なぜ主人公最強なのか?なぜストレス展開が嫌われると言われるのか→完結しないからじゃね……?
突然ですが、アニメ化やノベライズ、コミカライズという物をご存知でしょうか。
あれ、媒体ごとで同じ物語でも見せ方が変わったりしますよね。
小説でさらっと流した会話シーンが、コミカライズでは情感のある描写になっていたり、かと思えばアニメでは見栄えのするシーン優先でカットされたり。
なぜ、こんな事が起きると思いますか?
見た目がまず違うんだから当たり前、というのは確かにその通りです。
けど、メディアミックスなら話の内容は同じ。
なら、小説に書かれた描写をそのまま書いている通りにアニメ化しても同じように面白い筈ではありませんか?
漫画のシーンをそのままアニメにして成立する筈ではありませんか?
でも現実にはそうならない事も多い。
メディアによって、求められる見せ方が変わる。
小説が文章で見せる媒体なら、アニメは映像と音で見せる媒体。
だから、見る人達が求める物も違うし、描かれ方も違う。
つまり、同じ内容であってもどんな形で発表するかで書き方は変わる。
『発表する環境は作品に大きな影響を与える』
作品に大きな影響を与える環境について、もう一つ。
ある作品に触れる時、リアルタイムで追いかけている人と完結してから一気に見る人では作品が与える印象は変わったりするのはよくありますよね。
他にも、時代の変化によって過去の作品が再評価されたり、過去には偉大な作品とされていたものが権威抜きの現代目線では陳腐に見えたりするパターンもある。
昔は好きだった作品が今は退屈に思えたり、その逆もありふれている。
つまり、ユーザーがいつ・どこで・どのように作品を見るかは、ユーザーの感想を大きく変えうる。
『どんな環境で触れるかによって、同じ作品でも評価は変わる』
こういうのを考えるにつれ、思った事があります。
なら、ユーザーからの人気を勝ち取ったジャンルのお約束は、発表する環境に噛み合った見せ方で定着していくのでは?
それは小説家になろうも例外ではなく、「小説家になろう」という環境だから人気になりやすいものがあって
逆に……人気になりにくい物があるのでは?
ところで、「小説家になろう」で不人気な展開といえば……そう、ストレス展開!
漫画……特に週刊少年ジャンプはよく引き合いに出されて「なろう(or今のラノベ)だとこういうのは好かれなくて~」と言われますね。
やはり、多く話題に上がるのが「苦戦」「敗北」「挫折」とかでしょうか。「味方キャラの死亡」「絶望的に強いボスキャラ」「洗脳」なども入るかもしれません。
ここで大事にしたいのが『なぜ?』です。
なぜ、違いが生まれたのか。
そこには積み重ねた環境や歴史の違いが存在する筈で、その具体的な違いを明らかにすることは、小説家になろうという場所をより深く理解できる一助になるかもしれない。
先に言っておきますが、この界隈でこれらが滅茶苦茶に嫌われている訳ではない事を私は知っています。
こういった要素を含む作品が人気になれないと考えるのは、なろうを固定観念から来るシングルストーリーで語りすぎでしょう。
とは言っても、実際に「主人公が苦戦する回を書いたらPVが減った」というのは時折語られており、一面の事実を含むようです。
チート、とか最強、というのが人気なのも明らかな事実です。
小説家になろうという場がどんな環境で作品を発表しているかを考えた時、何が浮かぶかといえば
はい、連載ですね。
短編もそれなりに投稿されていますが、やはり華は長編の連載タイトルにある。
この形式、他で手広くやっている所はどこかと言えば、漫画と答える人が多いでしょう。
小説に比べると、ずっと連載でやってきたのが漫画です。
(オリヴァー・ツイストとかモンテ・クリスト伯の話は一旦置いて、現代を軸にしていきます)
具体的に、漫画雑誌(特にジャンプ)となろうにおける連載小説において、最も大きな違いはどこでしょうか?
ストーリーや、歴史的な背景の違いではなく、発表方法や環境の違いは、どこにあるのか?
こう考えた時、私の中で明確な違いとして真っ先に頭に浮かんだのが、更新停止、俗にエターナル。
何かの都合で、更新がかなり不定期になったり、作品が完結する前に更新されなくなる事はなろうでの日常です。
人気作品が更新されなくなった。
これは、webで作品を見ていれば小説以外でもよく見かける光景だと思います。
となれば、我々がweb小説を読む時、頭の中には「この話はどこまで更新されるんだろう」という懸念が存在する筈です。
少なくとも、いつも毎日更新していた作品が二日三日更新されなくなれば、続きが書かれなくなるかもと思うくらいの事はあるでしょう。
でも、漫画の場合はそうではない。
例えば、日本で有数の人気を誇る海賊漫画がですね、ある日突然、音沙汰もなく連載が止まってしまうと考える人間はそう居ないでしょう。
作者の身に何かが起きない限り、主人公が海賊王になる所まで書かれるし、敵との闘いは決着する。
ごく稀に休みを挟みつつ、毎週月曜日という完全なる定期で次の話が発表されるのが半ば約束されている。
確かに、連載漫画の場合は打ち切りがよくあります。
打ち切りでも更新停止でも、先の話が読めなくなるのに違いはありませんね。
が、両者は似て非なるもの。
何が違うかって、商業誌の人気作品が打ち切りになる事例はそう頻発しませんが、webの人気作品が更新停止や不定期化することはよくあるでしょう。
漫画雑誌というのは商業かつ紙媒体なので、作者の事情では更新を止めるのも遅らせるのも難しい物です。
漫画雑誌の世界の常識では「話の続きが更新される事は当たり前」
しかも、これは締め切りという厳しい定期更新制度の上で成り立っているのです。
休載を連発する人気作家が半ばネタにされる程度には珍しく、人気作の打ち切りなどあった日には大騒ぎになるでしょう。少なくとも、大人気連載中の作品の更新を心配する読者はそう多くはない。
これに対して、アマチュア主導の創作サイトはクリエイター側の様々な事情に作品の更新が左右されやすいのです。
作品をどんなペースで、どうやって、どれくらい作るのかはクリエイターに選択権があり、望めばいつでもやめられる。
少なくとも、この界隈では「話の続きが更新される事は当たり前ではない」
この「続きが存在する事が当たり前であるかどうか」は、連載形式・日常かつ定期的に消費される創作物という、割と近い両者を隔てる大きな大きな溝になっている。
そうは考えられないでしょうか。
連載漫画の雄であるジャンプには、友情・努力・勝利という標語があります。
正確ではないと言われる事も多々ありますが、ここには重大な含意があるのではないか。
週刊連載漫画、という発表の仕方を考えた時、この三つには深い意味があるのではないか。
雑誌での週間連載に求められる所をジャンプで考えてみると「主人公たちの勝利までの過程を期待して見守る」のはかなり大きなポイントに見えるでしょう。
「『努力』と『友情』で困難を乗り越えて『勝利』する」コンセプトの話と捉えると分かりやすい。
今、これを書いている時にもジャンプの連載作品では幾つかの作品でギリギリの戦闘が行われており、どう決着するのか見守っています。
主人公の苦境万歳! 一体どうなるんだろう……! なんて楽しさがそこにあります。
どれもこれも続きが楽しみで、どんな風に話が進むかが気になる。
これこそ、次回も買って読もうと思わせてくれる見事な生存戦略。
雑誌なり書籍なり、本を定期的に買って貰う為の立ち振る舞いと呼べるでしょう。
ところで……なぜ、次の話を待って見守れると思いますか?
そう、続きがあるから。
「勝利」にせよ「敗北」にせよ、仮に打ち切りであっても何かの形で決着が描かれるのは確定している。
先達が積み重ねた「連載と完結」の成功体験の数々が、読者に続きを期待させる価値観を作っている。「主人公が苦境に陥るのは面白い」と思わせている。
アマチュア創作の舞台で同じ事をする場合、話が続くのは常識ではないので、作者個人への信頼感がより重要になっていきます。
「この人はちゃんと話を決着させてくれるだろう」
それがなければ、先の話を見守る気持ちは急速に落ち込んでいく。だって先の話は存在しないかもしれないから。
この状況では、いざ作者的には続きを楽しみに待って欲しそうな話……代表的な物でいえば、リベンジを前提とする「敗北」や「挫折」が来た時に、読者に続きを期待して貰うのは難しくなる。
読者はストレス展開に弱いのではなく、次回更新が確実ではないと知っているから「逆転勝利を前提にした苦境で続きが気になる展開」と「後味が悪い終わり方をする話」の区別が付けにくくなっている。
その場合、続きを期待できる展開よりもその瞬間に楽しめる物がより大事になったとして、何の不思議があるでしょう。
「続きを待たなくて良いもの=すぐに結果(バトル物なら勝利)が出るもの」を求める傾向が強まるのは、ごく自然ではないでしょうか。
(こういった風土が「主人公の苦境って面白くないな」という方向に読者の価値観を誘導し、結果的にストレス展開を忌避する感覚として根付いた面はあるでしょうが、根底にあるのはこれが大きいのだと思います)
さて、雑誌連載の漫画と、web連載の小説についての話はひと段落として。
では、もう一つweb小説と比較したいのが、書籍の小説ですね。
こちらを連載作品と比較して大きい物として、基本的には一冊単位で話が完結する物が多い、という点ではないでしょうか。
すべてには当てはまりませんが、シリーズものも含めてとりあえず一冊で一つの話として読める様になっているのが基本的な発表の仕方でしょう。
この形式では、一冊の中で事件発生から解決までが大体描かれる。シリーズものの場合は、一個一個の事件が大きな陰謀の中にあったりなかったりする訳です。
そして、この一冊で一つの話になる発表の仕方、どんな風に読まれ評価されているのかと言えば
話の最初から最後まで、纏まった一冊としての完成度が重視されています。
「続きへの期待」より「その一つの話がどれほど面白いか」を優先しやすい。
推理物はこういった傾向を示す典型の中の典型でしょう。
パズルとも言われるジャンルだけあって、答え合わせを意味する「完結」は他の多くのジャンルよりも優先順位が高くなります。
名作『十角館の殺人』でも言われていた様に、古典的なミステリーには序盤から終盤までのテンプレが存在しており
とある場所に集まった登場人物達
→次々に殺されていく人々(殺人鬼と一緒に居られるか!私は自分の部屋に戻るぞ!など)
→探偵と犯人が生き残って犯人が判明
→最後にトリックの種明かしをして終了
という、お約束の流れが一冊の中に凝縮され、その枠内でギミックを張り巡らせていた過去があります。
一度は社会派に圧されていたこのテンプレを復活させたのが『十角館の殺人』などの新本格、これが人気を博して更に広まったのが現代なので、ミステリー畑の人間でなくてもこのテンプレを目にする機会は多いでしょう。
もちろん同じ事は他のジャンルにもあり、何らかの完結を前提にしたテンプレが存在する。
恋愛物なら主人公達が結ばれる所がラストに用意され、活劇物なら悪党を罰してハッピーエンド、のような、話を終える事が当たり前だからこそできる構成が当たり前に存在します。
こういった事から見える様に、特に一般文芸における小説とは
=最初からオチまで一気に読める物、として定着しています。
なので、最後まで話を読み切った上で面白かったかどうか、が話の良し悪しを語る上で重要になってくるわけですね。
一回の刊行、言い換えると一回の更新で読者に提供する文章量が連載物とは比べ物にならない程多いのもあるでしょう。シリーズものの一冊と連載物の一話では求められる物が全く違うのは当然です。
こうした既存の小説の常識として定着した「一冊での評価」という評価軸を、小説家になろうという場はほぼ持っていません。
何故なら小説家になろう自体は書籍の形態を取っていないのです。
(その為か、俗になろうのテンプレと言われる物はだいたい序盤~中盤までのストーリーがお約束として存在しますが「どう作品を終わらせるか」という点は未発達な面があります)
発表する環境が違うと、評価軸も書き方も変わるというのが色濃く出ていますね。
こうして考えると、表現は発表の場という制約を受けており、
我々が普段「面白いとはこういう事だ」とする価値観には、発表環境が由来である物がたーくさん含まれているのが見えてきます。
一冊の書籍としては一冊の完成度を、定期刊行なら続きを読んでもらう為の引きを、という訳で。
発表環境に応じた自然淘汰を生き残り、繁栄したものが業界の「かくあるべし」を生み出している。
そう、小説家になろうは一つのwebサイトであり、人間が集まる場です。そうである以上は大なり小なり独自の文化が、価値観が、常識が存在しています。
小説家になろうは毎週放送されるテレビアニメや定期刊行の漫画雑誌とも、シリーズ刊行であるライトノベルとも全く違う環境下にあり、これが旧来の読書体験との違いを産んでいる可能性は、十分にありえるのではないでしょうか。
間延びしがちな展開も、ストレス展開を忌避する傾向も、毎日更新も長文タイトルも何もかもが、環境に応じた生存戦略の結果・必要が生んだ発明。
ここ数年で思い浮かぶ大きな発明といえば「ざまぁ」タグですね。
あれ一つで、避けられがちな序盤でのストレス展開を「逆転勝利を前提にした苦境」なのだと意識付けられ、少なくともざまぁ達成までは更新をするという宣言としても有効に働いている。
そうして見ると、創作は人間と同時に場所が作っている物だと思えてきます。
最後に書いておくと、これは更新を止めた作者への非難ではありませんし、当然、読者への非難でもありません。そして問題提起でもありません。
安定した定期更新が当たり前の物の環境ではないので、それに応じた価値観が生まれた可能性はある。というだけなのです。風土や歴史の積み重ねから来る価値観の違いに良いも悪いも存在しないでしょう。もちろん、そこには他ジャンルとの優劣もないわけです。
ああ、もう一つ書いておかねばなりませんが、作品の更新が滞り、次回更新が不明瞭になったからとて作品の価値が消える訳ではありません。
未完の作品だろうと完結している作品だろうと今まさに続いている作品だろうと、面白い物はあくまで面白い。
完全に更新停止して五年以上経つ作品を私は今も時折読み返しています。更新が年に数度あるかどうかというペースの作品も時折読み返しています。ただし、話の続きへの期待が確実に薄れるのは間違いありません。
よければ評価ボタンをよろしくメカドック
……ところであとがきにこういった誘導を差し込むのは去年から定着した様ですが、先んじてチャンネル登録誘導が存在したYoutubeとの収斂進化(同じ環境下に置かれた別種の存在が、進化の上で似た形質を獲得する事)を感じますね。
漫画雑誌の方式が全く噛み合わないかと思えばそうではなかったり、書籍としての小説が持っている方式が全く通用しない訳ではないのです。
特に前者は確実に連載が続くと読者が信じた上でなら次の話を読みたいという大きなモチベーションに繋がり、これを上手く使った作品は強固な評価を得ている様に思います。
そもそも、テレビドラマやアニメを含めたこれらは同じく「定期的・日常的に消費される娯楽創作物」なので、環境から来る多少の差こそあっても
それこそ「芸術として発表される創作物」ほど離れている訳ではない。むしろ近いくらいなんですね。なので、ある程度ローカライズすれば同じ方法が通用する可能性は非常に高い。まあ問題はそのローカライズをどうやるかなんですけど……
なろうを含めた多くがそうである様に、他所のジャンルでよく使われるやり方を柔軟に翻案して取り込むと業界に新しい方向性を与えるので、決して悪い事ではない。むしろ良い事と言えるでしょう。
※なお私自身はひとまずの完成品が出来上がってから投稿する主義(と、いうよりはプロローグとエピローグを先に書いて間を詰めていく書き方)なのでほぼ更新停止の経験はないのですが、お恥ずかしながらあまりのつまらなさに完成していた作品の投稿を途中で投げた事が一度だけある事を告白いたします。ねんのため。
また、本文になろう批判の趣旨はないので、私のスタンスを自分の感想返しから引用しておきます。
>ジャンルや環境ごとに導き出された多様な常識、沢山の「かくあるべし」があるから表現は面白いと思います。
※そして最後の最後ですが、個人の作品レベルで言えば結局は腕次第で、環境的な不利をねじ伏せる事のできる人間というのは存在します。我こそはそうならんとする事にはロマンがありますね。
ただ、傑出した個人というレベルでそれが可能である事と、風潮として可能であるかどうかは全く別の話なのです。