第6話 ウィンフィールド家の令嬢 後編
レッドの想像通りと言うべきだっただろうか。格式ばった執事服が、芝刈りに適した格好の訳はなくかがむたびに袖が肘を圧迫する。様式美の三文字を維持するためとは言え、なかなかの不便を強いられている。
「ねえパパ、魔法で簡単にできないの?」
スカートの裾を掴みながら、ミサキが不満そうな顔で言う。自分よりほど様式美の弊害を受けているとレッドは思った。
「できるよ?」
それぐらい簡単だと、当然の顔でレッドが答える。
「でも、そうだなあ」
空を見上げる。森を一瞬で更地にできるのに、彼はただの雑草を抜き鎌で長さを揃えて行く。
もちろん素性を知られたくはないという理由もある。ただどんな事を差し置いたとしても。
「たまにはいいじゃないか」
呑気な感情が、一番の理由だった。
「あーあ、疲れた」
夕暮れ、ミサキは部屋に戻るなり着替えもせずにベッドに寝転ぶ。しばらく使っていなかったせいか、埃が部屋に舞う。
ただの芝刈りなんてものは、もっと幼い頃にやっておくのだろうかとレッドは思う。
そういう人並みの生活を、彼は自分の娘に何一つさせてやれなかった事を悔やむ。
「ねえ、ミサキ」
彼は呟く。返事を待たずに、言葉を続ける。
「……君は、ずっとこういう事がしたかったのかい?」
疲れた。不満もあった。手も汚れて髪はボサボサ、爪の間も真っ黒で、綺麗だったはずの服は泥だらけで。
それでも、よく笑った一日だった。魔法なんてどこにも無い、普通の人の普通の一日。まだ奉公するような年でもないが、あと何年かすればこういう生活を送る人も少なくは無い。
悪いことではない。魔法なんてものを全て投げ捨てて生きていくことは、ただ当然の生活を送るだけ。
幸福というものが、どこにあるのか。彼にとってのそれは、もう十二分に理解している。ミサキと美咲と過ごした日々だけが、彼にとっての幸福だった。
だが、どうだろう。目の前にいる彼女にとってのそれは、どこにあるのか。彼が教えてやれなかった普通の中にあったのかと、不安になる。
だから、答えを尋ねたというのに。
「……おやすみ」
幸せそうな顔で寝息を立てる彼女に、彼は小声でそう言った。
彼女にとっての幸福がどこにあるのか確かめることはできなかった。
それでも布団の上にある笑顔だけは、疑いようの無いものだった。
シャワーで汗を流し別の執事服に着替えたレッドは、キッチンへと足を運んでいた。食事を作るのも仕事のうちだと考えていた彼だったが、すでに家主が台所に立っていた。炒めた玉ねぎと香辛料の匂いが漂っている。
「あら、ミサキは?」
ローレイは包丁で野菜を切りながら、そんな事を聞いてきた。
「寝ていますよ。慣れないことをしたから、疲れたんでしょう」
「あら、あれで値を上げるなんて相当甘やかしているのね」
「耳が痛いですね」
手持ち無沙汰になったレッドは、厨房を見渡して彼女に尋ねる。
「何か手伝いましょうか?」
「別にいいわ、好きでやっているのだから。あなたは娘を起こしてらっしゃい」
「それはその、なんというか……」
ばつの悪そうにレッドが答えると、ローレイは口の端を少し上げる。
「暇なのね?」
「ええ、その通りです」
「贅沢な悩みね。食事まで庭の手入れをしていてもいいのよ?」
「もう日が沈んでしまって」
「なるほど、そういうことね」
そう言うと、彼女は一口大に切った野菜を鍋に入れる。
「あなたも甘やかされて育ったのね」
そんな昔のことは忘れたと彼は言おうとしたが、やめた。家族が優しかったことだけは、今でも確かに覚えているから。
「もう少しで出来るわ。あの子を起こして着替えさせれば、ちょうどいいでしょうね」
「そうします」
「ああ、それと」
思い出したように彼女は言う。
「あなたも着替えてらっしゃい。もう仕事は終わったのでしょう?」
「お嫌いでしたか?」
シャツの襟をつまみ、レッドは尋ねる。
「召使の服としては上等だけど」
ローレイはスープを少しだけ救い、小皿に移し味見をする。
「召使と同じ食卓につくなんて、天国のあの人に怒られるわ」
「いただきます!」
ミサキの元気な声にあわせて、二人の大人が小声で同じ言葉を繰り返す。
パンとスープと川魚のムニエル。贅沢でも豪華でもない、どこにでもある家庭の食卓。
「若い人には薄味かもしれないわね」
「僕は丁度いいですよ」
何せあなたより年寄りですから、なんて冗談をレッドは口にしなかった。
「あなたには聞いてないわよ」
「それは失礼」
「ミサキ、口に合うかしら?」
「うーん、ちょっと薄いかも……」
「はいお塩。かけすぎないでね」
小さな瓶をローレイはミサキに手渡す。用意がいいとはこのことだろうとレッドは一人納得する。
ミサキは小瓶を傾け量を調整しながら、スープに塩を足しスプーンで掬い口に運ぶ。
「うん、おいしい!」
屈託の無い笑顔で彼女は笑う。つられてローレイもその硬い表情を綻ばせた。
「そう、良かったわ」
それは自分の孫に向けるような、そんな笑顔だった。
「そういえば……ご家族は?」
レッドの言葉に、一瞬だけローレイの手が止まる。そしてまた何事も無かったかのように、再び手を動かし始める。
「いないわ……夫がいたのだけれど、先立たれてね。婿養子だったのだけれど、悪い人ではなかったわ」
「なるほど」
つまり、嘘をついているのはこの老婆だとレッドは確信した。彼女が騙されていたという可能性は、これで綺麗に無くなった訳だ。
「ええ、本当に悪い人では無かったわ。楽天家で、一日で稼いだ金を一晩で使うことなんて日常茶飯事。本当に色々やった人だったけれど」
魚を一切れ口に運び、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。
「あの人との毎日は、全部楽しかったわ」
その笑顔に嘘は見えない。目を閉じているのは、きっと過ぎた日々を思っているのだろう。
年寄りらしい、よくある仕草。愛した時間に思いを馳せる、世界中のどこにでもある仕草。
だから彼は、それ以上追求するのをやめた。英雄が捨てた家で、愛する人との過去を思い、流れていく時間を過ごす独り身の老婆の嘘など、今更何になるというのか。
捻じ曲げられた英雄譚など、この世界には笑えるぐらい転がっているのだから。
どこにでもある石碑より、どこかにある伝説より。
愛する人を思う彼女は、何よりもウィンフィールドの名に相応しかった。
そのまま二週間程度、二人はローレイの家に世話になった。荒れ果てていたはずの庭や壁は随分と綺麗になり、ベッドで飛び跳ねても埃は立たなくなっている。
だから、二人の手は必要なくなっていた。
「本当にいくのかしら?」
彼らが来た時とは随分と見違えた玄関で、ローレイは二人を見送りに出ていた。
「ええ、もう十分すぎるぐらいにお世話になりましたから」
深々と頭を下げるレッドと、彼の後ろに隠れるミサキ。
「……また、来てもいい?」
ローレイは笑い、ゆっくりと頷いた。
「ええ、また雑草が伸びたらね」
そして、彼らは振り返る。新しい旅への一歩を。
踏み出すには、まだ早かった。
兵隊がそこに立っている。全員が同じ軍服に身を包む。
雑魚だ。一瞥してレッドは判断する。数は五人。
用があるのは、自分じゃないとレッドは簡単に理解できた。プロヴィアでの騒ぎを駆けつけてきたのなら、こんな少人数でくるはずは無い。
だから。
「……何だ? 貴様らも詐欺師どもの仲間か?」
詐欺師。
先頭に立つ軍人の一人が、確かにそう言う。
「……遅かったわね。もうとっくにここがわかっていると思っていたわ」
ため息をついてローレイが言う。その称号を認めているようなものだった。
「えっと……どういうこと?」
ただ、ミサキはまだ理解できていなかったらしい。
「なんだ、子供まで使うようになったのか」
「その二人は私のカモよ……被害者みたいなものかしら」
「フン、女狐は未だ健在らしいな……おい捕まえろ」
兵隊たちが、ローレイを取り囲む。
「罪状は詐欺、横領、恐喝……この建物の不法占拠に、英雄の名を騙った罪は重いぞ」
「残念ね、せっかく綺麗になった家で余生を過ごせると思ったのに」
「あの、ちょっといいですか?」
思わず、レッドは口を挟む。無視して通り過ぎるべきだと当然のように彼は理解していた。
「なんだ? 貴様の損害を取り戻すのはまだ時間がかかる」
「いえ、そうではなく」
気になることはある。相当高齢の彼女が、つい最近まで詐欺を働いていたとレッドは思えなかった。
そう、最近。書類上罪が罪として認められる期間まで。
「それはもう時効なのでは?」
兵隊の顔が渋る。彼の推測は正解だった。詐欺、横領、恐喝。その三つはもう20年以上前の罪だった。
だから、彼女の罪は。
「だが、まだ不法占拠と身分の偽証が」
「ここ、誰の家になっています?」
「決まっているだろう? 英雄ローランドだよ」
何一つ問題などではなかった。
「じゃあ、彼女は今から僕の養子だ。ローランド・E・ウィンフィールドの令嬢が、僕の家に住んでいる」
彼は堂々とそう答える。だがそれが正しいことだとわかっているのは、たったの二人だけ。
兵隊達は声を上げて、大笑いをし始めた。
「なんだなんだ、貴様もやはり詐欺師だったか! だがそうだな、芸人の方が向いてそうだな!」
失礼な男だ。レッドはため息をついて、兵隊の腕を締め上げる。
「証明しようか?」
その腕を逆に曲げる。簡単な事。所詮兵隊ごときが、彼にかなう道理
はない。
ようやく剣を抜き始めた他の兵隊の下半身を、レッドは指先を弾いてやるだけで凍らせた。
「まあ、この程度ならどこにでもいるか」
腕を折った兵隊の腰から、レッドは剣を奪う。
「パパ……?」
「あまり気持ちのいいものじゃないからね。少し目を閉じていて」
娘を諭し、刃を自らの首筋に当て、深々と切りつける。
血が吹き出る。当然のように周囲は血の海になる。
「……馬鹿か?」
誰かが呟く。それでもレッドが自発的にした事といえば、剣を投げ捨てたぐらいで。
「そっちがね」
吹き出たはずの血が逆流していく。地面についたはずの血が、シャツに飛び散ったはずの血が。
数秒足らずで傷口は戻っていた。
そう、元通り。
回復ではなかった。彼の肉体が不老不死へと変貌した、その瞬間に戻っていただけ。これが呪いのように、いつまでも彼を戻し続ける。
「……化け物」
「英雄じゃなかったのかい?」
もっとも、化け物であることぐらい彼は百も承知だったのだが。
「それとも、化け物相手に遊んでくれるのかな」
兵士たちを包んでいた氷が解け、折れていた腕が治る。
だから当然のように彼らは逃げ出す。英雄にも化け物にも、勝てるような相手ではなかった。
「あーあ、ちょっと面倒な事になったかな」
実のところ、ちょっとどころの騒ぎではない。ほとぼりを冷ますために逃げていたというのに、それ以上の厄介事を自分で振りまいてしまった。
「驚いたわ」
ローレイが呟く。それから大きなため息をついて、満面の笑みを浮かべてみせる。
「あなた、若く見えるのね」
その冗談に、レッドとミサキは笑っていた。それが歪な一瞬であっても。
家族の時間だった。