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一角に立つ企鵝

作者: 春夢桂一

「で、真面目な話って?」


 乾いた唇を舐めようとしたが、口の中まで乾いていて、ただざらついた舌でざらついた唇を舐めるだけになってしまった。

その唇の皺を感じ取れるくらいには感覚が鋭敏になっている。

そうなってもしかたがない、はずだ。

なにせこれからする話は、長年誰にも相談できずにひとりで抱えてきた、心の話。

自分の内側をさらけ出すのは、相手が母親でも――母親だからこそ――緊張する。

それでも言うって決めたんだ。

言って、一緒に解決策を考えてもらわないと。

冷たいお茶で口内を滑らせてから、私は話し始めた。




 それに気付いたのは、小学六年生の夏休み。

まだ私の人生になにも支障がなかったときまで遡る。

その夏は、少し特殊な宿題が出た。

毎日何時間、何を勉強したかを日記にして提出する、というものである。

普通は『ひとこと日記』みたいな日付と天気と適当な言葉を一ヶ月並べるだけの宿題なのだが、最近の子供は学力が低下している、とかなんとかでそういう宿題にしたらしい。

確かに、ひとこと日記よりは意味があると思う。


 さて、ここからが問題なのだが、私は夏休みの宿題は、夏休みが明けるギリギリに全てをこなすタイプだった。

だけど、最後の夏休み。

最高学年らしく、夏休みに入ったらすぐ宿題を終わらせようと思っていた。

しかし、結果はそうならなかった。

机に向かって宿題を広げると、手が動かないのだ。

最初はただ気分が乗らないだけだと思っていたが、いくら時間が経ってもその手は動かない。

手が動かないなら頭の中で問題を解こうとしたが、今度は頭が働かない。

ただ、ぼうっと宿題を広げているだけ。

そのまま一時間、二時間と経っていき、今日は宿題を断念する。

そんな生活が夏休み二週間前まで続いた。


 さすがにその頃になると、もしかしたら私はこのまま宿題ができずに夏休みを終えてしまうのではないか。

そう焦り始めたとたん、今までに感じたことのないような寒気が体を襲った。

本当は寒くないのに体が震え、心臓が締め付けられるように痛くなる。

鳥肌が立ってないのに全身の毛が逆立つような感覚。

定期的に訪れる頭痛。

危機感を感じて、机に向かう。

もはや形だけの日課になっていた。

宿題はやっていないものの、クラスの誰より椅子に座っていると自負していた。

今日もできなかったらどうしよう。

そう思うだけで、寒気がより強くなる。

歯も震えだし、なんとか唇を噛んで抑えた。

そして、なんとか鉛筆を持ち、プリントに右手を下ろした。

驚くべきことに、そのプリントからカイロのような暖かさを感じた。

右手に伝わる温もりが、じわっと体中に伝わっていく。

いつの間にか寒気は消え去り、普通に宿題もできるようになっていた。

これが、私の抱えている症状だ。

日記の宿題に、一ヶ月分の嘘の時間と嘘の内容を一気に書いたことを今でもはっきり覚えている。


 次は、中学と高校のテスト期間。

さっきの話からだいたい想像できると思うが、やはりテスト二日前までなにもできなかった。

できるようになったのは、嫌な寒気を感じたときから。

中学や高校のテストは、たかだか二日でどうにかなるものではない。

しかし不幸なことに、それしか勉強してなくても、私は程よくテストを解けてしまっていた。

そのせいで高校は進学校に通っているし、大学も国立を受けることになった。


 そして今、高校三年生の十二月。

まだ私にはいつもの寒気がこない。

受験勉強などいっさいしていないのに、まだ寒気がこない。

なんだかんだでまた大丈夫、という経験と、国立大学はいつもみたいに運良く受かるような場所じゃない、という焦燥が頭の中でせめぎ合っている。


 勉強したいのに、できない。

私はあの寒気が嫌いなのに、その寒気がないとなにもできなくなっていた。

もはや、寒気がしないときは机にすら向かえなくなった。


 だからとうとう母親に相談することにしたのだ。

今までは、こんなこと誰にも信じてもらえないとずっと自分の中に留めていた。

しかし、このままでは大学に受からないことはわかっている。

どうすればいい。

どうすればいいんだろうか。




「……っていうことなんだけど」


 私は全てを母親に打ち明けた。

こういう話をすれば、もしかしたらまた寒気が来てくれるかも、と思ったが、そうはならなかった。

コップを握りしめ、母の言葉を待つ。


 母がいつの間にか開けていたビールをぐびっと飲んだ。

雰囲気から、そろそろ話始める、ということがわかる。

胸の辺りがざわつく。

妙な期待をしている。

しかし、気付くべきだった。


 人の話を真面目に聞いているときに、普通ビールなんか飲まないことに。

 

「真面目な話ってそんなこと? あんたいつもそうじゃない。 いつもまともに勉強しないでいると思ったら、そんな変な理由をこじつけていたの? もう十二月なのよ。 センターまで一ヶ月しかないの。 時間がないからって偏差値が上がらない理由をでっちあげるより、他にやることがあるでしょう。 いっつもそう、そうやっていいわけばかり考えて。 いい? 浪人なんかできないんだからね。 お金がないから私立も受けられないし、絶対に受かってもらわないと困るの。 それに、この前も部屋の片付けをしないで……」


 こんな話など、途中からもう聞いていなかった。

ただただ寒気が来ることを、ぼうっと母の顔を見て祈っていた。

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