1 これが、僕らの出会い
雨が嫌いだ。日本一、いや宇宙一嫌いだと言い切れる。雨が嫌いな人ランキングがあるとしたら断トツで一位が取れる自信すらある。
雨が嫌いな理由なんて人それぞれだが、僕、赤瀬時也はその全ての人の嫌いな理由を網羅していると言えよう。
湿気は出るし、じめじめしていてテンションは下がる。他にも、髪がはねる、無意識に水たまりに足を突っ込んだ時の絶望感、家に帰った時の靴下の不快感など、挙げだしたらキリがない。
それほど嫌いな雨が今、大学の玄関前で澄ました顔をして踊るように降り続けていた。八つ裂きにしてやるぞこのやろう。
「鬱陶しい……」
大学に入って初めての梅雨は、予想以上に僕の心にずしん、とのしかかって来た。毎年覚悟はしているものの、やはり嫌なものは嫌だ。
とりあえず一刻も早く目の前から消えて欲しいが、そんな事を思っても通じるわけなく。僕のため息だけが虚しく空気中を舞った。
そして、その嫌いな雨に対して僕も澄ました根性の持ち主で、傘を持ってくるという選択肢は日常的にない。清々しい程に抜けているのである。ただの間抜けだ。
「はあ……」
自分で招いた結果とはいえ、後悔は押し寄せて止まない。ついでにため息も止まない。
雨が降っている。傘はない。
この状況、如何にして切り抜けるか……。
傘を持ってくるのは家を出るときに降っている時だけ。しかもかなり迷って渋って、ようやくだ。
ずばり言ってしまうと極度の面倒臭がり屋な僕は、家を出る時に雨が降っていなければ、たとえ午後に予報が出ていようが、傘を持たない。大学にも傘は置いていないから当然、ない。
雨が嫌いだが傘を持って行くのは面倒。ああ、なんという悪循環だろう!
大学と家の距離は、歩いて10分なのだから走れば(頑張れば)5分に短縮して即座に帰れる。
だがしかし考えてみてほしい!
五分間必死に走って疲れる上に雨でびしょ濡れ。髪は見事にはねまくり、寒気すら感じるだろう。しかも僕はいわゆる草食系男子だから体力はないし、足が遅いので5分なんて無理だ。
ちなみにさっきの5分は足が速くて体力があってイケメンが行った場合のものだ。世間はそんなに甘くない。
ならばする事はただ一つしかない。
止むまで待つ。
うん、これが一番いい。
「しょうがない、行こう」
僕はそうやって一人呟くと、大学の玄関から勇気の一歩を踏み出した。屋根があるところを必死に、濡れないように渡り、近くにある神社に繋がる道を歩く。
雨が降るたびにその神社で雨宿りをする僕なのだが、まあこの道にもよく慣れたものだと思う。どういう角度でどういう場所を渡れば、いかに濡れないか熟知しそれを軽やかに渡る。うん、今日も上手く行きそうだ。さすが天才、と自画自賛してしまう。
毎年梅雨になるとその神社によく行くようになるのだけど、今年も例年に漏れず、ほぼ毎日通っていた。ある意味縄張りと言っていい。
昔ながらのガキ大将のようだと思った孤独な僕は、雨に濡れないよう更なる歩みを進めた。
「あっつー……」
暑さと湿気を含んだ空気は気持ち悪く、背中にじんわりと汗が伝う。更に額から汗だか雨だか分からないものが流れて来て、手の甲で拭った。僕の気持ちをじめじめとさせる雨と湿度は最強タッグだ。
――ああ、早く雨が止みますように。
心中祈りながら神社の隣にある店の前を上手く利用して、屋根の下を伝って行く。やがて5分くらいすると、その神社は視界の隅にぽつん、と現れる。
「よし、雨宿りに絶好な場所は今日も僕を待ち構えている!」
心なしか鳥居の奥がきらめいて見え、もうひと踏ん張りだと意気込む。自然と歩みは早くなり、心にも少しだけ余裕が出来た。
いつ止むか分からないのに雨宿りをするならば予め傘を持ってこいと、皆は言う。
それは当然の事だろう。僕だって出来るならそうしたい。
しかしそれが出来ないというのが、僕なのだ。だって、凄くめんどくさい。
この一言を、友人は呆れてこう返してきたことがある。
お前は本当に馬鹿だな、と。
その時は失礼だと憤慨し、言い返したが実の所かなりの大馬鹿だし、的を得ていた。
そうして道行く道をさささっとまるでゴがつくような虫のように素早く移動する。すると、いつもの僕の半縄張り状態の場所にたどり着くのだ。
その神社は素朴で小さく、鳥居をくぐると不思議な感覚に包まれる場所だった。
賽銭箱の下には小さな祠があって何かの神様が祀ってあると思われるものもある。その祠には意図的に開けられたのか、小さな丸い穴が開いていた。いつもの見慣れた形だ。
この神社の名前は天神社という。一体どういう意味で付けられたのかは分からないけれど、僕はこの名前が何となく好きだ。何となく、だけど。
そういえば、僕は何度もここに入り浸っているが、掃除や管理をする人を一向に見た事がない。土地だけ持って放っておくというものだろうか。勿体ない。
そのせいか、天神社はちょっと汚かった。それでも僕が雨宿りするには丁度いいからあまり気にしたくないのだけれど、所有者がいるのなら少しは掃除をしに来いよなと思う。だって、たまに掃除をしているのは縄張りにしている僕なのだから。
いつものようにやっとの事で神社の正面、賽銭箱が置いてある所に着く。案外大学から結構な道のりなのだ。
僕の体力的には辛い。
「っはあ……。やっぱ濡れた……」
やはりどれだけ濡れない場所を熟知して歩こうが斜めに雨が降っていれば当たって来る。ちょっとしか濡れていないが、気に食わない。湿気を更に吸収してしまったという事実が気に入らない。
最近はここまでの道のりで如何に濡れないかという挑戦的遊びを、一人で試しているのに。おい、寂しい奴とか言うな。
今日は記録更新を果たせなかった。
髪が結構濡れているし、しょうがない。また挑戦するか、と思い直し、ふといつものように空を見上げる。
こうやって雨空だろうが、晴れ空だろうが、空を見上げるのは人間の本能なんだろう。
灰色の空に、蜘蛛の糸みたいに細い雨がザアザア降っている。なかなかの雨量じゃないかちくしょうめ。忌まわしい雨を見て、自然と顔をしかめていた。
そうしてふと周りを見渡す。やっぱり今日も僕が一人この縄張りで雨宿りか。ある種の優越感に浸りながらそんな事を思って見ていると、途端に神社の端に違和感を覚えた。
「ん?何だ、あれ」
僕が今いる所から左に曲がった、少しだけ死角になっているところに、よく目を凝らして見ると何かスカートのようなものがちらついており、僕はいぶかしみながら、しかし少しだけ興味を持ちながらそっと近づく。
こんな神社に今更人なんて、僕以外来るのだろうか。そんな微妙な疑いをかけながら覗きこんだ先、視界に映ったのは、一人の女性だった。
「……!」
声にならないような悲鳴をあげ、子供のようにその女性を凝視してしまう。
その女性は、肌が白く、艶やかな長い黒髪腰までなびかせていた。
深い黒髪とは対称に、服装は真っ白なワンピースを着ていて、年は多分僕と同じくらい。すっと通った鼻立ちに薄い唇。目は大きく、だけど幼さを感じさせない顔立ち。
第一印象は絶対的な儚さ、そして不思議なほどの透明感。
一言で言えば彼女はとても綺麗で、女性に免疫のない僕は、見惚れてしまう。雨空を見上げている彼女は、何処か神秘的で、このまま消えてしまってもおかしくないくらいだった。
……何でこんな綺麗な人が古びた神社に……?
と、思ったものの、僕はその場で固まったまま動かない。
僕が女性に耐性があるかと言われれば、断言しよう。
全然ない。
皆無だ。
草食系男子をなめるなよ、あるわけないじゃないか。
だって、恋愛についてはした事も、それこそフラグが立った事だってない。
女性を見かければ自然と避け、遊びに誘われれば、お腹が痛くて死んじまうよう、と電話で断り続け、大学内でも女子と話した事がない。
有り体に言えば、極度のコミュ障と草食系男子を患う重篤患者の僕がこんな綺麗な人と一緒に居れるわけない!
そんな僕が今する事と言えば一つ。
一歩後ろに下がり、ズザザ、と何とも不愉快な音を、聞こえないように立てながら素早く後ろに隠れる事!
「ななななな、なんでこんな所に人が、しかも女が……っ」
いるんだよ、と言いかけて口を押さえる。いつものように独り言を言ってしまえば向こうにばれる。幸い、向こうは降り続く雨に夢中で見ていて気付いていなかった。
雨に夢中な女性を見て、うわあ、と口元を押さえる。どうしてあんなものをずっと見ていられるんだ。僕だったら絶対考えられない。
まあ、この雨の中だ。大方傘を忘れてたまたまここに雨宿りしに来たのだろう。雨を見つめているのは多分、雨が止まないか考えているんだと思う。それはごく自然の事で、雨宿り常習犯の僕だって空を見つめていたじゃないか。
いつもここに来て、雨が嫌い嫌いと傘を持って来ない僕が可笑しいだけなのだ。
と、冷静に彼女の行動を分析してみるものの、やはり僕は無様にあわあわと心の中で焦りに焦りまくり、女慣れしていない自分が情けなく感じてしまう。もう18なのに。
僕はちら、と少し覗いて女の人を見てみる。正直、この状況だと早く帰りたい。この場を一刻も離れたい!だがそれは降り続ける雨が許さない。雨に濡れるのは当然嫌だからここから離れられない。
「ああ、どうしよう……」
小さく呟くと頭を抱えた。かつてここまでこの場所から離れたいと思った事はない。あんなに居心地の良い場所だったのに。
せめてもの救いは、少しの視界から見える彼女の姿は、あまりにも綺麗で眼福な事だろうか。
こういう女の人は、雨でも麗しいというか、綺麗だなと思う。凄いよな。僕には全く関わりのない世界だけれど。
僕がこんなにも焦っているのに女の人は全然気づかない。
それなら好都合だ。このまま気付かないでくれ。その方がいろいろと嬉しいから。
悶々と頭を抱えつつ、時が、雨が、過ぎ去るのを待ってそんな事を願う。
でも、それは叶わなかった。
僕が隠れきれてなかったようで、女の人をちらちら見ながら気まずい雰囲気を自分だけが噛みしめていると、ふと、女の人がこちらを見たのだ。
ちょうど賽銭箱が置いてある角に立っていて、見ようと思えば見える場所。お互いにばっちりと視線が合ってしまった。
思わず、僕は固まってしまう。
「あ……、あ」
何か言わなければと思うけど、何を言ったらいいのか分からない。ずっと雨空を見ていた瞳が僕を見ている。その瞳は黒いはずなのにとても清らかで、僕の心の泥を全て洗い流してしまいそうだった。
恥ずかしい。何だこれ。
穴があったら入りたい。
あの何でも包み込むような澄んだ目で見られると気が動転しそうになる。横顔だけじゃなくて、正面からの姿も綺麗だった。
僕が何も出来ず固まっていると、女の人は軽く会釈をしてくれた。
そして、こんな雨の中、傘もないのに踵を返して入口ではなく、神社の裏の方に歩いて行く。
そうか、反対の裏道からも帰れるのか……なんてどうでもいい事を考えていたが、はっとして僕も咄嗟に会釈をしてその場を乗り切る。
女の人には僕の会釈が見えなかったが、今更だ。良かった、何もなくて。
ホッとして安心すると、その後はいつものように、一人で雨が止むのを待ってから帰った。
今日は変わった事があったな、なんて考えながら、少しだけあの女の人の事を思い出す。
「……綺麗な人だったな。もう二度と会いたくないけれど。女の人と話なんて出来ないし」
この時点ではただそんな日もあるさ、程度にしか考えていなかった。
だから、そのハプニングはその日限りだと、僕は勘違いしていたのだ。
そう、それが僕と彼女の出会いで、始まりになる。
それは唐突で、でも、ある意味予測された出会いだったのだ。
これは、僕が大学一年の梅雨に出会った不思議な女性との話だ。
特に大きな変化もないし、面白味なんてないかもしれない。
あなたが読んで得られるものなんて、ほんの少しもないかもしれない。
けれど、この短い時間の中で僕の何かが確実に変わったし、彼女だって、変わってくれたはずだ。
だから、是非とも僕らを見守って欲しい。
僕らの、淡々と進む雨の日だけのお話を。