4 再会した果てに
次の日が来て、大学へ行く道すがら、見つけたものがある。それというのは、悲しい事に、いや、本当は嬉しくなるはずの太陽。いつもならはしゃぎ回ってバク転の練習をしてしまうくらいに嬉しいはずなのに、今日は何だか残念な気がしてならなかった。
やっぱり、雨宮さんに会えないからこんな気持ちになってしまうのだろうか。いやいや、たかが女の人と会う約束をしただけだぞ?
……されど女の人との約束、ということだろうか。
ちなみにバク転は何回練習しても全然上達しない。
草食系男子には難しかった。
大学に辿り着いて、講義を受けていても太陽は全く姿を隠さない。いつもの友人に向けるような優しい目はせず、僕はひたすら太陽を睨んでいた。
何故今日に限って雨が降らないんだ……。梅雨真っただ中と言っていたじゃないか。もう一度、あの女性と話してみたいという、僕にしては大きな一歩を踏み出せそうなのに、心の友である太陽はそれを許さないというのか。
普段なら雨が降るだけで帰りたくない、大学に泊まり込みたいと思うほどなのに、劇的な変化が、僕の中で訪れつつあった。
しかし、最後の講義を受けている最中、ついに雲が太陽を覆い隠していった。その様子を驚きつつも見守っていると、講義を全て終える頃には、ぽつぽつと雨が降り始めていたのだ。
太陽にずっと睨みをきかせていたのが良かったのかもしれない。つまり僕は人相が悪いかもしれないという疑惑が出てきたけれど、そんなのは今になってはどうでもいいことだ。
雨は降った。
雨が降る日に、またあの神社で、という約束を僕は昨日したばかりなのだ。
だから、今日はその約束の日だろう?
「よっしゃ!」
僕は小さな気合いを入れると、急いで大学を出た。いつもの事ながら傘はないので、神社に繋がる屋根の道を走って行く。
何度も何度も通った短い道が、今はとても長く思える。
小雨が湿気と熱さを混ぜ合わせて僕を襲うが、それでも構わず走る。
バシャバシャと水が跳ねる音がして、足はずぶ濡れになっているだろう。だけど気にしている暇はない。
いつもより、早く。迅速に。あの場所に、あの人に会うために。
体力がない僕が全力で走ったら、当然のように息は上がる。
僅か数分の道を走っただけなのに身体は既に悲鳴をあげていて、それでもようやく神社にたどり着くことができた。
鳥居の奥の階段には既に雨宮さんが座っていて、僕に気付くなり彼女は、ぱあ、と華やいだ笑顔を見せてくれた。
うわあ、めっちゃ可愛い……。
と、思ったものの、僕の息は上がり、身体は自由を許さずもう動けない。
これはまずい。辛いし身体が言う事を利かない。
ゆっくりと歩いて、はあはあ言いながら雨宮さんによって行く様は何だか変態で、恥ずかしい。けど今は身体の疲れが思考回路を占めていて、恥ずかしさなんてものを気にしていられない。
「ゲホッゲホッ……ハアハア……」
ちょっとこれは上がり過ぎなんじゃないか。声がまともに出ないぞどうする僕!
「だ、大丈夫ですか……?」
雨宮さんは僕が疲れ果てているのに気付いたのか、立ち上がって心配そうに声をかけてくれた。
ひ、引かないでくれるのか……!
ようやく賽銭箱のところにたどり着くと、僕は大丈夫です、という意味を乗せて手を前に出して示して見せた。
本当は大丈夫じゃない、死にそう……。
だが、そんな事は間違っても言えない。何故なら僕は男で、それを言ったら情けないうえに恥ずかしい奴だとレッテルを貼られるに違いない。とりあえず、今回の事で草食系男子は全力疾走しちゃいけない事が分かりました。
「はあ……。すみません、いきなり。ちょっと落ち着いてきました」
「大丈夫ですよ、急いで来てくれたんですよね?」
「……はい。そうです」
あはは、と笑って誤魔化す。凄く情けない。
「ふふ……。ありがとうございます。ひとまず、休んでください」
そう言って彼女は、賽銭箱の前にある階段の上に座るように促す。あまりにも疲れていた僕は、遠慮なく座る。すると、彼女も続くように座った。
きょ、距離が……近いっ!
僕は、急激にばくばくと言いだす心臓を押さえるように、冷静さを保てるように努力した。そうでもしなければ、顔が赤くなって倒れそうになるからだ。ああ、何だか雨宮さんていい匂いがする……。……はっ、いかんいかん。
女性とこれほどまでにお近づきになるのは初めてで、何をして何を考えればいいのか分からなくなってきた。
とりあえず今の僕の思考回路は、女の人ってこんなにいい匂いがするんだな、という変態染みた感想が占めていた。
僕は首を振ると、誤魔化すように口を開いた。
「す、すみません。何だか情けないところを見せちゃって」
「いいえ、謝らないでください。それよりも……本当に来てくれてありがとうございます」
「い、いやあ……。また傘、忘れちゃいましたし……」
僕はぎこちない笑顔でそう返す。どうしてか、彼女に会いに来たというのではなくて、ただいつものように雨宿りしに来ただけだと、見栄を張りたくなった。それは何故だろう。男だからかな。
「本当に、忘れっぽいんですね」
くすくすと純粋に笑う彼女を見て、申し訳なくなる。全て信じ切っているみたいだ。
すみません、いつもわざとなんです……。学習能力がないんです……。
そう言いたいが、言えるわけもない。
「赤瀬さんって、大学生の方なんですか?」
「……あ、はい、この近くの大学に通ってるんですよ」
「じゃあ、家も近いんですね」
「そうですねえ。ここからだと歩いて5分くらいです」
そんな他愛もない話をどんどんとしていく内に、僕はようやく会話と言うものに慣れてきた。どもったりする回数も減ったし、よくやったと思う。
雨宮さんは人と話すのが苦手な僕をリードするように、優しい声音で話題を出してくれる。
おかげでコミュ障なのがばれずに、楽しい会話というものが出来ている気がする。
気遣ってくれているのか定かではないが、こういうのはとても助かるし、ますます雨宮さんは好印象だった。
そうやって話しこんでいるうちに、雨が段々と酷くなってきて、暫く帰れそうになかった。
これではまた夜までここに居させられるな。
そう思って雨宮さんにも、問いかける。
「雨、酷くなってきましたね」
「そうですね……」
「雨が止むまで帰れませんし、しばらくここに居なきゃなあ」
そう言った途端、僕は重要な事に気付いた。
そう!
帰れないという事はつまりは彼女と一緒に居る時間が増えるという事だった。
うわあ、嬉しいような、恥ずかしいような。いや、もちろん、嬉しいんだけども。
でも、もし彼女はこのまま帰ると言ったら?
僕は妙な緊張感に包まれながら、傘がないと言う事を身振り手振り、必死にアピールしてみる。
「濡れたくないし、帰れないんですよ、ね」
おそるおそるそう言うと、雨宮さんはくすりと笑って、頷いてくれる。
「ふふ、実は私も傘を忘れてしまったんです。だから帰れません」
「そ、そう、ですか!じゃあ止むまで、話をしませんか?」
「はい、私でよければ」
そう言って雨宮さんは照れ臭そうに髪を触って、小さな笑みを零した。
おかげで僕も自然と笑顔になる。
鬱々と湿ったこの状況の中で、雨宮さんの笑顔はひときわ輝いて見えた。
そうして僕らは様々な話をした。
湿気と蒸し暑さが空気を占める中、周りの環境なんて気にならないくらいに話をした。
大学の事、好きなもの、趣味。僕はそんな事について話す。
大学では友人と楽しくやっている事や、勉強はあまり得意ではない事。食べ物はあれがいいとか、最近の音楽にはついていけないとか。
一方の雨宮さんといえば、あまり自身の事は話してくれなかったけど、代わりにいくつかの童話を聴かせてくれた。彼女の話し方は独特で、まるで自分がその物語の主人公になったように引き込まれていった。
話し方も、物語も、つい聴きいってしまっているのだ。
「……お話、上手いですね」
「本当ですか?それは良かったです」
「はい、何て言うか……頭の中にすっと入って来るような、」
「物語を作るの、好きなんです」
僕の称賛を遮って彼女はそう言った。
いや、ちょっと僕の話聞いてください。カッコいい事言いたいから。
でも、さすがにそんな事を言えるわけなく、心の小さな僕は黙る。代わりに、そうなんですか?と聞き返す。
すると、彼女は少し、頬を染めて頷いた。初めて見る表情に、胸がときめいて、何かが溢れる。ボキャブラリが少ないから何とも表せないけれど、これだけは言える。本当に、可愛い。
「物語を考えていると、その世界に入り込めるような気になるんです。自分は、一人じゃないって。そう思えるんです。でも、それも本当は嘘なんですけどね」
少しだけ眉尻を下げて、自嘲気味に笑う雨宮さんの横顔は、僕には抱えきれないものが表れていた。どう返していいのか分からない僕は、口をつぐむ。
彼女は、何か暗いものを抱えているのだろうか。小心者の僕には、それを聞く勇気もなくて、知る事が怖い。とても触れてはいけない事のように感じるのだ。
だから、僕は雨空を見上げて、何も返すことなく、視線を逸らした。
雨宮さんも、気まずい雰囲気になったのに気付いたのか、黙りこんだ。ぽつぽつという、雨の不愉快な音が、今日だけは心地よかった。
彼女の笑顔には、いくつもの種類がある。それが彼女の喜怒哀楽になると、今日の会話で気付いて、それは僕の心をいちいちかき乱して行く。
彼女は笑う事で感情を表現する。僕にはそれが眩しくも悲しくも見えた。
だって、悲しい時まで笑ってなきゃいけないなんて、辛すぎるじゃないか。
僕にはそんな事、到底出来そうにない。
雨宮さんが語る童話は仲間がいっぱい出来た、とかそういう類の話が多くて、それは彼女の何かを表しているのだろう。僕は、雨宮さんに隠された影を見た気がして、何とも言えない気持ちになる。
そんな中、ついに沈黙に耐えきれなくて僕は口を開く。
「……もしかしたら、作家に向いているんじゃないですか?」
それは素直に思った事だった。
彼女の話は面白い。これだけ良い作品を作れるなら、きっと作家になったら売れっ子になるだろう。そうしたら僕は絶対彼女の作品を買うし、応援もする。
たとえば童話作家なんて、向いていると思う。
子供に囲まれて、自分で作った童話を穏やかに話す雨宮さん……。
うん、何だか想像したら本当に出来そうになって楽しくなってきた。
そんな想像を膨らませていると雨宮さんは、戸惑った様子で口を開いた。
「……作家……?作家って……本を書く……」
そんな事をぶつぶつ言って、僕は傾げる。もしかして、僕の言葉が聞こえなくて迷っていたのだろうか。
「作家ですよ。もしかして、サッカーと勘違いしちゃいました?」
「サッカー……。え、ええ。ごめんなさい」
冗談で言ったつもりだったが、まさか本当にサッカーと勘違いしていたとは。
これは僕の声が聞き取りにくい証拠か。次から気をつけなければならない。そりゃあ、サッカーに向いてるなんて言われれば、戸惑うのも無理はないだろう。
今度は聞き取りやすいようにはきはきと言おう、と心に決める。
自分の欠点らしきものを見つけて、密かにぐっ、と拳を握った。
ふと空を見ると、意外にも早く雨が上がっていた。
ああ、もう帰らなくちゃいけないのか。
「雨、止みましたね」
「……え?そんな!」
雨宮さんが驚いて見せるから、どうやら気付いてなかったようだ。それって、僕との会話に夢中になってた……って事でいいのだろうか。
そうだとしたら嬉しい。
「じゃあ、そろそろ帰りますか。……では、また」
僕はそう言って立ち上がる。
名残惜しいけれど、実はレポートがまだ終わっていない。早く帰って仕上げなければならなかった。
すると、雨宮さんはいきなり僕の服の裾を掴んできた。
え?ええ?何これ!?
その裾を掴む白い手は、少しだけ震えているような気がした。僕はその震えに気づかない振りして、彼女の顔をまじまじと見る。
「あの……、また、ここに来てくれますか……?」
そう言って俯き加減で顔を赤くして言う彼女は何だか……いや、正真正銘、天使だった。
僕はその姿に心打たれて、また心臓が高鳴る。それと共に、今度は顔も赤くなりだして、身体が熱くなった。
な、何だよこれ……。なんでこんな……。
「……はい。また、ここで会いましょう」
僕が落ち着かない心の中、ようやく出した言葉は、小さい。それでも雨宮さんは笑って顔をあげてくれた。
「……はい!」
彼女に似合わない元気な返事で、掴んでいた裾も離してくれたのを確認すると、僕は手を軽く振って歩きだす。
昨日のような出来ごとに、少しのデジャヴを感じながら少し早足で、まるで恥ずかしさを隠すように鳥居の外に向かう。
ふとした瞬間、少し振りむいて雨宮さんを見てみると、手を振り返してくれていた。きっと僕が帰るまで自分は帰らないつもりだろう。彼女の律義さと優しさに心が温かくなる。
僕はもう一度手を振り返すと、今度こそ家に帰る道を辿った。
清楚で大人しい人だと思っていたら、案外大胆な人だと分かって、不思議な気持ちだ。
今日だけで彼女の事をかなり知れたような気がして、嬉しくなる。そうして僕が今までに感じなかった事も少しずつ分かり始めていく。
こういうささやかな出会いってのは、悪くないかもしれない。
そう、気付いたら僕は雨宮さんの事をもっとよく知りたいと思うようになっていた。
その原因は分からずじまいだったけれど、今はそれでもいいと思う。
上機嫌で家の玄関を開け、ふと振り返って空を見上げてみる。
真っ青な空に、僕の大好きな太陽が映り始めていた。