8 託された希望を抱えて
「なあ、時也。俺さ、退院したらこの町を出てみたいんだ」
僕は春さんを凝視する。唐突にそんな事を言われて、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
――何を、言っているんだ。だって、春さん。
貴方は……!
しばらくして嘘だと気付いて、どうにもやるせない気持ちになる。
退院なんて出来ない。春さんは、もうここから一生出られない。
だって、彼の寿命はひと月を切っているのだから。
でも、それをまるで将来の夢のように語る春さんは、儚く散っていく、桜のような笑顔だった。
僕はそれを見て泣きそうになる。
何でいつもそんなに笑っているんですか。何で悲しいって、怖いって言ってくれないんですか。
でも、僕はそんな事が言えなくて、言うのはとても辛くて、胸が痛くなるような気持ちを抑えて言葉を返した。
「……そうですね。僕のところに来てみて下さいよ」
僕は、その嘘を知っていて、また嘘で返した。すると、春さんはその反応に一瞬驚いた顔をしたけど、また笑ってくれた。
そうして僕たちは優しい嘘の会話をし始めた。それが、僕たちの思い出になると信じて。
「時也の所かあ。いいな。行ってみたい。大学にも行ってみたい」
「良いところですよ。海とかが近くにあるんです」
「海!一回行ってみたかったんだ。今度連れてってくれよ」
「はい、是非」
「よっしゃあ!海確定!もしかして時也の住む所って自然に溢れてるの?」
「うーん……。どうなんでしょう?とりあえず田舎と都会の中間みたいなとこです」
「へえ?」
「ぼろい建物も多いですし、でも最近は近くに大きなお店も建ち始めましたね」
「ならここよりは都会だな」
「ですね」
僕はそう言って窓の外を見つめる。懐かしい景色、匂い、そして、人々。僕の故郷は、もう僕を忘れているだろうけど、僕は忘れていない。
この町のような田舎もなかなかいいと思う。僕がそんな思いにふけっていると春さんも窓に映る町の景色を眺める。
「この町を出て、大学に行って……。友達、作れるかな」
「出来ますよ、春さんですから」
「海、泳げるかな」
「僕は出来ませんが、練習すれば出来ます」
「出来ないのかよ。……そうだ。その雨宮さんって人にも会ってみたいなあ」
僕はそう言われて、咄嗟に雨宮さんを思い浮かべる。彼女が、春さんと出会う。
僕の大切な人達が、僕を挟んで、巡り会う。
ああ、とてもいいじゃないか。
すると、予想以上に想像は膨らむ。
雨の日に、春さんと雨宮さんと楽しく会話をする。雨宮さんは終始可笑しそうにくすくすと笑って、僕と春さんで彼女を泣くまでからかってやるのだ。きっと、楽しいだろうな。何処かに出かけたり、雨宮さんの童話を二人で聞いたり。それはまるで夢のようで、事実夢だった。
きっと春さんは雨宮さんを見たらびっくりするだろうな。だってあんなに綺麗で可愛くて、儚くて……。
僕でも話せた優しい女の人なのだから。優しくて、笑顔が天使みたいで、意外と怒った顔も可愛くて……僕の大切な……。
そこまで考えて僕は首を傾げる。雨宮さんは、僕にとって大切な、何なのだろう?
友達?……違うような気がする。知り合い……?知り合いにしてはよく話しているし違う気がする。
僕はそこで気がついた。僕にとって雨宮さんとの関係は、未だ不明な事を。
「どうした?」
急に黙りこんだから心配されたのだろう。春さんに優しい声で聞かれた。
「……いえ。何か、僕と雨宮さんの関係がよく分からなくて」
「お?おお?それはあれだ、そのうち気付くんじゃない?自分の感情に素直になったら、きれいさっぱり関係が分かるさ」
「……そうなんですか?」
「そうだ。……昔読んだ本にこんな言葉があるんだ。“自分の気持ちに名前をつけるのは他人から言われた時でも、今自分が思っている時でもない、全てが上手く整理されてから名前がつくんだ”、って。だから頑張れよ」
「は、はい」
何を頑張るのか分からないが、僕はまあいいだろうと思って春さんの言葉を胸にしまった。相変わらず本をよく読んで僕に格言を残していく人である。
ふと時計を見ると、そろそろ帰らなきゃいけない時間だった。
本当はもっとこの場にいたい。最後だから。きっと明日から僕は何でもないような顔をして、半ば縁を切られた義理の両親から彼の訃報を待つ日々を過ごす事になるだろう。でも、時間は無慈悲に進んでいった。僕は少しだけ躊躇ったあと、ようやく口をきけた。
「そろそろ、帰らないと」
「……そっか、もうそんな時間か」
「はい……」
僕は、こくりと頷くと、春さんをじっと見た。それは、これからも、春さんを忘れないようにするためだった。
春さんがどんな人でどれだけ僕にとって大切な人なのか。
僕にどんな事を残してくれたのか。
どれだけ、僕の大切な人だったのか。
様々な思い出と感情を身体の中で巡らせていると、自然と口から言葉が溢れていた。
「ありがとうございました。ずっと、ずっと。僕、春さんには感謝してもしきれません。今までも、これからも」
それは、最後に向けた言葉だった。そして、春さんはそれを聞くと、こくこくと頷いてくれる。
「俺だって。時也が本当の弟みたいで楽しかった。今までありがとう。
……本当に、ありがとう」
「はい」
僕は頷くと、立ち上がる。いつまでもここに居られない。外では美代子さん達が待っていて、僕には時間がない。いつまでも、その時までずっと居たいのに僕は、春さんの最後を看取る事は出来ないんだ。
僕は会釈して扉に向かう。
すると、春さんは僕を呼び止めた。振りかえって何ですか?と言うと、春さんは酷く言いにくそうに、でもその言葉を僕に贈る。
「一回でいいから、兄さんって、言ってくれないかな」
「……!」
それは、僕にとって今まで呼びたかった春さんへの言葉だった。
言って、いいのか。僕なんかが、その言葉を。
僕と少しだけ血が繋がってて、兄のように僕を可愛がってくれて。
でも、家族だなんて言葉とは遠い、この僕に。
少しだけ泣きそうな顔をしながらそう言った春さんを見て、自分まで泣きそうになる。ああ、そんな悲しい顔をしないでくださいよ。僕だって、僕だって。
僕は頷くと、口を開く。
「兄さん。ありがとう」
「……ああ。ありがとう、時也。俺の、弟。さよなら」
僕は、それを聞くと、急いで部屋を出た。溢れてきそうな何かを抑えるためだった。僕は、最後の最後に、彼の弟になったのだ。
彼は、最後の最後で、僕を弟にしたのだ。
美代子さんに、雅彦さんに僕の存在を否定され続けて、春さんはそれを知らない振りして受け止めて、僕の傍に居た。
兄弟のようで、兄弟になれる訳ないと思ってた。
だって、僕には春さんは大きすぎる。
愛されて育って、大事な家族が居て、僕にはないものを多く持つ人に僕は、春さんのものを分け与えてもらったんだ。
もう海にも行けないだろう。大学にも通えないだろう。雨宮さんにだって会う事は叶わないだろう。春さんは、あまりにも夢を持ちすぎた。
僕へ、夢を託しすぎた。これから本を読んで、たいして上手くもない病院食を食べて、ただただ残された時間を見つめながら過ごすに違いない。
彼にはもうあの世への迎えが来ている。僕には見えない何かが見えているのだ。それを僕はどうこう出来ない。
出来るのは医者と春さん自身だ。
でも、春さんは旅立つという。
だから、僕は素直に受け止めなきゃいけない。春さんの事実を、これから起こる事を。
それを受け止めるのは難しいだろう。二度と会えない春さんに、泣きべそをかくだろう。でも、それでも僕はここで立ち止まっていてはいけない。
だから、これからは春さんの分まで、弟として生きる。春さんの出来なかった事を、僕がやってみたいと思う。
いや、やらなくちゃいけない。
ぐっとこらえて決意すると、下の階に下りる。するとそこには雅彦さんが居た。美代子さんは今、席を外しているらしい。
「……ありがとうございました」
「……何の事だ。私は何もしていない」
僕はその言葉を聞いて笑った。
それを見て、雅彦さんも少しだけ笑ってくれた。雅彦さんの笑顔を初めて見た気がする。
不器用な優しさが、僕の心を温かくさせた。春さんの優しさはきっと雅彦さん似だろう。良いな、親子って。
僕は美代子さんに会う事はせず、その病院を出た。美代子さんには会わない方がいいと判断したからだ。きっと、悲しくさせてしまう。嫌な気分にさせてしまう。
でも、そんな気遣いも無駄だった。
病院の玄関口にしゃがんで俯いている美代子さんを見つけたからだ。
「……美代子、さん?」
「……ッ!」
僕が唐突に話しかけたのがいけないのか、美代子さんは咄嗟に顔をあげて僕を見る。
その頬は心なしか濡れているように見えて、僕の心を痛くさせた。
「……え、っと……」
「……言いたい事があるなら、言ってちょうだい」
「いや、そんな、」
「いい歳した女がこんな所で何泣いてるんだって思ってるんでしょう」
「そんな事思ってません」
「……フン」
美代子さんは顔をそむけると丁寧に頬をぬぐった。
そうして立ち上がり、僕に向き直ると何か言いたげな視線を送って来る。
「……えっと……。何でしょう……」
僕は内心、先ほどの事で何か言われるんじゃないかと冷や冷やしながらそう問いかける。
すると、そんな様子が彼女に見えていたのか、ため息をつかれた。
「そんなに怯えないでちょうだい。……仮にも、貴方の母親よ?」
「あ……」
「……ねえ、時也。春は、本当にもう少しでこの世を去る子なのかしら」
そう言って震えながら美代子さんは地面を見つめた。
僕はそんな彼女の様子に驚きを隠せない。
こんな美代子さん、初めて見たからだ。
彼女はいつも毅然としていて、うじうじしたりしない。僕はおろか、春さんや雅彦さんにだってこんな弱々しい姿は見た事ないだろう。
いつも強い人なのだから。
なのに、こんなに肩を震わせて、泣きそうな顔をしている。
事実、先ほどまでそれは流れていたに違いない。
そんな義母の姿に、どうしていいか分からなくなってしまった。
「僕だって、信じられません……」
「そうでしょうね。だって、あんなに元気に見えるもの」
「ええ」
「でも、確実に春は弱っていっているわ。誰も気付けないくらい、ゆっくりと。私はそれが怖くて怖くてたまらない」
「……美代子さん……」
「また、貴方の両親を失う時のような感覚に襲われると思うと、不安でたまらない。たまらないの……!」
美代子さんはそう言うと、再びしゃがんでしまう。顔を両手で隠して、どうにもならないと言うように首を振り続ける。
「貴方の両親は私にとって大事な人だったのよ……。大切な妹、大切な私の好きだった人」
「母さんを、恨んでいるんじゃなかったんですか……?」
「恨んでるわよ。でもね、違うの。貴方は聞いた事ないかしら。愛情と憎しみは裏表って」
「……愛情と、憎しみ?」
「紙一重なのよ、結局。私は愛する妹があの人と結婚した時、もうそれならしょうがないと思ったわ。奪われた憎しみは消えないけれど、やっぱり妹も大好きだったの。それに、あの人のあんな幸せそうな顔を見たら、こっちだって嬉しくなっちゃうわ」
「じゃあ、何で、」
僕に、あんなにきつい視線をいつも送っていたんですか?
そう聞きたくて僕は口ごもる。
どうやったって聞けない。僕にはいつも、そんな勇気を持ち合わせていないのだ。
すると、美代子さんは苦笑する。
「貴方のその、言いたい事があるのに口ごもる所は悪い所よ」
「……分かるんですか」
「そりゃあ、勿論よ。でも、そうね。答えてあげましょう」
どうやら、僕の考えを見通していたらしい。何だかんだ言って僕の事をよく見てくれていたみたいだ。
「あの人が私と結婚していたら、あの事故はなかったかもしれない」
「……そんな、」
可能性の問題。
母と父が結婚せず、父が美代子さんを選んでいればあの事故はなくて、大好きな妹も死なずに、あの人と幸せな家庭を築けた。
そんな、ささいな運命という可能性の問題だと美代子さんは言いたいのだろう。
今度は僕が俯いてしまう。そうしたら、きっと僕もいない。それは、何とも言えない。
「可能性の問題を考えて恨んでもダメだって本当は分かってたわよ。雅彦さんに失礼だしね。……でもね、どうしても貴方を見るとそれがちらついて仕方なかった」
「……すみません」
「今更よ、気にしないで。それに加えて春までこの状態よ。私の大切な人は、みんな居なくなってしまうのね」
美代子さんはどうしようもなく悲しそうに眉を寄せる。
知ってる。知ってますよ、美代子さんの気持ちは。
だって、彼女はいつだって春さんに愛情を注いでいた。
溺愛と言っても可笑しくないくらい可愛がって、でも病弱でいつも不安だったんですね。
僕にそれを隠して、僕まで育ててくれて。
美代子さんは、やっぱり優しくて、良い人だ。
「春が貴方と居る時、楽しそうなのを私は知っているわ」
「そんな……」
「弟みたいで可愛がっているのよ」
「僕も、春さんを兄のように慕っています」
「ええ。だから、かしら。この数年間、貴方が居なくて春は寂しそうだった。随分前に手術もしたんだけどね、その時も貴方は来ないの?って」
僕はそれを聞いて目を見開く。
僕が居なくて、寂しそうだって?
そんな、まさか。
「だから最後に貴方と会えて春も良い思い出になったと思うわ。……ありがとう」
「……ッ……!」
美代子さんに、初めてありがとう、と言われた気がする。
それは意外にも温かくて、心地よくて、
そして何故か、ほんの少しの寂しさがあった。
「僕こそ……ありがとう、ございます……」
「フン……。ほら、行きなさいな。もう貴方に用はないのだから」
「はいっ……!」
この日、ようやく美代子さんの優しさに触れた気がした。
それはちょっとだけくすぐったいもので、春さんの事で落ち込んでいた気分を戻す事が出来た。
美代子さんと雅彦さんはきっと、これから春さんと向き合って更に辛い思いをするだろう。
そんな時、僕は二人に何かしてあげられるようにしたい。
春さんと、美代子さんと、雅彦さん。
僕の大事な家族に感謝をしてそう決意した。
そうして僕は故郷を再び離れた。決意と、悲しみと、少しの懐かしさを連れ去って。
やがて時が経って、春さんの訃報を聞いてその時こそ大泣きする事になるのだけど、それはもっともっと、後の話だった。




