第9話 女神の微笑
「ちょ、ちょっと! 僕まだ旅に出るなんて一言も言ってないんだけど!?」
半ば引きずるような形で彼を家から連れ出す彼女の口元には自然と笑みがこぼれていた。
「うーん、そよ風が気持ちいいな」
彼女の頬を撫でるのは、何よりも大好きなこの世界の風だった。一歩づつ踏みしめる土の感触は、二人の門出を祝福するかのように弾んでいる。
ただ強引に連れ出された彼の声は当然のように抗議に満ちあふれていたのだが。
「聞いてる!? ええと……」
「美咲よ……一回で覚えてよね、本当」
彼は先程彼女が教えてくれた名前を思い出そうとするが、結局先に答えを言われてしまった。
「じゃあ僕の名前は覚えてる!?」
どうせ覚えてないのだろう。
彼のそんな目論見は簡単に崩れ去る。
「ローランドでしょ。知ってるわよそれぐらい」
それから彼女は鼻歌交じりで歩き始める。
「さあて、行きましょうローランド」
空は青く、地平線はどこまでも続いている。
「旅って凄く楽しいのよ」
彼女の愛した景色が、いま目の前に広がっている。
彼女の愛した人が、いまその隣で笑っていた。
§
――彼女ずっと彼を見てきた。
けれどその隣には、いつでも美咲が笑っていた。
§
「将来さあ、こういう家に住めたら幸せだよね」
旅の途中に、随分と豪勢な屋敷を見上げながら美咲はそんな言葉を漏らす。ただ、その意見はレッドが賛同できるような物ではなく。
「どうかなあ、管理とか大変そうだけど」
所帯じみた感想を述べることしか出来なかった。
当然のように、美咲はため息をつく。
女性は男性に堅実性を求めるくせに、当然のように理想主義を押し付けるからだ。
「ローランドって夢がないよね」
当然のように、ローランドは腹を立てる。
さんざん彼女に振り回されてきた彼からすれば、美咲は夢がありすぎるように思えた。
「ちゃんと現実主義者なだけだよ」
「そういうの、女の子にモテないよ?」
その言葉は、少しだけローランドに刺さる。似たような事を両親や村の人間から指摘されたことを思い出したからだ。
特別、そういう事を意識した経験はない。以前の彼にとって、それはあまり重要な事ではなかった。
「そうかなあ」
「そうだよ」
ただ今の彼に、それは気にかかることの一つで。
「じゃあ、こういう家に住みたいかな」
笑って、そういう答えを出した。
「そういうこと」
ただ一人、目の前にいる女性が喜ぶために。
§
美咲が憎かった。何度も殺してやろうと思った。
だが、クローディアには無理だった。
かつてこの世界の神だった女に、叶うはずなんて無かった。
彼に会いに行くことすら出来なかった。
§
「ねえローランド」
英雄などという称号は、後からついてくるものだ。世界を救っている最中なんて誰も見向きはしない。自分達を取り巻く悪意と絶望の根源を絶とうとしている人間がいたとしても、それがたった二人の肩にかかっているなどと考えつく物はいないだろう。
彼らもそうだった。かつて世界を救った英雄達は、誰に励まされるでもなく何の変哲もない宿屋に正規の料金を支払い一夜を明かしていた。
「全部終わったらどうしようか」
シーツにくるまりながら、悪戯っぽい笑顔を浮かべて美咲が尋ねる。
「とりあえず故郷に戻ろうかなって考えてるよ」
「じゃあ、私はどうしようかな」
どうして欲しいかなんて、彼はとっくに悟っていた。それでも彼の生来の気恥ずかしさのせいでずっと言えずにいた言葉がある。
「そうだなあ」
だが、今日の彼は違った。曖昧なままで許される時間はもう終わりが近づいている。旅の目的が果たされたなら、彼女が側にいてくれる理由はない。
あくまで目的が一緒だから。
そんな言い訳が許されるのは、きっと今日までだった。
「とりあえず、僕は村に戻ってまた旅をしようと思うんだ。世界を色々巡ったけれど、忙しくてゆっくりなんて出来なかったからね」
本当に忙しい日々だった。次はあれを、日が沈む前にどれを。時計の針に追われたせいで、じっくり観光する暇なんてありはしない。
だからせめて今度は、もっと余裕のある予定を組もう――いややっぱり、何も予定も組まずにいよう。そんなどうしようもない事を、彼は笑って考える。
いつだって彼の予定は、彼女に壊されてきたから。
「だからさ、美咲」
きっとこれからもそうなのだろう。いつだって彼女は彼の手を引いて、気の赴くまま進んでいく。
だけど、今日だけは違う。
そういう風に決心していた。
「これからも、僕と一緒にいてくれないかな」
月明かりが差し込む部屋で、手をゆっくりと差し伸べる。
初めて彼女と出会った日に、そうしてくれたように。
彼なりの誓いの言葉だった。
色々悩み、考えて、今にも顔から火が出るぐらいに恥ずかしくても、それは彼の決意だった。
「……はい」
そうして彼女が手を差し出す。
くしゃくしゃの笑顔で、嬉し涙を流しながら。
その手を強く握りしめた。
§
だから彼女は世界の果てで、ただ指を咥える事しかできなかった。
教えられた魔法を試しても、ほんの少し火が出る程度。
彼女はまだ、神様ではなかった。依然としてこの閉じた世界の所有権は美咲にあった。
美咲は何でもした。彼女が自由自在に使える魔法も、都合よく現れる敵も全て彼女の誂えたものだった。
そんな出来の悪い茶番劇を、彼女はただ見続けた。
§
木漏れ日の中、二人は大木によりかかりながらただぼんやり過ごしていた。
何も無い一日だった。何をしていた訳でもない。何を成したわけでもない。ただ流れていく小川のように、時間は自然と流れていった。
「そういえばさ、帰りたいと思ったことはないの?」
だから彼は、何も考えずにそんな事を尋ねた。前から気になっていた事でもなければ、思いついたものでもない。ただ自然と口をついたのはそんな小さな疑問だった。
「別に? どうでもいいかなあ」
あっけらかんとした態度で彼女が答える。
「どうでもいいって……普通は思う所があるんじゃないかな」
「ローランドはそういうのあるんだ。やっぱり自分の村とか? なんだっけね、名前」
「プロヴィア村」
「そうそれ」
「……まあ、故郷だからね。たまに帰りたいとは思うよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
彼女は背筋を伸ばし、少しだけ肩のこりをほぐす。
「じゃあ、私はやっぱりどうでもいいや」
「どうして?」
「だって、私の帰る場所は」
それから彼女は、優しく彼の手を握った。確かな暖かさがそこにはあった。
「あなたの隣だから」
それが彼女の幸せだった。
ただ彼の横にいる事だけが、彼女が望んだ全てだった。
「……ね?」
恥ずかしいことを言う彼女を尻目に、彼はただ黙って俯いている。
真っ赤な顔を見られるなんて、彼には耐えられなかった。
§
ようやく彼女は、それに気づいた。
自分の使える魔法の範囲が、少し広くなっていることに。
だから彼女は、それに気づいた。
少しずつ美咲の力が、自分に移っていることに。
§
「ローランド、これはどうかな?」
荷物で両手が塞がっているというのに、色とりどりの洋服を替えていく彼女はまだ気が済んでいないようだ。
「どうって言われてもなあ、さっきと違いがわからないよ」
「だからあ、この服はさっきとデザインが微妙に違うんだって。わかってないなあ……それにしても、こっちは可愛い服がいっぱいあってつい買いすぎちゃうよね」
「買いすぎた分は全部僕が払ったんだけどね」
そう不満を漏らすと、彼女は両手を広げてどうしようもない事を言う。
「だって私、お金持ってないもん」
いつもそうだった。
彼はいつも振り回されて、彼女は前へ進んでいく。
それが二人の関係で、それが二人の距離だった。
「もん、ってあのさあ」
「何よ、気に入らないの?」
「気に入らないと言うよりは……そうだなあ、君の世界じゃこういうんだっけ」
彼も笑う。
あの時は、誰よりも幸せだった。
「『お金持ってないもん』は、ヤバイ」
「ヤバくありません。それで、ローランドどう思う?」
彼女は笑う。
いつか彼女が教えてくれた、その名前の意味のように。
「似合ってるよ、美咲」
美しく咲く花のように。
§
あと少し。燃え盛る大地を前に、女神は微笑む。
§
あの日の事を、彼はよく覚えている。
昨日のように、数分前のように。目を閉じればいつだって、手に取るように思い出せた。
どこまでも続く青い空に、いつまでも続く緑の丘。絹のように艶やかで黒い髪を、風がやさしく揺らしていた。
「あーあ、これで終わりかあ」
彼女は笑う。指先は眩い光となって大気に溶け出してもなお、彼女はいつものように笑っていた。
それが、彼には悔しかった。手を握り締め、その先から血をこぼしてなお、彼は無力だった。
――何もできない。目の前にいる最愛の人に対して、彼ができることは何もない。
だから、彼は覚えている。頬を伝う涙の感触を、まだ確かに残っている。
「もう、泣かないでよ。こっちだって結構無理してるんだから」
彼女のその手が、彼の顔にそっと伸びる。
だけど、触れられない。流れていくそれを、彼女が拭うことはない。
「指、もうないね」
その手にはもう触れられない。あの優しかった手が、いつかつないだ柔らかな指が、もうここにない。
だから、彼女を抱きしめた。ここにいる。彼女のぬくもりは、まだここにある。
「また会えるかな」
夢のような願いを、彼は呟く。ありえない事だって、彼にはわかっている。
だから願う。その願いは、今日まで千年褪せはしない。
「何か方法を見つけてさ、きっとあなたに会いに行くね」
彼女の事が大好きだった。唐突にやってきて、あの小さな片田舎から彼を連れ出したお転婆を、彼は愛していた。
「だからさ……待っててね」
大丈夫、大丈夫。あやすように彼女が言う。
泣いている彼よりも、笑っている方が好きだから。
「いくつになっても、そばにいてあげるんだから。あなたのこと、きっとまた見つけて……また一緒に旅をしようね」
「そうだね、そうしよう」
それが二人の願いだった。この美しい世界を、ずっと二人で歩いていく。
そんな永遠のような希望を、二人は願う。
「またね、ローランド。浮気したら承知しないよ?」
彼は笑う。泣き顔でぐしゃぐしゃだけれど、精一杯の笑顔をみせた。
「いってらっしゃい、美咲。僕はずっと待っている」
どこまでも続く青い空に、いつまでも続く緑の丘。
そんな場所でただ一人、英雄と呼ばれた男がいた。
――彼はただ、笑っていた。いつまでもこぼれる涙を、ただそのままに流しながら。
§
クローディアは微笑む。神の座を手にして真っ先に行ったのは、美咲の痕跡を消すことだった。
あの女の記憶を、世界から消していく。
彼女を称える石碑から、残された宿帳の名前まで。
全部、全部、全部。
全てが憎かった。あの人の心を奪った彼女の存在がただ許せなかった。
だから全ての痕跡を消した後、クローディアは彼に会いに行った。
もう邪魔者はどこにもいない。この世界は自分のもので、彼が望むのなら全てを与えられる。金も、富も、名誉も。ありとあらゆる物は彼女の掌の中だった。道行く人間の晩飯から国家の滅亡まで、全部彼女の気分次第だった。
――だけどたったひとつだけ、彼女は手に入れられなかった。
「……こんにちは、英雄さん」
誰もいない山奥で、星空を見上げる彼に彼女は声をかける。乾いた焚き火の音だけが、静かな木々に反響していた。
「……僕は、英雄じゃない」
諦めたような顔でローランドが呟く。その言葉の意味が、彼女には理解できなかった。
「どうして? あなた一人が世界を救ったんじゃない」
だから彼女は、当然のように答える。彼はたった一人で世界を救った。そうなるように全て書き換えた。それなのに。
「違うよ。僕は美咲に連れて行かれただけ」
あの女の名前を、平然と答える。
なんで、どうして? 全部消したはずだった。人々の記憶からあの女のことを一切合切消滅させたはずなのに。
そんな疑問を繰り返しても答えは出ない。
「ところで、君の名前は?」
それで、彼女は思い出す。去り際のあの女の言葉を、その意味を。
「はじめまして、私はクローディア」
――千年経ったら、馬鹿な女子高生を手違いで殺せばいい。その女を身代わりにしてあの女になればいい。
だから彼女は笑う。欲しかったものを手に入れる方法が、たった一つだけ見つかったから。
「神様よ」
そんな不躾な言葉を添えて、彼女は彼に右手を差し出す。
その手をローランドは、怪訝な目で握り返す。
ようやく触れられた最愛の人の手は、相変わらず暖かかった。




