第1章 セントリア 1
「今日もつまらない一日だった」
お洒落な店が軒を連ねる街中を歩きながら、叢雲ハルはそう思った。代わり映えのしない日常に飽き飽きしていた。つい二ヶ月ほど前、志望校に進学したばかりだというのに、新しい生活にもなじみ退屈し始めていた。
「何か、ぱーっと面白いことないかなー」
そう、独りごちるハルはどこかうんざりしたような顔をしていた。
今は、下校途中だった。学校でそれなりに親しくしている友人たちと、残念ながら帰り道が違う。一緒であれば、どこかへ寄って帰ったりして、こうもハルが退屈と嘆くことはなかったかも知れない。が、ハルが求めるものは少しというか大分日常とは違っていた。
「こー、命の遣り取りをするような」
幼さの残るどちらかといえば可愛い顔をハルは不満げにし、物騒なことを口にした。
中背の線が細いハルの身体は、これまで命を賭けるような目に遭ったことなどないことを、物語っていた。ただ、漠然とハルは刺激を求めているに過ぎない。それは、映画や小説などに出てくる主人公を自分もやってみたい、現実とは違った世界で生きてみたいといった、少々幼い思いだ。
「剣道、続けてればよかったかな……」
ハルは、高校生になってどこの部活にも属していなかった。
中学時代、主将を務めていた女生徒も一緒の高校で、ハルが剣道を続けないと言ったら怒っていたものだ。これまでのがんばりが無駄になる、と。そう言われても、ハルはなんとも感じなかった。汗臭いことを嫌った。そのくせ、命を賭すような何かを求めているのだから、大分虫がいい。
西日が赤々と照りつける夕暮れどき、ハル同様下校する学生や主婦で周囲は喧噪に満ちていた。この時間が、ハルは好きだった。明から暗へと切り替わるこのときが。
世界が変貌する瞬間に立ち会っているような、子供っぽい胸の高鳴りを感じるのだ。街は、黄昏色に染まっている。あと少しすれば、夜は強まりもっと世界を変えてくる。
「叢雲君」
ハルを呼ぶ女の子の声が、近くで聞こえた。
「朝霧、え?」
答えようとして、間抜けな声をハルは発した。
突然、周囲の雑踏が奏でる喧噪が遠のき、全身を何とも言えぬ戦慄が走り抜ける。
何が起きたのだ、自分がどうしたのだと、ハルは周囲を見遣る。
「何だ、これ……」
それまでの世界と自分にずれが生じたような、隔絶さ
れたような変な感覚だ。
まるで、世界の変貌に立ち会ったような。
「ど――たの――くも君――」
途切れ途切れに朝霧と呼んだ女生徒の声が聞こえ、ついには聞き取れなくなる。
「じょ、冗談じゃない」
現実にあり得ない事態に陥ると、ハルは恐怖に震えた。
車道を車が走り歩道を通行人が歩いているというのに、全く何の音も聞こえてこない。自分の身に何が起きているのか、恐れるには十分だった。
すると、今度は周囲の景色が歪み始めた。
オンラインゲームで起きるラグのように、ハルの世界への接続が途切れたようなおかしな感じだ。
声をかけてきた女の子――中学時代剣道部主将をしていて都大会優勝の実力を持つ、気の強そうな美しい顔立ちをした朝霧志帆の姿もぶれ透けて見えた。
ハルはぞっとなった。
あり得ないと思う。
突然、視界がブラックアウトした。
濃い霧がかかったような世界に一変する。
「な、何だよ、これッ!?」
ハルは、この事態に何が起こっているのか分からず混乱の極致に陥る。
周囲は、無味無臭で音もない。自分の身体に重力を感じない。
すると、ハルの身体が虹色のハロに包まれた。と、同時にハルは青と赤のトンネルのような場所を通過していた。何か、得体の知れない力が、ハルの中で渦巻いた。周囲から受ける圧力を撥ね除けているかのような。
青と赤が下へ通り過ぎていくことから、ハルは自分が上昇している感覚を覚える。
前方が、薄らと輝いていた。
近づくと、目を開けていられないほど眩い白い光が広がっていた。
ギュッと、ハルは目を閉じた。
再び、ハルは重力を感じた。
人の話し声が聞こえた。日本語とも英語とも違った聞き覚えのない言葉だ。何を言っているのか分からない。突然、頭の芯がキンと鳴った。思わずハルは、頭を両手で押さえる。
「セラス皇女、セントリアと同調を果たしました。成功です」
しわがれた老人の声が聞こえた。
言葉がハルの中で意味をなした。だが、何を言っているのか分からない。
「よく来た。異世界からの来訪者よ」
今度は、絹のように滑らかな声が、ハルの耳に染み入ってきた。
それは、若い女性のものだった。
おそるおそるハルは、目を開く。手と足を着いている床は、灰色の石だった。先ほどの綺麗な焼き煉瓦で舗装された歩道とはまるきり違う。
顔をハルは上げていく。
黒い布と金属を組み合わせた衣装に包まれた、二本のすらりとした脚が見えた。変わったファッションだと思いながら、ハルはその人物を見た。
「えッ!!」
思わず、ハルは絶句してしまう。
これまで見たことがない、絶世の美貌がそこにはあった。
後ろで結い両耳から垂らした月の雫を糸にしたような艶やかな銀色の髪が、この世ならざる存在に少女を煌めかせる。その銀髪に縁取られた面は、涼やかに整い美しかった。全身は、細身ながらたおやかな起伏を有している。そして、ハルを見詰める紫水晶の双眸は、黎明の空を思わせ神秘的だった。
魅入られたように、少女をハルは見詰めてしまう。これまでハルが見た。どんな少女よりも秀でた容姿をしていた。見ているだけで、目眩が起きそうだった。
布と金属を組み合わせた黒い衣装は、少女の銀髪と透くような白い処女雪を固めたように滑らかな肌を一層引き立て、よく似合っている。
「君は……ここは一体……」
少女に一瞬心奪われたハルだが、周囲をきょろきょろ見回す。
鍾乳洞のようで丸みを帯びた石が垂れ下がっていた。
ハルの周りを、半透明な青いときおり赤が走る石がぐるりと囲んでいた。
今の今まで街にいたはずなのにと、ハルは俄に混乱する。このような場所に、どうして自分がいるのか分からない。どうして鍾乳洞にいて、外国人の少女が目の前にいるのか。
「わたしは、セラス・シーナ・テイルジア。異世界の来訪者――異空騎士よ。よく、この世界に来てくれた」
セラスと名乗った少女は、混乱したハルに微笑を向けてきた。