7 僕の家族は
その病院は電車で三十分、歩いて五分の所にあった。最寄り駅から特に入り組んだ道もなく、真っすぐ進むとすぐにたどり着く。
わりと大きく地方でそこそこ有名な、綺麗な印象を受ける病院だ。
昔から来ている病院だけあって、何一つ変わっていないのは嬉しくもあり、何故だか悲しくもあった。
途中で昔、春さんが好きだったケーキを思い出し、少しの寄り道をして病院に向かう。
僕は雅彦さんの手紙を見てここまでたどり着く事が出来た。念のため、という彼の性格が出た手紙に感謝しなければならない。
手紙に書いていなくてもきっと、昔から馴染んだ病院といえばここしかないのだから、きっとすぐ見つけられただろうけど……。
でも、さすがに病室の番号は書いてなかった。
僕は病院を見上げながらこの地について思い出す。
一応故郷なのだから、ゆっくりと見て行くのもいいだろう。帰りに心の余裕があれば、だけれど。
自動ドアが僕を迎え入れて、病院の中に少しだけ臆しながら進む。ひどく懐かしくて、苦い思い出達が溢れてきた。
昔、春さんと駆けまわった事や、深夜に泣きながら春さんの無事を祈った事。
それらはやっぱり彼なしじゃ語れない苦くて、切ない、だけど忘れられない思い出だ。
僕はその思い出達を無理やり振りはらってナースステーションに向かう。
中に入るとすぐに受付があり、僕は春さんの名前を言って受付の人に聞いてみる。
「赤瀬春さんの病室を知りたいのですが」
「……ご家族の方ですか?」
「はい、赤瀬時也と言います」
僕はそう言われて、身分証を出した。すると、受付の人は身元が特定出来たことで大丈夫だろうと思ったのか、こくり、と頷くと春さんの病室を調べ始める。僕はその間に身分証をしまった。
身分証を提示しなくたって通してくれるだろうけど、何かと聞かれるのは面倒だ。面倒くさがり屋の僕は、無駄な事は省きたい性質なのだから。
そして、家族じゃないと通さない理由が、春さんの現状として垣間見えた僕はそれを気にしないように努めた。
外は晴れていて、窓からは陽が差し込んできて眩しい。最近雨ばかり気にしていたから、こうまで日の光を目にするのは久しぶりだった。
「お待たせしました。赤瀬春さんですね?」
「はい、そうです」
「それなら二〇八号室です」
「ありがとうございます」
僕は頭の中で二〇八、二〇八、と繰り返して頭を下げる。そして、足早にその場を離れる。
二〇八号室に、早く行かなきゃ。
一階の端にある階段を上がって二階に出る。すると、208号室は突き当たりにあった。
その部屋には、“赤瀬春”とネームプレートが張り付けてある。僕はそれを見てごくり、と唾を飲み込む。
実に四年以上会っていない。緊張もするし、恐怖が少し出てきた。心なしか右手に持ったケーキがとても重くなった気がした。
もし、春さんが僕を忘れていたらどうしよう?そうしたら、僕は、どうやって帰ればいい?
扉の前でそうやってうだうだ考えていると、いつもの後ろ向きな気持ちが出てくる。
覚えていても迷惑じゃないだろうか。僕の事を実際は良く思っていなかったんじゃないか。不安は不安を呼び、頭を抱えてしまいそうにもなる。そうやって五分ほどうろうろしたけれど、さすがにずっとやっているわけにもいかない。
僕は後ろ向きな気持ちを無理やり押し込める。せめて、笑顔で再会したい。だから、大丈夫だ。余計な事は考えるな。
意を決して扉をこんこんとノックする。すると、中から、はーいと間延びした優しい声が聞こえてきた。
「……行こう」
この先に春さんが居るのだ。久しぶりに、会えるのだ。僕は、それを素直に喜ぶべきだろう?
大きな音を立てて扉を開ける。中は妙に綺麗で、物が極力少なくて、代わりに奥に小さな本棚があるのが見えた。そう言えば、春さんは本が好きだったっけ。
「母さん?」
春さんの変わらない優しい声が聞こえる。少しだけ声変わりをした彼の声は、それでも春さんの声だと分かる。僕はその声を頼りに奥に進む。
ずっと、ずっと、心配だった思いを押し込めるように、ゆっくりと、ゆっくりと。
「今日は検査の日じゃない、よ……?」
僕の姿を見るなり、春さんは言葉の語尾を小さくさせていった。
そこには、数年ぶりに会う春さんが居た。病院のベッドに座って、本を持って。短かった髪は伸びて、優しげな声と目元は変わらず、少しだけ、身体が痩せた。そんな春さんが目の前に居た。
春さんはぽかん、と口を開けて僕を見ると、やがてはっ、となって口を開く。
「……時也?」
「お久しぶりです。春さん」
覚えていてくれた事が分かって僕は笑顔でそう言うと、春さんも笑って飛び出さんばかりに身を乗り出した。その顔は喜びに満ちていて、僕も嬉しくなる。春さんは本なんてどうでもいいというようにベッドに放り投げてしまう。
「時也!久しぶりじゃないか……!来てくれたんだね……!」
「はい。雅彦さんから手紙を貰ったんです」
「……そか」
「……はい」
やばい、こんな事を言うべきじゃなかったか。だって手紙を貰ったって事はもう彼の命が残っていない事を僕が知っていると気付かれてしまうわけで。
春さんは優しいから、僕に心配をかけたくないから黙っていたかったのだろう。
「俺の事、知ってるってことだよな……」
「……はい」
「そっか……。あーあー暗い話はやめ!せっかく会えたんだから楽しい話しよう」
春さんはそう言うと、落とした本を閉じてベッドから下りずに本棚へとしまう。僕もうんうんと頷く。そうして僕らは、再会を祝うようにケーキを食べながら話した。
春さんは本当に重い病気にかかっていて、あともう少しで死んでしまうのだろうか。
そう疑問に思ってしまうほど、彼は元気に見えた。身体がやせ細って、咳が少し出る以外は何も異常なんて感じられなかった。
だって、ケーキはモリモリ食べるし、僕のイチゴは横取りするし、昔以上に口数も多いのだ。
でも、きっと春さんの体内には想像以上の絶望が詰まっているのだろう。僕はそれを感じ取ると、春さんを安心させるために無理矢理笑って話す。
「どう?今は大学……だっけ。楽しい?」
「楽しいですよ。女の子と話は出来ませんけど」
「おいおい何やってるんだよ。時也って草食系?」
「そうですね。女子と話すと固まる子です」
「ははっ、相変わらずだな」
春さんは笑って僕を見た。僕も思わず笑う。僕なんかと話していて楽しいのか疑問だけど、笑顔になってくれるのならそれでいい。
「じゃあ、浮ついた話とかないのか……残念だなー……」
「残念って」
春さんは本当に残念そうだった。そんな、僕をネタに楽しまないでください。
でも、さすがに言えないので黙る。そうして、僕は浮ついた話がない事を考える。最近女子と話した事は……。
「あ……」
「ん?もしかしてやっぱりあった?」
「……一応」
そう言って雨宮さんを思い出す。彼女は今唯一僕と話が出来る女性であり、最近、何だか気になる女子だった。
僕がそれを話すと、春さんは途端にニヤニヤし始めてほー、とか、そうかついに……とか言い出す。何ですかそれ止めてください。
「まあ、時也にもそういう感情はあったという事で。安心した」
「どういう感情ですか?」
「そのうち分かるよ」
雨宮さんに対する複雑な感情は実際よく分かっていない。一緒にいるとドキドキしたりもやもやしたり。よく分からなくて、でもいつまでも雨宮さんを見ていたいと思う。この感情を、春さんは分かると言うのだろうか。
「春さんに会う事を押してくれたのも、彼女でした」
「……そっか。じゃあその人に感謝しなきゃな。おかげで俺は時也に会えた」
「はい」
春さんは、少しだけ憂うような顔で言うと窓の外を見た。僕も窓の外を見た。この町に戻って来るのは何年ぶりなのだろう。この町の、全ての景色が懐かしく思える。
中学生まで過ごしたこの町は、何も変わらず僕を出迎えていてくれた。
その時だった。
入口からこんこん、と音がして扉が開いた。
僕は思わず身構える。ここの扉が開くという事は看護師さんか、あの二人だけだからだ。後者だったらどうしよう。元々、あの二人には会うつもりはなかった。
会うのは、少しだけ辛くて苦いから嫌なのだ。
「春、調子はどう?」
僕はその声を聞いて心中でため息をついた。やっぱり、そうだった。
「……母さん」
「今日は父さんも来てくれたのよ、って……。アンタ何でここに……!」
美代子さんは、僕を見るなりあからさまに嫌そうな顔をする。ああ、この顔も、突き刺さるような視線も久しぶりだ。懐かしいな。僕はそう思って会釈をする。
すると、雅彦さんも現れて僕を見た。雅彦さんは驚いたような、でも分かっていたような、そんな顔をしていた。
「母さん、父さん。久しぶりじゃない?家族こうやって全員が集まるのは」
僕は春さんを凝視した。僕を……家族と。今そう言った……?
僕はその事に少しだけ嬉しくなるけど、そんな事考えていられない。
だって、目の前にはあの美代子さんがいるのだから。口には出さなくても、嫌いだと言う感情がはっきり伝わって来る。それは、美代子さんだから発せられるものなのだ。
「何で……いまさら。貴方なにし……」
「美代子」
その時だった。ついに美代子さんの僕に対する感情を暴露しようかと言う時、意外にも雅彦さんが止めた。病室に入って扉を閉めると、雅彦さんは何かいいだけに首を振った。美代子さんは雅彦さんを見て少しだけ睨む。
だが、その視線を振り払って雅彦さんは何も言うなというように再度首を振った。
「美代子。今日ばかりは良いだろう」
「……どうして」
「今日ぐらいは、時也に自由を与えてやろうと言うのだ」
「自由なら今だって!一人暮らしにさせてるのよ!高校生から!自由にさせてるでしょう!」
「無理やり追い出したのだ。自由とはかけ離れている。……時也だって、気付いているはずだ」
雅彦さんは、そう言うと僕をじっと見た。僕はどうしていいか分からず戸惑ってしまい、視線を泳がせた。そりゃあ、確かに気付いている。僕があの家を出た日からもう、縁を切られて二度と会う事はないんだと。今までそう思ってずっと過ごしてきた。
春さんもじっと黙っていて、僕に何をしていいのか、2人に何を話すべきなのか分からないような顔をしている。
雅彦さんが僕を庇っているという事実が不思議で、凄く違和感があって。美代子さんは何とも言えない様な表情で僕を見ていた。
「……気付いてるでしょうけど。私はあなたが嫌いよ」
「……ええ」
「だって、私の大切な人を奪った妹の子よ?恨むに決まってるでしょう」
「…………ええ」
「だから、今度はあの人だけでなく、春まで奪うつもり?」
「僕は。僕は……!母ではありません。春さんを奪うだなんて、考えていません」
僕はそう言うと座っていたのを止めて立ち上がる。真剣に、美代子さんを見る。すると美代子さんは視線を逸らして悔しそうに顔を歪めた。
それを向けるのは僕じゃないでしょう?その人は死んでるでしょう?
ついに吐露した本音に僕はそう言ってやりたかった。でも、言わない。言ってはいけない。
代わりに僕は言葉を紡ぐ。美代子さんに、僕の気持ちを。僕の、嫌だと思う感情の反対の気持ちを。ずっと、伝えられなかった、この心を。
「今まで、本当に感謝しています。僕を育ててくれて、今こうして生きる事を与えてくれて。本当に、ありがとうございます」
僕がそう言うと、美代子さんは驚いた目をして僕を見た。それは、今まで一度たりとも言った事のない僕の美代子さんへの感謝だった。
僕がこうして立っていられるのも、息をしていられるのも、春さんにまた会う事が出来たのも。そして、
今こうして美代子さんと話す事が出来るのも。
僕を育ててくれた美代子さんと、雅彦さんのおかげ。
嫌っていても、最後まで見放す事なく、僕を今もずっと支えてくれる、大切な人だから。
ずっと、僕を嫌々見ていてくれた人だから。
だから、分かって欲しい。僕の感謝の気持ちを。春さんと同じく育ててくれたありがとうを。
「……何よ……。もう、」
「お願いします。今日だけで良いんです。ここに居させてください。その後は二度と会いません。美代子さんにも雅彦さんにも顔を合わせる事はないでしょう。だから、春さんと話をさせて下さい」
「……美代子」
「…………もう、良いわ。外で待ってる」
そう言って美代子さんは踵を返して扉を再び開けた。それに続き、雅彦さんが出て行くのを見ると僕は頭を下げた。最後の最後で、僕のわがままは二人に聞き入れてもらえたのだ。
扉が閉まると、僕は緊張が解けたのか、へたっと座りこんでしまった。それを見て春さんはぷ、と笑う。
「何、緊張してたの?」
「……そりゃあ」
だって、何を言われるか分からない。嫌みの一つ二つはいいけどここから出てけとか言われたらどうしようかと思ってしまった。
でも、結果的には良かった。本当の気持ちは伝えられる事が出来たし、結果オーライというやつだ。
「うん、時也カッコ良かったじゃないの?俺見直した」
「……ありがとうございます?」
僕をどう見ていたのか気になるがまあいいだろう。カッコいいキャラじゃないし。僕はそう言うと床に座り込んでいたのを止めて再び椅子に座り直す。
春さんはそれを見ると、何もかも知っていて、それでも何も言わずに黙った。
春さんは、僕と美代子さん達の関係を昔から何も言わない。ただ、静かにそこに知らない振りして庇ってくれるだけ。
傷を負った理由を知らないみたいに僕を守ってくれる。その優しさは今でも出ていて、僕とあの二人の事については一切聞いてこなかった。本当は知っているくせに、その優しさに今までどれだけ救われたのだろう。どれだけ、癒されたのだろう。
春さんは僕を見ると、笑う。あと少しの時間を惜しむように、僕も笑った。