第5話 ウィンフィールド家の令嬢 前編
「将来さあ、こういう家に住めたら幸せだよね」
旅の途中に、随分と豪勢な屋敷を見上げながら美咲はそんな言葉を漏らす。ただ、その意見はレッドが賛同できるような物ではなく。
「どうかなあ、管理とか大変そうだけど」
所帯じみた感想を述べることしか出来なかった。
当然のように、美咲はため息をつく。
女性は男性に堅実性を求めるくせに、当然のように理想主義を押し付けるからだ。
「ローランドって夢がないよね」
当然のように、ローランドは腹を立てる。
さんざん彼女に振り回されてきた彼からすれば、美咲は夢がありすぎるように思えた。
「ちゃんと現実主義者なだけだよ」
「そういうの、女の子にモテないよ?」
その言葉は、少しだけローランドに刺さる。似たような事を両親や村の人間から指摘されたことを思い出したからだ。
特別、そういう事を意識した経験はない。以前の彼にとって、それはあまり重要な事ではなかった。
「そうかなあ」
「そうだよ」
ただ今の彼に、それは気にかかることの一つで。
「じゃあ、こういう家に住みたいかな」
笑って、そういう答えを出した。
「そういうこと」
ただ一人、目の前にいる女性が喜ぶために。
§
「それで、この大きな建物は?」
随分と荒れ果ててはしまったが、大きな屋敷を見上げながらミサキはそんな言葉を漏らす。
「隠れ家ってところかな。まだ残っているとは思っていなかったけれど」
「パパが作ったの?」
「貰ったんだ」
「どうやって?」
「まあ、色々あるんだ」
「ふうん」
少しだけ人里の離れた場所にある目の前のこの廃屋手前の家は、レッドがまだローランドと名乗っていた頃に当時の貴族の別荘を頂戴したものだった。ほとんど物理的に頂戴した結果になったのだが、その責任は自分ではなく彼女にあるはずだと今でも信じている。
強固な石造りのそれがまさか千年も崩れないでいると予想はしていなかった。庭は随分と荒れ果て、壁は苔だらけになってはいるが、そこは彼がほんの少しだけ彼女と過ごした場所に間違いはない。
立ち寄る予定などレッドには無かった。
ただプロヴィア村で騒ぎを起こしたほとぼりを冷ますには、少し身を隠す必要があった。幸いプルシアの口添えでまた賞金首になる事はなかったが、軍隊に面が割れたのは都合が悪い。
少しだけ人目を避ける。
そんなつもりで、彼は立ち寄った。
「ただいまでいいのかな」
その質問に対する明確な答えを彼は持っていなかった。彼の所有物ではあるが、彼の自宅という程思い入れのある訳ではない。
ただそこで迷っていれば夜まで悩みかねなかったので、適当に済ませる事にした。
「そういう事にしておこうか」
「ただいま!」
だからミサキは勢い良く玄関を開け、元気な声で当然のように叫んだ。
「……どちら様?」
だから当然のようにそこの家主は、眉をしかめてそんな事を言ってのけた。
部屋の中は思いの外綺麗だった。さすがに見覚えのある家具は一つも残ってはいないものの、建物の構造自体に変化はない。
ただ、一番の違いは家主が変わった事だろうか。
ゆっくりと階段を降りてくる彼女は、五、六十年は人生経験を積んでいそうではあったが、年寄りと呼ぶには失礼な程凛としていた。精悍な顔つきに伸びた背筋。整った顔付きから察するに昔は随分と美人だったのだろうとレッドは推測する。
そんな新たな家主に、レッドは頭を下げる。
「ああ、これはすいません。私達親子旅の途中でして……あまりに立派な家だったのでつい」
「世辞が下手ね、外観は最悪だったはずよ。廃屋だと思って泊まりに来たのでしょう?」
「一面の緑とか……ですかね」
失言だったと悔やむレッドをよそに、家主は肩をすくめて鼻で笑う。
「まあいいわ……それにしても、ただいまはないのじゃないのかしら?」
「それもそうですね」
それから、少しの間沈黙がかつての豪邸を包んだ。
何の反応も示さない家主の顔色を二人は伺っていると、彼女の方から口を開いてくれた。
「……あなた方、お名前は?」
「ミ、ミサキです!」
「レッドと申します」
緊張した声で答えるミサキと、変わらずに礼儀正しく名乗るレッド。
「あらそう」
自分で尋ねておいて、家主は興味のなさそうに頷く。
「お邪魔のようですから、お暇しますよ」
「誰もそこまで言ってないじゃない。折角だからお茶でも飲んでいきなさい。私のご先祖様はね、あなたと同じ赤い髪をしていたのよ」
「失礼ですが……お名前を伺っても?」
赤い髪という単語が、レッドに少しだけ嫌な予感をさせた。
「本当は、流れ者なんかに名乗る義理はないのだけれどね」
それが外れてくれればなどと願うも、そんな程度で目の前の現実が変わることはない。
彼が望むはずのない名前を、家主は平然と口にする。
「ローレイ・E・ウィンフィールド」
いるはずのない子孫。受け継がれることのない名前。
「由緒ある英雄の末裔よ」
誇りあるその名前を、彼女は凛とした声で名乗ってみせた。
「最近の人は敬意が足りないと思わないかしら?」
紅茶を啜りながら、ローレイ・E・ウィンフィールドの名を騙る彼女は年寄りらしい嫌味を口にする。レッドもカップを傾け紅茶を啜るが、あまり根の張る物ではない事だけは確かだった。
「たった一人の英雄の事を忘れて、名前と権威だけ借りて」
「そういうものですよ、人間って」
目の前の彼女はどうなのだろう。
レッドに地の繋がった子孫どころか子供がいない事は確かだ。それでもその名前が受け継がれているという事実は、彼女に嫌疑の目を向けるには十分な理由に違いはない。
「あら、若いくせに見てきたような事を言うのね」
「旅をすると、意外とそういうものが目につくんですよ」
たとえば、自分の家を我が物顔で茶菓子を出す老人とか。
「ところで、ミサキといったかしら……お菓子は口に合うかしら?」
「うん!」
ただ、ミサキにそんな事は関係ない。きっと彼女にとってみれば、目の前の老人は神経質だが茶菓子をくれる親切な人間に見えるだろう。
「そう、良かったわね」
だから、今はそれでいい。
下手に詮索をして波風を立てるよりは、黙っているだけでいい。
それに何より、信じてもらうことは不可能だろう。自分がここの本来の家主で千年以上生きているなんて聡明な人間ほど信じないだろう。
「あなたがた、宿は取ってないのでしょう?」
「まあ、そうですね」
「行く宛はあるのかしら」
「特には」
それからすこしだけ沈黙して、思い出したように彼女が言う。
「なら、ここでしばらく働いてくれないかしら?」
その提案は好都合だった。二人で建物を勝手に使うよりは、誰かに雇われている方がよほど自然だ。
「いい加減庭と建物の手入れをしたかったのだけど、人手が足りなくて困っていたのよ。蓄えはあるから、払うものは払えるわ」
それが嘘か本当なのか、それはレッドにはわからなかった。ただ家の荒れ果てた家屋やあまり上等ではない茶葉からさっするに、豪勢な金の使い方をしているかなど判断できない。
それでも彼らにしてみれば、金銭はどうでも良かった。むしろ匿ってもらえるなら、こちらが支払ってもよかったぐらいだ。
「いい加減あんな荒れた庭なら……ご先祖様に、申し訳が立たないでしょう」
だからその魅力的な提案に、ご先祖様はゆっくりと頷いた。
扉を叩く音が聞こえる。いつどこで誰が使っていたかは知らないが、この家にあった執事の服に袖を通しながらレッドが答える。
「はい、どうぞ」
扉を開ければ、彼の思った通りミサキがいた。
またどこにあったのか、彼女も小さな女中の服を来ている。
「パパ、かっこいいね」
「個人的には、こういう首元の空いてない服って苦手なんだけどね」
襟元を指先で緩めながら、レッドは笑いながら答える。ここまで形式張った服を着たのは、文字通り千年前だった気がした。
「わかってないなあ、女の人はそういうのに弱いんだよ」
それでも、この服装はミサキのお眼鏡にかなったらしい。レッドの慣れない格好を眺めながら、彼女はうんうんと首を縦にふる。
「そういう事、もっと早く聞きたかったかな」
ただ、やはりこの服装はあまりレッドの好みではなかったので、少しだけ意地悪をしてやる事にした。
予想通りミサキはふてくされた顔をする。
「冗談だって」
その一言で少しだけ機嫌を直したミサキはスカートを翻し、くるりと回ってレッドの顔をじっと見る。
「それで、どうかな似合うかな?」
少しだけ恥ずかしそうな顔で、ミサキが尋ねる。
「ああ、似合ってるよ」
「……ちゃんと見てない」
「似合ってるよ、ほら……その赤いリボンとか」
「……まあ許してあげる」
それからレッドは窓を眺める。荒れ果てた庭があるだけで、景色自体は悪くない。
「ところで、僕もミサキも庭に行くんだよね」
「そうだよ?」
「だったらいつもの服のほうが良かったんじゃないかなって」
あまりこの服は庭仕事に向いているように思えない。だからいつもの冒険用の服の方がよほど適しているように彼は思えたのだが、ミサキの表情から察するにそれは間違いのようだ。
「わかってにあなあ、パパは」
それから自信満々のミサキが、胸を張って答えてくれた。
「様式美だよ!」
その答えの意味をいまいち理解できないまま、二人は部屋を後にした。