入れませんて、実際は十一人でした。圧倒的に不利な状況で五人が斬り殺されました。新選組は7人以上を討ち取ったと主張していますが、これもウソです。階段落ちなんて、そんなことできる建屋じゃないから。
下(一階)では、床の下に身を隠していましたが、見つかり捕まりましたが一人だけ風呂場に逃げた者が助かって手記を残したのです。和田義亮という長州側の人です。
新選組は池田屋だけを狙って踏み込んだわけではなく、会津藩兵と連携しながら一晩中かけて市中の旅籠に隈なく踏み込んで、尊攘派の志士や怪しい者をふんじばったのです。つまり、池田屋以外でも暴れたのです。
かわいそうに長州の者などは斬られながらも、長州藩邸に駆け込んだのに、門は開かずに見殺しですわ。これは、今動けば会津藩との全面対決になること見通して断腸の思いで避けたのです。
会津藩も「準備が整うまで待て」という指示を、新選組が聞かず独断専行の大暴れに、正直迷惑したのです。長州藩の不気味な沈黙も手伝って、「これは今後エライことになる」と予測したものです。
本来ならキツイお叱りがあるはずが、例のフェイク情報で形勢大逆転です。会津藩も幕府もそれを鵜呑みにして、新選組は時代のヒーローになった夜でした。
でもどうしてみんな信じ込んでしまったのでしょう。武士に二言はないという言葉があるように、武家社会は、みんなが二言をとても嫌うので、子供の頃から二言は恥と厳しく教育しているのです。だから二言の無い・許さない社会が成立していたのです。
一方新選組の人々は、農民や町人など武士ではない身分の集まりです。となればウソやごまかしで世の中を渡ってきたわけで、生粋の武士よりもタフなのです。
京都守護松平容保のお預かりの身となって大喜びしたのですが、頂いた市中警護という御役目に励むものの、徐々にそれ以上のものは望めないという葛藤が湧いていました。
そしてこの御役目は、京都見回り組という直参のエリートが司っていたのです。彼らから見れば新選組など、ぽっと出の烏合の衆。目障りでしかなく、度々蔑まされていたようです。
この境遇を何とか打破するには、市中警護で大手柄を立てるしかない。そう思っていたところで掴んだ「京都焼き討ち」のあいまいな噂レベルの情報。副長の土方歳三はこれに飛びついて賭けたのではないでしょうか。
そういう境遇にあって、もっと出世したいという思いで、池田屋襲撃を巨大な陰謀を阻止した。というフェイクに至ったのではないでしょうか。
又「あの長州ならば、さもありなん」という印象も手伝ったと思います。当時長州といえば過激な攘夷派で有名で、政変で勢力を削がれて、このままで終わるとは思えないと警戒されていたのです。
まぁこの騒動がきっかけになって、会津と長州は全面的に戦うことになってしまうのでした。そういう意味では凄いことですね。
さて、次行きます。
元治元年(1864年)7月11日、佐久間象山が京都で暗殺される。享年54。当時の日本では象山は洋学の第一人者でした。象山塾には、あの吉田松陰、勝海舟など多数の優秀な人材を輩出しています。勿論坂本龍馬も学んでいました。
彼を斬った川上彦斎は後に佐久間象山の凄まじい功績を知って愕然とし、以後人斬りをやめてしまったといいます。
元治元年(1864年)7月19日、禁門の変が勃発。昨年の政変で攘夷派の七公卿と志士たちは京都から一掃され、長州藩藩邸は沈黙を余儀なくされて長州藩では藩主親子蟄居の憂き目にあっていました。
そもそも尊王攘夷は天子様の御意思。その御意思に従って何が悪いというのか! きっと腰抜け幕府と会津・桑名・薩摩どもが取り入って、天子様の御目を曇らせておるに違いない! おのれ、このままではおかぬぞ。うぬぬぬ。
長州藩の方々はこんなふうに怒っていたのでしょう。そんなところに池田屋騒動で、優秀な人材を喪失し、会津が敵とはっきり定まって、もはや怒りは頂点に達して理性などはすっ飛びました。
フル武装の兵二千を京都に差し向けたのです。目的は、天子様の御信頼厚く御所に住まわれる鷹司卿に嘆願書をお届けする。です。
いくらブチ切れているとはいえ、天皇に対しての忠節は揺るぎなく、直接お会いするなどもってのほか。という常識を踏まえているのです。だからこそ鷹司卿に願い出て、長州に何ら非が無いことを説明・御理解をいただき、我らの藩主毛利敬親様の執権回復と、我ら長州が政変前の状態に戻していただく。という算段なのです。
この点を見ても、長州藩が天皇を連れ去ろうと企んでいる。という新選組の主張は全然信じられないのです。
こうして長州藩の動きを見ていると、藩主毛利敬親公はそうとうゴリッゴリの尊王攘夷思想なんだろうな。と思いきや、実は違ってました。(ちょっとガクッときました)
むしろ毛利敬親公は「そうせい公」と呼ばれており、部下から進言されるとなんであれ「そうせい」と言って承認してしまう方だったのです。
長州藩で最もゴリッゴリだったのは、軍学者・吉田松陰さんでした。この人だけでも凄い方なのですが、ペリーの一件で「このままでは日本は異国の餌食になってしまう! なんとかせねばならん! 幕府は弱腰で役に立たん! 役に立たぬならもういらん! どうしたらいい? うぉ~ペリー殿、僕(長州では自分を僕というらしい)を蒸気船に乗っけてアメリカに連れてってくれ! 」
という具合で、日本を異国から守ることを真剣に考え過ぎて、一周して「乗せてくれ」とペリーにお願いするという。私を笑わせてくれた人です。
しかも英語なんてわかんないからその旨を漢語で書き、アメリカ人は漢語がわからんと知るや、カタカナで書き記したという。(アメリカ人はカタカナもわかりませんよと突っ込みたくなります)又も私を笑わせてくれた人なのです。
勿論、海外の進んだ学問や技術を学んで、日本で自前の蒸気船が造れて操れるように早くなりたい! ということなんですけどね。
物凄く優秀で、真面目、一本気で熱中しやすい人。それが行動すると、少しヘンテコになっちゃうのです。
彼はそれほど「尊王攘夷」ではなく、「草莽崛起」かな。とにかく日本が危ない! 何としても守らねば! という一心で行動した人です。
こんな人が主催した塾が「松下村塾」で、あの久坂玄瑞、高杉晋作等々を輩出したのです。そんな人ですから、何よりも行動を重視して「諸君! 狂いたまえ!」てけしかけちゃうんですから。そりゃあもうみんな大暴れさ。(天狗党とは月とすっぽんだけどね)
すっかり吉田松陰さんで話がそれましたが、彼が11歳の頃にはもう毛利敬親公に兵学を教えていたそうです。どゆこと?
彼のおかげでその後の日本をどうにか守られたのでした。素直にありがとうです。
長州二千を率いているのは、若きリーダー久坂玄瑞でした。京都御所の西に嵯峨勢、南西に山崎勢、南に伏見勢の三班に分けて陣を構えました。この後で毛利敬親の子元徳が率いる本隊が合流する予定でした。
御所の守りは幕府軍(一橋・会津・桑名)の連合軍二千五百。両軍の睨み合いが続くこと三週間。その間京の人々は長州軍に兵糧を提供しています。無論お金を払っていますが、民衆の支持を受けている証であることを強調しておきたいです。
この間、久坂は御所との交渉を繰り返しました。こちらとしては攻め入ることを目的としていない。このままでは京の都が戦場になってしまう。
それは何としても避けたいのはそちらも同じ思いであろう。我らはただただ話し合いに参っただけである。我ら長州に非はないことを御認め頂きたい。して政変以前の状態に戻して頂きたいだけである。我らのこの願いが叶えば兵を退く。
そもそも話し合いに来たのであれば、二千の兵は無用ではないか。ここは静かに兵を退かれよ。→ここまでしなければ、門前払いであったではないか! などの問答が続いたのです。
これを受けた朝廷・幕府・諸侯の会議は紛糾した。しかし孝明天皇は厳しい態度を貫いたのでした。
この間幕府は更に諸藩に援軍を要請して、薩摩藩などが加わり総勢二万となり、盤石の体勢を整えました。
幕府連合軍は楽観していました。戦力差が長州軍の10倍となり、それでも御所を攻めれば朝敵となる。然るによもや攻めては来ぬであろう。
つまり、10倍の敵に突っ込んでくる奴いる? いないよね。万が一攻めてきたら朝敵になっちゃうよ。「朝敵」これ怖いよ~。朝廷の敵となったら日本中が敵になって生きていけないもん。個人じゃなくて藩(長州)、つまり多くの長州の民が滅んでしまうんだよ。よもや攻めてこないよね~。とふんでいたのです。
元治元年(1864年)7月16日、幕府連合軍から長州軍に対して伝令が届きました。18日中に撤退しなければ、総力を挙げて貴軍を征討する。という内容でした。
同年同月17日、長州軍は石清水八幡宮で最後の軍議を開きました。
強硬派は、御所に進軍して天皇に直訴する。御所に入る門は九つある。幕府軍はその全てを守っているから、分散しているので一つ一つは手薄になっているはず。
幸い京都の人々は長州びいき(不平等条約によって経済が混乱しているから、攘夷実行してもらって元の安定した暮しがしたいと望んでいる)だからこれからも兵糧を出す約束をとりつけた。とはいえ幕府軍の兵力はこちらの十倍。まともに戦えば全員討ち死にの憂き目に遭い、天皇に直訴は叶わないやも知れぬ。と主張していました。
一方の慎重派は、今本隊元徳様が援軍を率いて京に向かっております。その数八千、しかし到着まで後十日はかかる見込み。そもそも我が君主である毛利家は、平安時代の平城天皇の御子息を源とする家柄、天皇に対する忠義も厚かったので諸藩とは別格である。
ここは元徳様本隊の御着陣を待つべきである。それまで何とか十日時間稼ぎができないものか。
リーダー久坂は慎重派で、時間稼ぎを主張したのでした。
ところが強硬派の来島又兵衛が猛反発するのです。この方は古参で強気な性格です。若殿が御到着する前に、目前の敵を排除することが武士のつとめである! と強硬に主張したのです。
今、こちらから攻撃をしかければ、「朝敵」となってしまいます。それだけは避けなければなりません。今は一旦幕府の命令を受け入れて時間を稼ぎ、元徳様の御着陣を待つべきです。
今攻めても援軍は無く、兵力は圧倒的に不利です。機が熟すのを待つべきです! と涙を流して訴えました。(リーダー久坂はわかっていたのだね)
しかし、来島は全く聞き入れません。こぉの卑怯者がぁ! 「医者坊主」に戦の何がわかるというのか! 命が惜しいならここに留まっておれい! と烈火の如く怒り吠える来島に圧され、他の幹部達は沈黙。
「医者坊主」とは、久坂さんのあだ名で一番言われたくない言葉でした。意外なことに松下村塾に入る前は、医者の卵だったのです。
来島の咆哮によって強硬策の雰囲気が支配し、最後に最年長の真木和泉が来島に同意して強硬策に決定したのです。18日午後、軍議の結果突撃と決まった以上、必ず幕府軍を突破して天皇に直訴すると覚悟を決めたのです。
元治元年(1864年)7月19日未明、禁門の変が勃発するのです。三方からバラバラに御所に向けて進軍。伏見勢が全滅。嵯峨勢は蛤御門で会津と戦いとなり善戦も、薩摩軍が援軍に入り来島討ち死に後は総崩れとなって全滅。以後長州は薩摩・会津を激しく憎むことになります。
リーダー久坂が率いた山崎勢は敗色濃厚のところで、何とか鷹司卿に縋りつくことができ、嘆願書を渡そうとしましたが、無情の拒絶でした。
これで万事休す。全滅の敗北。絶望の境地に至り、久坂玄瑞切腹、享年25。この戦で京都は後に「どんどん焼け」といわれる大火となり、全体の三分の二が焼失しました。
同月21日、他藩人による長州支援部隊「忠勇隊」が山崎天王山に立て籠もり、17人が自刃して果てました。その中には能勢達太郎さんがいて、かつては北添さんと龍馬で蝦夷地開拓やろうで、うぇ~い! と盛り上がった同志でした。「能勢よ、おまんもかい…… 」という龍馬の嘆きが聞こえそうです。これで蝦夷地開拓計画は潰えたのでした。
まったく……、普通に考えてここは慎重策でしょ。「おい! 来島! 」ですよまったく。私も史料を追いながら、あまりの理不尽に悲しくなりましたよさすがに。普通なら一行で済んだのにさ。調べるんじゃなかった。いやいや、そんなことないか。これ私個人のエッセイという日記みたいなものですから、誰も文句言わないでしょう。
長州は惨敗。久坂玄瑞を失う。朝敵決定。京都は火の海。最悪です。ちなみに勝先生と竜馬達は、神戸に住んでいたので直接の被害はありませんでしたが、軍艦・観光丸で大阪から桜宮、淀川をのぼってその惨状を視察したようです。
龍馬にしてみれば久坂さんは立派な勤王の志士で、熱い議論で笑い合い、酒を酌み交わした懐かしい思い出が浮かんだでしょう。勝先生にしてみれば日本人同士が、何をやってんのかねぇ。と心を痛めたのではないでしょうか。犠牲はあまりにも大きく実りは……。
圧倒的な不利を構わず、朝敵の汚名も構わず、とにかく突っ込んでくる長州軍……。愚かといえばそれまでですが、勝者の側の人々の心に深く爪痕を残したのではないでしょうか。調べている私の胸にもぐっとくるものがあるくらいですからね。
元治元年(1864年)7月24日、朝廷から長州征伐の勅命下される。
元治元年(1864年)8月2日、第一次長州征伐発令。
元治元年(1864年)8月5~7日、四国艦隊の馬関(下関)攻撃。
結果は惨敗でした。これで長州は、やっと攘夷無理とわかったのでした。遅いわ~! 四国はイギリス、アメリカ、フランス、オランダのことです。
元治元年(1864年)8月8日、長州藩、四国艦隊に降伏を申し入れ。
ここで大活躍したのが、松下村塾の双璧にして、バリバリのテロリスト高杉晋作でした。久坂さん亡き後、長州最悪の事態に運命を託したのです。長州側の通訳は、伊藤俊輔(後の博文)がつとめました。
よくもこんな危ない人に任せたな~と思いました。何せ彼はこの時まで脱藩の罪で野山獄につながれていたのですから(大笑い)。が、これが期待以上の成果を出すのです。
同年同月9日、 一回目の交渉は旗艦ユーリアラス号の船内です。(薩英戦争の損傷はなおったんだ)
高杉さんは身分を偽り、家老しか着ることが許されない礼装、直垂に烏帽子で登場。
対するのは、イギリス艦司令長官のクーパー。
高杉さんは「我こそは、長州藩筆頭家老、宍戸刑馬である。 」と名乗り(ウソですけど)、長州側からの「講和書」を手渡します。
クーパーは、これを見て
「降伏するとは書いていないではないか、これでは全く問題にならない。 」とはねつけます。
しかし、高杉さんはこれでいいのだ。と反論します。
「外国船の下関の通航は、以後差し支えないと書いている。これが、講和の意味である。降伏ではない、長州藩は敗けてはいないのだ。 」
なにを言うか、これだけ砲台を占拠しているのだぞ。と言うクーパーに、
「貴軍の陸戦隊は、せいぜい3千人であろう、しかし当方は、防長2州で20万は動員できる、我らが本気で内陸戦をすれば貴軍が負けるのである。であるから、今回は講和を申し入れに来たのだ。 」
これを通訳から聞いた、クーパーは声を上げて笑ったといいます。
イギリス側通訳のアーネスト・サトウは、こうした、高杉さんの傲然とした態度・様子について、好意を含めた表現で「まるで、魔王のようだった。 」と書き残しています。
第二回目の交渉は翌々日。しかしこの日、高杉さんこと宍戸刑馬と通訳の伊藤俊輔は、交渉の場に現れませんでした。
「宍戸は何故来ない」と怒るクーパー。実際の所は、二人とも行方不明になっていた為でした。
これは長州藩内の事情によるもので、藩内の過激攘夷論者が、講和をすると聞いて憤激し、
「洋夷に対して降伏するとは、売国行為である。高杉と伊藤を斬る。 」と叫び、藩上層部に詰め寄ってきたのです。そのため、高杉と伊藤は姿をくらました。というわけです。
過激な攘夷派に取り囲まれた藩首脳たちは動揺し、
「これは、高杉と伊藤が勝手にやったことである。 」と言い逃れを始めます。(ええー! )
これを聞いた井上聞多(後の馨)は下関から駆けつけ、藩の腰の弱さをなじり、高杉さんと伊藤を保護するよう約束を取り付けました。
しかし8月13日。幕府から長州征伐の部署と予定が発表されました。
このことにより風向きが変わります。
対幕戦を目前にした今、外国との戦いは早く決着したい。そうした、空気が長州に広まり四カ国との講和を是認するという、藩内世論に変わっていきました。
それに、二回目の交渉では、何一つ話が進まず、宍戸が来ないのであれば、藩主を出せと要求されました。藩主を出すわけにはいかない藩首脳も、
是が非でも高杉さんに出てもらいたいと居場所を探し、やっと二人を見つけ出したのです。
そして、第三回目の交渉です。又も、前回と同じ礼装で"宍戸刑馬"が出席しました。この講和の大きな議題は2点。賠償問題と彦島割譲問題です。
賠償金について、四カ国側は300万ドルを要求しました。これは当時36万石の長州藩が50年かかっても払えない大金です。
「この攘夷戦は、わが藩の意志で行ったものではない。幕府と朝廷の命令によって行ったものである。従ってこの賠償金は、幕府が支払うべきものである。 」と高杉さんは主張し、幕府と朝廷から出ている"攘夷命令書"を見せます。
「わかった。賠償金は幕府と交渉する。」とクーパーは了承します。(幕閣は又もやトホホなのです)
もう一つの彦島割譲問題。彦島は下関に浮かぶ小島で、戦いの抵当として四カ国共有の租借地にしたい。という要求です。
西洋諸国に蹂躙されている上海を実見した経験がある高杉さんは、その要求の本質を直感しました。ここは譲るわけにはいかない。そう考えました。
ここで、高杉さんは、
「そもそも、日本国なるは…… 」と古事記・日本書紀の講釈を、延々と始めたのです。
「高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし、続いてイザナギ・イザナミなる二柱の神現れまして、天浮橋に立たせ給い天沼矛をもって海をさぐられ、その矛の先からしたたる、しずくが島となった。まず出来たのが淡路国のおのころ島である。…… 」
通訳の伊藤もアーネスト・サトウもどう通訳してよいのか解らず、まわりの者もあっけにとられるばかり。話は、アマテラスオオミカミの代になり、
天孫ニニギノミコトへ神勅を下して…… と留まるところを知りません。
ついに、クーパーも音をあげ、租借のことは撤回すると取り下げました。
この時の事を振り返って、後に伊藤博文は、
「あの時、もし高杉がこれをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。 」と言い、晋作の機転に感謝したといいます。
こうして、四カ国と長州の間で調印が行われ、講和が成立したのです。
今回の事で、イギリス側は、長州に好感を持ちました。幕府との折衝では、いつもその態度の煮え切らなさや、約束を守らない嘘つき外交に、業を煮やしていましたが、長州は違うと感じたのです。
その態度は明快で、言った内容は信用できる。そう感じたのです。
薩英戦争の時の薩摩もそうでしたが、長州もこれ以降、英国と協力関係を深めていくことになっていきます。
まぁ要点だけを抜粋したら、まるでマンガの様ですが、色々調べてもこの信憑性は高いです。筋書きも台本も無い一発勝負ですから、結果はどうころんでもおかしくないのに、一方的に砲撃をしかけ、報復攻撃で惨敗したにも関わらず降伏せず、彦島租借と賠償金を撥ね付け、下関を開港して貿易を約束。イギリスと仲良くなってしまうなど、長州藩にしてみれば万々歳というわけです。
さすが高杉晋作様様であります。しかも彼の活躍はこれに留まらないのでした。続きは後程。
元治元年(1864年)8月3日、西郷吉之助(後に隆盛)会うために勝先生に紹介状を書いてもらい、神戸から京都の薩摩藩邸に向かう。会ってどんな話をしたのか記録はありません。
ここがドラマや映画では演出の腕の見せ所でしょう。戻ってきたのは同月23日、西郷の印象を勝先生にこう語りました。
「西郷という奴は、ようわからんかった。釣鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口ならば大きな利口でしょう。
ただ、その鐘をつく撞木(龍馬自身)が小さかったのが残念でした」
つまり、身分でなく、人間の器の大きさというものを感じさせられて。体よくあしらわれた。ということでしょうか。
勝塾の塾頭で勝先生と色んな偉い人に会い見識を深め、仲間からは慕われて、綺麗な嫁さんもいる。ことで、どこか有頂天になっていたところに、西郷さんというとんでもない男と出会って、自分のサイズを思い知ったのではないでしょうか。
世の中には凄い人は沢山います。少なくとも自分より優れた人と出会うのは良いことでしょう。何が? どう? がわかるだけめっけものです。
龍馬は西郷さんと会ってそう感じたのでしょう。だから、勝先生に西郷さんの印象を中々言いませんでした。二三日経って勝先生がシビレ切らして、軽い感じで聞いたそうです。
元治元年(1864年)9月11日、西郷さんからの申し入れにより、勝先生との面談が大阪で実現する。
身分は当然勝先生の方が上なので、西郷さんがかしこまって御挨拶をしたと思います。
しかし、ざっくばらんを好む勝先生は、初対面の挨拶の後は、「まぁ、そんなにしゃっちょこばらずに…… 」と緊張を和らげたと思います。
西南雄藩の薩摩を代表する人物として最近メキメキと頭角を現していることに注目していましたので、彼のものの考え方や人間性を見極めようとします。西郷さんの方も幕府の軍艦奉行である勝先生の人物を見極めようとします。出方によっては打ち叩いてやろうぐらいの意気込みだったと、大久保一蔵への手紙に残っています
そんな二人ですから、話題は尽きず議論は白熱しました。生麦事件からの薩英戦争。島津斉彬からの富国強兵(薩摩のこと)で出張ってきた島津久光公のこと、公武合体策での活躍を評価しながら、それで外交はどうにかなったのかと限界説と唱え、昨今の禁門の変や四国戦争に及び、西郷さんをチクチクやったと思います。さすがの西郷さんも知らない間に勝先生の術中にはまるのです。
西郷さんは、大阪湾に四国連合艦隊が来航した場合の対応策を問います。
異人は幕府を軽侮しているので解決できない。然るに明賢の諸侯四~五人が会盟し、敵の艦隊を打ち破るだけの兵力を持って談判し条約を結べば、皇国の恥にならず。異人も条約に服して国是も定まる。
彼は勝先生の幕臣でありながら、幕府を見限るような答えに驚愕し、「……とんと頭を下げました。……ひどく惚れ込んでいます 」と感服するのです。(大久保一蔵への手紙)
勝先生は彼が薩摩軍をまとめて、これからの朝敵長州を征伐する責任者であることを知っています。そこで、「お前さんは、ボロボロの長州をどうする気だい? 」と問います。
本来ならそれは重要機密で、滅多なことでは口外するものではありませんが、西郷さんは相手が勝先生なので、素直に応じるのです。
このようなやり取りがあったのかもしれません。
長州は蛤御門に発砲した朝敵。厳しく処罰する所存。西郷さんは答えます。これは本心であり、幕府側の勝先生も賛同すると思っていました。
ところが勝先生は笑って、「そりゃ、およしよ」と言うのです。驚く西郷さんにたたみかけます。
そもそもこの戦、お前さんら(薩摩)と会津らが組んで、長州を京から追い出したことが発端だよ。それで長州が挙兵して来たら、これは会津との私闘だといって、薩摩の参軍を拒否したじゃねぇか。朝廷からの正式要請をふんで参軍したのは、戦力差をつくって長州が退くと思ったんだろ?
ところが長州は攻めてきた。なんでかわかるかい? 死んでもお前さんらにゃ屈したくなかったからさ。
おいらから見りゃあさ。薩摩、会津、長州の私闘に、朝廷を巻き込むんじゃねぇよ! てことだよ。
長州が朝敵に値するほどの悪事を働いたのかい? 確かに蛤御門に打ちかけたよ。でもそれを理由に大群集めて長州滅ぼして、なんになるんだい? 誰が喜ぶんだい?
西郷さんは衝撃を受けていました。これは幕府方のお人の言うことではなか。勝先生は一段上から物事をみて考えておらるる。そして、こん問いかけは自分に気がついて欲しくてのもんじゃち。と悟りました。
勿論そうすることで、朝廷と幕府の御威光をお守りすることになりもす。
お前さん。それ本気で言ってねぇだろ。そんな立派なお考えのみなさんが、生麦事件やイギリスと戦争なんかしねえぇよな。後の始末は全部ウチ(幕府)だもんな。やれやれ、やってくれるよ。
もう幕府の御威光とやらも限界がきていると思わねえかい? みんなが好き勝手やりやがって、実際もう治めきれねえところにきちまってる。
それによ、今ここで内輪で戦して喜ぶのは、諸外国の連中だよ。それでも全国から兵を集めて長州を滅ぼすがいいさ。でも朝廷と幕府を満足させて、お前さん(薩摩)に何の得があるんだい。次はお前さんらかもしれないぜ。そして、外国が攻め込んで来るかもしれねえな。
今は内輪でごたごた揉めてる時じゃねえだろう。いまこそ日本を一つにまとめた政府をつくり、日本全体を考えた政治を行うべきだとは思わねえかい?
そして日本全体を諸外国から守る軍が必要なんだよ。おいらはそのための海軍を造ろうとしてるんだ。
勝先生は、西郷さんの人間性と柔軟性に薩摩隼人にしては珍しい大将としての器を感じ取ります。
そして西郷さんは、勝先生の見識の広さと鋭さに敬服しました。お会いして良かった。と率直に思ったことでしょう。その後彼は考えを変えるのです。この柔軟さが西郷さんの良い所。どのように変えるかは、もう少し先の話になります。釣鐘は大きく響くのです!
さてさて、龍馬についてでした。彼も面白いのですけれど、やっぱり勝先生や西郷さん出てくると格の違いを感じます。ただ、彼は西郷さんにもちゃんと良い印象を与えているのです。
愉快な仲間たちと騒ぎながら訓練・勉強に励み、仲間らと来たるべき海軍を夢見る日々。仲間内の揉め事に世話を焼くこともあったでしょう。
奥さんである京美人のお龍さんが、みんなの食事の世話をしているのですから、ご飯を食べながら、「あれが、わしの嫁さんぜよ」「うぉ~、ええのう! てみんな知っちゅうぜよ。なんべん言いゆう! 」ぐらいのギャグもあったでしょう。
そうかと思えば、神妙な顔をして勝先生について色々な人に会い、顔を売り見識を広めることもあるのです。
なんかこう、この頃の彼のことを書く時、殺伐とした時代の中でもポジティヴな面しか浮かんでこないんですけど。でもね、悲しくも非情な現実はやってくるのです。
勝先生は軍艦奉行になってからも心の広いお方ですから、素性の怪しい者でもやる気さえあれば構わず受け入れてきましたが、それが仇となるのです。
池田屋事件や禁門の変など、幕府に対する反乱が続いたことで状況が変わってきたのです。望月亀弥太さんや北添さんなどが関わっていたことが幕閣の耳に入ったことが痛かったのです。
勝の私塾が謀反人を養う巣窟になっていると疑われたのです。
更に、神戸海軍操練所の稽古船・観光丸に乗り込む水夫の防寒用として大量の毛布を購入(高松太郎の仕事です)したことについて、負傷した長州兵や不逞浪士を匿うためのものと疑われました。
勿論勝先生は根も葉もないこと弁解したと思いますが、疑いは晴れるどころか門人を調べれば調べる程に疑いは濃くなり、遂に、
元治元年(1864年)10月22日、勝、江戸に帰還命令が下る。
元治元年(1864年)11月10日、勝、軍艦奉行罷免される。
慶応元年(1865年)3月、神戸海軍操練所の閉鎖を宣告。
となりました。勝先生は禄高二千五百石の大身から、僅か百俵の貧乏旗本に逆戻りしてしまいました。
これは衝撃です。開校したのが昨年五月ですから一年経たずにこれですよ。藩からきちんと派遣された者は、藩に帰れば済む話ですが、龍馬を代表する怪しい人たちは帰る所ないですから、いきなり路頭に迷います。
せっかく掴んだ希望が、絶対だと思っていた人が根っこから消えてしまうなんて。信じられんちや。これを絶望というのでしょう。お先真っ暗です。
とっとと寮から出て行かねばなりません。何の保証もなく、お金もさほど持ってません。お龍はどうしよ。腹は直ちに減りだします。もう酒も飲めなくなります。すっかり忘れていたあの惨めな浪人時代が再びやって来るのです。その上にわし、脱藩の罪があるんじゃった~!
「わしはこれから、どうすりゃあええんじゃ~! 」
叫ぶ龍馬と仲間たちでした。この先は第4部になります。
坂本龍馬について調べていたら、予想外に長くなってしまいました。あまり長くなっても読みにくいかもしれないので、分けました。
当時の世の中は、まぁすったもんだしていたことがわかりました。龍馬についてだけでなく、その他のことも極力脚色を排除したつもりなのですが、それでも面白いと思いますよ。特に長州。 ( ´∀` )




