6 一通の手紙に縛られて
最近、僕たちには小さな変化が生まれつつあった。まず、僕は傘を持っていようが、持っていまいが、雨が降っていれば必ずあの神社に行くようになった。
神社に行くと、必ず雨宮さんが先に居て、他愛もない話をする。
時折、太陽が昇っている時も神社を立ち寄ってみたりはしたが、晴れの時は決まっていなかった。それはそうだろう。雨の日にだけ会う約束なのだから。
そして、彼女は会うと必ず、僕があげた傘を持っていた。
「傘を持っているのにここに来たんですか?」
「それを言ったら赤瀬さんだって持ってきてますよ?」
つまり、雨が降ったらこの神社に集合。
そんな暗黙のルールが出来ていて、僕はそれを嬉しく思い始めていた。
嫌いだったあの雨が、最近は段々と楽しくなってきたのだ。
その変化に少しだけ不思議に思いつつも、こんな日常が続けばいいと願った。
そんなある日の事だった。
いつものように雨宮さんと話をして、雨が止んだので家に帰る。
頭の中は今日も雨宮さんは可愛かったとか、今日も雨宮さんは綺麗だったとか、自分は気持ち悪くなかったのかとか、そんなどうでもいいことばかりだった。
最近はいつでもそんな事を考えていて、頭は雨宮さんでいっぱいだ。
傘をわざと忘れる理由も、今は何となくだけれど違っているし、僕自身、変化が訪れているのかもしれない。
大学に行っても、家に居ても、結局雨宮さんの事を考えてしまうあたり、僕は病気のように雨宮さんの事ばかり。
だが、不思議と嫌な気持ちにならない。むしろ、雨宮さんの事を考えていると楽しくて仕方ないのだ。
僕は、やっぱり変わったんだな。
だがしかし、僕のその考えはある手紙を受け取った時に、一瞬でかき消された。
いつものようにアパートに着くと、郵便受けに何か入っていないか確認する。
すると、中からいくつかの手紙やハガキがちらちらと覗いてくる。
それを取り出すなり、その場でどういうものが届いたのか確認してみる。
携帯会社からのお知らせ、車を買いませんか、とかいうDM、専門学校への案内――。
そしてその中に、手紙があった。
手紙を受け取るなんてあまりにも久しぶりで、首を傾げる。
手紙なんて最近はやらない。みんなメールで済ましてしまうし、現代には割に合わないからだ。
だから手紙を送る相手の人が気になって、差出人が誰かよく見てみる。
すると、そこに書いてあったのは。
――赤瀬雅彦
僕はその字を見て、即座に家に入った。荷物も何もかもを放り出して、部屋に投げだす。
そして、手紙をテーブルの上に置くと、急いで開ける。そうして僕はその手紙を読んだ。
たっぷり十分かけて。
読んだ瞬間に、息を呑む。様々な感情が交差して、僕はめまいを覚えた。
読み終わると、僕は手紙を投げだし、床に寝転がって天井を見つめた。
「……はあ」
小さくため息をつくと、僕は手紙の内容をゆっくりと思い出す。
それは、僕を憂鬱にさせ、同時に悲しくもさせた。内容、差出人、そしてこれからの事……。
重苦しく、僕の心を少しずつ蝕んでいくこの内容は、出来れば忘れたい。
けれど、忘れられないんだ。逃げられない。
「もう、そんなに進んでたのか……」
僕の小さな呟きは、重苦しくなった空気の中でただ虚しく響いた。
僕は、その日ずっと手紙の内容が頭から離れなかった。それこそ、今まで頭の中を占めていた雨宮さんの事を忘れてしまうくらいに。
次の日、いつも通りとでも言うように雨が降って、僕は当たり前のように神社に向かった。もちろん、大学が終わってからだ。
いつもなら雨宮さんに会えるとか、今日は何を話そうかなんて事をいろいろ考えるのだけど、今日はそれが出来なかった。
昨日の手紙が結局ずっと頭から離れなかったのだ。
講義を受けている時も、昼食を食べている時も、友樹や幸弘と居る時も。霞んだ思考回路はただただ、手紙の文字を一字一句再生するだけのポンコツに成り果てた。
憂鬱な気分に、それが雨のせいではない事を幸弘が知ると、どうしたんだ?と心配してくれたのは記憶に新しい。片手に相変わらずよく分からない花を持っていたが、ホント植物好き過ぎだろ。
でも、僕は首を振って大丈夫だから、と返してしまった。幸弘は心配してその花の匂いをかがせようとしていたが、むしろそれは落ち着かないので遠慮しておいた。気遣いだけ貰っておこうと思う。
本当は大丈夫じゃない。でも、今回ばかりは幸弘に話す事でもない。これは、僕自身の問題だった。
だから、そんな憂鬱で悲しそうな顔が表に出ていたのか、雨宮さんと話している時、ふと彼女が聞いてきた。
「赤瀬さん、何かありました?」
「……え?」
「悲しそうな顔をしています」
そうやって眉根を寄せて言われて、はっとなる。両手で顔を触ると、雨宮さんの前ではあまりこういう顔をしたくなかったのに、出てしまった事に後悔する。
僕は気が重くなりながらも、大丈夫です、心配しないでください、なんて乾いた嘘を並べた。さすがにそれは嘘だと気付いたのか、雨宮さんは少しむっとした顔をする。
「ウソ。だってずっと悲しそうな顔をして、話をしても心ここにあらずって感じでした。何かあったのですか?」
若干怒った様子で言う雨宮さんは何だか新鮮だった。
こんな表情、初めてだ。
「……えっと、」
僕は少し目を泳がせて、雨宮さんを見ないようにする。だけど、雨宮さんは僕の顔を覗き込んでくる。
その見つめる綺麗な瞳に負けてしまって、ようやく口を開いた時には、僕の顔は毎度のごとく真っ赤だった。
彼女の怒ったような、だけど懇願するような表情にやられたのだ。
「ちょっと……ありました」
「やっぱり。……それは、私に話す事が出来ない事ですか?」
「……それはっ……」
聞きたいのか?こんな僕の話を。
雨宮さんを見ると、いたって真剣で、僕は少し臆してしまう。
「……何か悩んでいる様子でした。悩みは、誰かに話す事によって気が楽になるんですよ?」
……そうか。僕は悩んでいたのか。今更気付いて、苦笑してしまう。確かに、これは悩み事になるだろう。
雨宮さんはもしかしたら僕以上に僕を見ているのではないだろうか。そんな事を思って同時に嬉しくなる。自分で悩んでいるなんて気付いていなくて、ただ落ち込んでいるだけと思いすごしていたのに、彼女は僕の心を見破った。さすがというべきか。
僕は、少し考えたあと、ちょっとだけ雨宮さんの顔色をうかがいながら、幸弘には話せなかった事を、話そうと思ってしまった。
「……聞いてくれますか」
「はい。……私でよければ」
雨宮さんはあくまで真剣な表情だったので、僕は、昨日の手紙も含めて今日悩んでいる事を全て話した。その内容は、僕の近しい友人や、付き合いの長い親戚にも話した事のない、家庭の事情だった。
僕が一人暮らしをしているのは、高校生の頃からだった。高校生で一人暮らしというのは大変珍しく、学校やバイト先ではよく興味津々に聞かれたものだ。
ようは、高校生にとって一人暮らしは憧れのものであり、すでにそれをやっている僕は酷く羨ましく見えたのだろう。
何故一人暮らしをしているのかと聞かれる度、
「いろいろあって一人暮しなんだ。特に深い意味はないよ」
なんて誤魔化してきた。でも、本当は一人暮らしには、意味があった。
僕の両親は、物心がつく前に事故で亡くなった。僕はその頃まだ2歳くらいで、親族の人達が、これから僕をどうするのかを揉めたそうだ。
両親の縁者を巡りに巡って、僕を育ててくれることになったのは、母方の姉になった。
その人は赤瀬美代子と言って、すでに既婚者だった。僕を育てられるというのは、子供がいたから育てやすい環境になるという事だったらしい。
そうして僕の両親は赤瀬雅彦という養父と、赤瀬美代子という養母になった。
だけど、彼ら仮初の両親は決して僕を歓迎していなかった。
特に養母の美代子さんは、僕を嫌っているのが非常にはっきりと伝わった。小さい僕でも、それがひしひしと伝わって感じるように、嫌われているのが一目瞭然だった。
「……何で、嫌われていたんですか……?」
雨宮さんは、少し聞いちゃいけないような、でも聞きたいような、そんな表情で聞いてきた。僕はそんな雨宮さんを大丈夫ですよ、という視線を込めて口を開く。元々全て話す気だった。
「美代子さんは、僕の本当の母を嫌っていたんです」
「本当の、お母さん?それは、事故で亡くなった?」
頷いて、僕は続きを話す。これから話す事は、ありふれた、でも少し重たいものだ。
美代子さんは、元々、僕の父を好いていた。でも父は僕の母に、妹に取られたのだそうだ。そうして僕が生まれて、美代子さんは雅彦さんと結婚して。
好きだった人と、忌まわしい妹の間に出来た息子の僕は、恨みの対象でしかなかったのだ。
だから僕は、中学生まで養母に優しくされた覚えもないし、けど暴力は振るわれる事なく、ただ恨みを孕んだ無言の視線をずっと受け続けてきた。それに加えて、雅彦さんだって、妻の好きだった男性の子供なんて良い気がしない。おかげで雅彦さんと会話をしたのはホントに数回しかないかもしれない。
そうして高校生にもなると、養母と養父はそろそろ一人暮らしなんてどうだとあからさまに勧め、僕を家から追い出した。
僕が就職して稼ぐまでは、仕送りをするという形で、僕は今の形に納まった。つまり、有り体に言えば半分だけ縁を切られたのだ。
だけどこんな話は世の中に何処にでも転がっている。
昼ドラの方がもっと酷い。だから僕は可哀そうだとか自分自身を庇うような事を言いたいわけではない。
「……でも、それってとても辛いことですよね」
「そうですね。確かに辛かった時期もありましたけど、一人だけ、僕を支えてくれた人が居たんです」
僕はそう言うと、彼を思い出した。
今回こんなに思いつめて悩んでいるのは、彼の事であり、僕を一番惑わせている原因の人だ。
彼、赤瀬春は、美代子さんと雅彦さんの息子で、僕の2つ上だった。僕が小さいころから、唯一信頼していた人だ。
彼は、両親の恨みを気にすることなく、僕に接してくれた。彼は一人っ子だったので、僕は弟のように見えたんだろう。僕も彼だけは兄のように接して、懐いた。
いつも一人の時は遊んでくれて、美代子さんから責められている時は庇ってくれて、彼はとても優しく、僕の大切な人になっていった。
だけど、彼には少し思うところがあった。
それは生来病弱で、とにかく病気にかかりやすかったのだ。小さいころから彼が病気で倒れた時は看病して、入院する時も必ず付き添っていた。
そして彼は、僕が高校生に上がる頃、重い病気にかかった。入院するほどではないが、家を出る事は難しかったそうだ。
僕は心配で仕方なかったが、彼の両親とは連絡を取るのにも、両親はきっと拒む事を知っていたから、連絡なんて取れなかった。
でも、昨日、雅彦さんから手紙が届いた。
僕は、そう言うと、手紙を開く。そして、雨宮さんにも見えるようにする。
「……これ」
雨宮さんは驚いたように僕の顔を見る。でも、僕は無理して笑う。
手紙の内容は、春さんが倒れた内容だった。余命1カ月にまで病気は悪化になってしまい、彼は間もなくこの世を去ってしまう。雅彦さんは、一応僕にも伝えておいた、というような文章を書いて終わった。 そこに優しさはなく、ただ淡々と報告が綴られているだけだった。
でも、僕にはそんな事関係ない。
春さんが、倒れたのだ。
それがどういう事か分かるか?
もうあと一カ月しかないのだ。
僕は自分の心の中でそうぶちまける。
悔しい、悲しい、虚しい。
だって、
彼は、もうこの世を去ってしまうから。
僕を残して、苦しみながら。
僕が知らない間に、春さんがいなくなってしまうかもしれないから。
「春さんを、大切に思っているんですね」
「……はい。僕の大事な、兄のような人ですから」
兄、と言いたかったけど、言えない。何故だか言ってはいけないような気がした。僕には、あの人があまりにも眩しすぎる。
「赤瀬さんが悩んでいるのは、その春さんが余命あとわずかだから?……違いますよね」
「……はい」
僕は、頷いた。今まで春さんについてほったらかしにしていた後悔がある。春さんについていられなかった未練がある。でも、それだけじゃない。
「僕は、まだ春さんに伝えたい事がいっぱいあるんです。このまま、春さんと会わずに一生なんて、終われない」
言ってから下くちびるを噛んだ。僕は、少し泣きそうだった。
「会いに行かないのですか?」
「……会いに行けば、春さんの両親が阻むでしょう。僕を、近づけたくないはずだから」
「……では、春さんはどうでしょうか」
「……え?」
春さん。春さんは一体どうなんだろう。僕は、春さんと会って話がしたい。今までのお礼を言いたい。もっと、彼の仮初の弟でいたい。
そして、出来る事なら……死なないで欲しい。
「きっと、春さんも赤瀬さんに会いたいでしょうね」
雨宮さんは、まるで春さんの言葉を代弁するかのように言った。僕は、はっとなって雨宮さんを見る。彼女は、優しく微笑んでいた。
「会いに行ってあげて下さい。春さんを一人にしないであげて下さい。
大切な人と、話をさせてあげて下さい」
彼女はまるで自分の事のように、そう言うと、僕の手を握った。
そして僕の目を真剣に見つめる。僕はその瞳に吸い込まれるように見詰め返した。握られている手は温かかった。
雨宮さんは、今確かに僕の背中を押してくれた。
僕はその手を握り返しながら、こくり、と頷いた。
春さんに、会いに行こう。
後悔しないように。