第4話 大切な人
「ねえローランド」
英雄などという称号は、後からついてくるものだ。世界を救っている最中なんて誰も見向きはしない。自分達を取り巻く悪意と絶望の根源を絶とうとしている人間がいたとしても、それがたった二人の肩にかかっているなどと考えつく物はいないだろう。
彼らもそうだった。かつて世界を救った英雄達は、誰に励まされるでもなく何の変哲もない宿屋に正規の料金を支払い一夜を明かしていた。
「全部終わったらどうしようか」
シーツにくるまりながら、悪戯っぽい笑顔を浮かべて美咲が尋ねる。
「とりあえず故郷に戻ろうかなって考えてるよ」
「じゃあ、私はどうしようかな」
どうして欲しいかなんて、彼はとっくに悟っていた。それでも彼の生来の気恥ずかしさのせいでずっと言えずにいた言葉がある。
「そうだなあ」
だが、今日の彼は違った。曖昧なままで許される時間はもう終わりが近づいている。旅の目的が果たされたなら、彼女が側にいてくれる理由はない。
あくまで目的が一緒だから。
そんな言い訳が許されるのは、きっと今日までだった。
「とりあえず、僕は村に戻ってまた旅をしようと思うんだ。世界を色々巡ったけれど、忙しくてゆっくりなんて出来なかったからね」
本当に忙しい日々だった。次はあれを、日が沈む前にどれを。時計の針に追われたせいで、じっくり観光する暇なんてありはしない。
だからせめて今度は、もっと余裕のある予定を組もう――いややっぱり、何も予定も組まずにいよう。そんなどうしようもない事を、彼は笑って考える。
いつだって彼の予定は、彼女に壊されてきたから。
「だからさ、美咲」
きっとこれからもそうなのだろう。いつだって彼女は彼の手を引いて、気の赴くまま進んでいく。
だけど、今日だけは違う。
そういう風に決心していた。
「これからも、僕と一緒にいてくれないかな」
月明かりが差し込む部屋で、手をゆっくりと差し伸べる。
初めて彼女と出会った日に、そうしてくれたように。
彼なりの誓いの言葉だった。
色々悩み、考えて、今にも顔から火が出るぐらいに恥ずかしくても、それは彼の決意だった。
「……はい」
そうして彼女が手を差し出す。
くしゃくしゃの笑顔で、嬉し涙を流しながら。
その手を強く握りしめた。
§
「それじゃあ、行こうかミサキ」
日が沈み、街にいるのは悪党か警ら中の兵隊だけだというのに、彼は娘の布団を剥がしてそんな言葉を口にしていた。
「……もう朝?」
忘れているのか、それともわざとなのか。どちらにせよこんな時間に動かなければならない原因を作った彼女を見てレッドは深くため息を付いた。
「あのねえ、ミサキが行くって言ったんだよ?」
結局、プルシアとミサキの情熱にレッドが根負けする結果となった。ただあまりに目立つ事をすれば王女誘拐の嫌疑をかけられかねないので、彼は深夜に出発し朝には戻ってくる方法以外はないと提案。結局それが一番現実的だったので、彼らはこんな夜中に起きる羽目になっている。
「あのねえ、僕は行かなくたっていいんだよ?」
「ごめんパパ、冗談だってば。すぐ用意するね」
それからミサキは手際よく服を着替えると、少しだけ背伸びをして仮眠で鈍った体をほぐした。
「それじゃあ、行こうか」
レッドは窓を開けて、少しだけ見を乗り出す。頬を撫でる夜風は中々に気持ちの良い物だった。
「そこからいくの?」
「こっちのほうが早いからね。おいで、ミサキ」
とことことやってくるミサキを小脇に抱え、彼はこそ泥のように窓枠に足をかける。
そして、跳んだ。
お姫様が眠る城を目指して、夜の街を駆けた。
窓から出たのであれば、窓から入るのが道理である。そういう理由で無許可に城壁にへばりついている自分を納得させると、プルシアのいる部屋の窓を軽く叩いた。
こっちは寝ていなかったようで、すぐに窓が開かれた。
「遅かったわね」
開口一番、プルシアが悪態をつく。
「勘弁してくれないかな、人目につくと色々困るんだ」
「そうかしら?」
「少しは立場を弁えてくれると嬉しいかな」
一旦窓から部屋に入り、どこかの舞踏会にでも出かけるような服装で身を固めたプリシアを空いている方の小脇に抱える。両手に花という言葉があるが、今の自分はただの誘拐犯だなとレッドは一人気を落とした。
「それじゃあ行きましょうか……あのお方に会いに」
「れっつごー!」
それから先程と同じように、窓枠に足をかける。
「どれぐらいでつくのかしら? というか場所わかっているの?」
「時間はそんなにかからないよ」
場所は誰よりも知っている。
だから、彼はまっすぐと跳んだ。気の遠くなる時間を過ごしてもなお、忘れられない故郷へと。
例えば一瞬で目的地までつくような魔法は、この世界には無い。仮にそれが生まれるとしてもそれを発案できるのはレッドを除いてあり得ない話で、彼にその気は無いのでやはりこの世界にそんなものは無い。
随分と便利そうな魔法を作らない理由は、自分が飛んだ方が速いからだ。
二人を抱えているせいもあり、若干速度は落ちているがそれでも音の何倍も速い。風圧で体が分解されないよう自分の前面に向かい風と同じかそれ以上の追い風を起こし相殺する。延々と飛んでいる訳には行かないので、時折着地してまた跳んでいく。色々試した結果、バッタのように飛び跳ねるのが一番効率が良かった。
「あなた、空も飛べるのね」
「言ってなかったかな」
「パパ、今度わたしにも教えてね?」
「気が向いたらね」
そうしているうちに、故郷の光が見えてきた。砦が建てられ嘗ての面影は見当たらないが、それでもそこは彼が嘗て愛したあの村だった。山間にある、何の変哲もなかったあの村。
もう、見る影はない。
砦が建設された理由は、国防というよりは見栄である。レッドの人生よりも歴史の短いモルリウム国が発足した際、歴史の浅い当時の国王は泊を付けたかった。そこで目をつけたのがプロヴィア村で、英雄の生まれた村を手厚く保護する事でこの新しい国がいかに歴史や伝統を重んじるかと国民に印象付けさせた。
そのため砦という名前は付いているものの村そのものが消えた訳ではない。プロヴィア村の横に砦が存在すると言ったほうがより正確である。
砦という名と建造物があったとしても、実際に砦としての機能は果たされていない。申し訳程度の見張りが不審な者を見つける心配もなければ、だれかに攻められるような心配もない。
つまるところ、この砦は当時の血税をつぎ込んだお飾り以上の何者でもない。
だが、お飾りにはお飾りなりの用途があった。誰も攻めやしない砦を守らせる事で、警備隊長から将軍までの肩書に箔を付ける。実勢経験として数えられることはないが、そんな場所に配属させられるほどの富と権力を持っているという証明にある。
だから、ここは貴族たちの溜まり場だった。
金持ちの権力者が親族をここに駐留させて、従軍経験を積ませる。何一つ守りはしない砦で形骸化した軍事を学び、後の経歴に活かす。プロヴィア砦にいたということが、自分の親族が権力を持っていることの証明だった。
だから、そのプルシアが憧れるという将軍に対してもレッドは良い印象が持てなかった。第三王女に色目を使う、プロヴィア砦の将軍。典型的な野心家の貴族だろうと考えていた。
「ところで将軍はどこにいるのかしら?」
一度山の中に入り、下山して砦に着くや否やプルシアがそんな事を言う。
「……知らないのかい?」
当然の疑問をレッドが口にすると、プルシアが口をへの字に曲げる。
「それが何か?」
「よくそれで人を馬車代わりにしようと思ったね」
「仕方ないじゃない、堂々と入る予定だったんだから」
「それは知らなかった」
「どうするの?」
少しだけ不安そうな顔をして聞いてくるミサキの頭を、レッドが軽くなでてやる。
「人に聞くのも面倒だし、探しに行こうか」
そう言うとレッドは軽く指を鳴らす。それだけで三人の姿は文字通り影も形も見えなくなった。
「気をつけてね二人とも……手足が見えないのは思いの外大変だし、声が聞こえなくなる訳じゃないから」
二人から感嘆の声が漏れる。
何をしているか確かめることは出来ないが、おそらくまじまじと自分の手を見つめているのだろうとレッドは推測していた。
「初めからこうしてくれれば良かったんじゃない?」
不満が残る声で、プルシアが悪態をつく。
「あまり僕から離れられると効果が消えるんだ」
「どうしてかしら?」
肩をすくめてレッドが答える。
「本当にこの世から消えられると困るからね」
それから彼らは砦へ向かって進んでいった。
砦が村と隣接しているとはいえ、村の中を通らないのはレッドにとって好都合だった。そこを通れば、嫌でも最悪の気分になるからだ。
砦には申し訳程度の見張りがいたが、誰もが適当な場所に腰を掛け他の連中とおしゃべりに興じていた。
「みんな暇そうだね」
小声でミサキがそんな事を言う。レッドもそれには同意見だった。
「そういう場所だからね。ここに来るまでが大変なんだよ」
「なんで?」
「色々必要なんだよ。家柄とかお金とかね」
プルシアの顔色は伺えないが、浮ついているのは間違いない。時折ハイヒールを踏み外すような音が聞こえるのは、そういう事なのだろう。
「それで、リーガル将軍はどこにいるのかしら?」
レッドは砦の天辺を見上げると、そこにはまだ明かりの付いている部屋があった。馬鹿と煙の高いところが好きという理論はまだ変わらないのだろう、少なくとも偉そうにふんぞり返っている人間がいるのは間違いない。
「あそこじゃないかな」
「ああ、将軍ったらどこまでも勤勉な方……」
「先を急ごうか」
砦の頂上までは、何一つ苦労せずに到着した。こっちは姿を消している上に、相手はやる気が無い。手間をかけるほうが難しいぐらいだった。
「ここかな」
扉の隙間から明かりが漏れている。それから耳を凝らしてみれば、誰かの話し声が聞こえる。
「開けていいかな」
「待って」
プルシアにしては珍しく、素直な言葉でレッドを止める。
「あの人を驚かせたいのだけれど、何が一番いいかしら」
「もう十分驚くと思うけど?」
「あなた、女心ってわからないのかしら」
「別にわかりたくはないんだけどね」
「まあいいわ、今すぐ魔法を解いてちょうだい。私がこの扉を開けて、一目散にあの人に抱きついてあげるの」
「それでいいよ」
半分投げやりな態度でレッドはもう一度指を鳴らす。早い所この村から出られるのなら何でも良かった。
「大丈夫かしら?」
姿を戻されたプルシアは、ドレスの裾をつまんで皺がないかを入念に確認する。
「綺麗だよ!」
ミサキがそう言うと、プルシアが嬉しそうに笑う。それは歳相応の少女らしい、ごく普通の笑顔だった。
そっちのほうが似合っている。などという言葉を彼がかけるはずもなく。
そうして彼女は、扉を開けた。
開けてしまった。
「リーガル将軍、会いに来ましたわ!」
そこには、リーガル将軍がいた。上着を脱ぎ、執務室のソファに腰を掛け、嬉しそうな顔を浮かべている。
ただ、彼以外もいた。
一糸まとわぬ姿で、随分と派手な髪の色をした女がいた。リーガルの何倍も嬉しそうな顔をして、彼の耳を妖しく舐め回している。
一人だけではない。ソファの端に腰を掛け、微笑みながら煙草をふかす女がいる。
売春婦だった。プロヴィア村から来た、貴族相手に小遣いをせびりに来る同しようもない女達。
「しょう、ぐん……?」
プルシアの乾いた声が聞こえる。現実を受け入れられない、哀れな少女の声がする。
――ああ、そうだ。
レッドは、一人冷静なままその光景を眺めていた。
しょせんは、こんな程度だ。
別に売春婦と寝ることが、悪いなどというつもりはない。会えもしないお姫様に操を立てて、この貴族の溜まり場で高尚な遊びに興じるななど、どだい無理な話である。
連れ出すべきではなかったと、レッドは悔やむ。大の大人が平気で納得できるような現実は、世間知らずの小娘の地獄に変わりはなかった。
ただ、最悪なのはリーガルだった。
おおかたプルシアにいい顔をして取り入って、王族の仲間入りでもする算段だったのだろう。だから頻繁に彼女に会いに行き、何度も手紙を送っていた。
その積み重ねが、今音を立てて崩れ去った。
もう以前のように彼女に甘い夢を見せるのは不可能だろう。彼女が大人になったとしても、売春婦を侍らした将軍の姿が上書きされることはない。
もう無理だ。
レッドはそう確信した。
だというのに。
「ああ、姫殿下……違うんです。これは、ええと」
恥ずかしそうに頭を掻いて、人懐っこい笑顔を浮かべてリーガルが喋る。部屋を見回し、壁にかけられた綺羅びやかな装飾が施された軍刀を掴むと、今度はえくぼが出来るほどの笑顔をしてみせた。
「そう、賊……賊なんですよ。こいつらが私の部屋に忍び込んで、おかしな誘惑をしてくるのです」
「あなたに呼ばれ」
「黙れ」
口を開きかけた売春婦の首筋に、リーガルが刃を突き立てる。
「でも、問題ありません。なぜなら今」
リーガルは刃を高く掲げる。
「この手で処刑しますから」
それから、まっすぐと彼女の首に向けて、ただ、実直に振り下ろす。
――ああ、そうだった。
美咲、君が救ってくれた世界は。
笑えるぐらいに醜かった。
手を下したのは、レッドだった。
指すら鳴らさずに、一瞬で部屋を火の海に変えた。思わず顔に手をやれば口が歪んでいた事にレッドは気づいた。
それは悪い冗談だった。彼女と出会ったこの場所で、彼を称えるこの場所で。そんな当たり前の常識を、今になって思い出すから。
千年、旅をした。ただ彼女を待ちながら、気の遠くなる時間を過ごした。
いつの間にか、誰かと関わることを避けていた。そうする度に、人の嫌な所を見せつけられるから。
ずっとそうするべきだった。
ただ彼女を待つべき良かった。
こんな下らない事をせずに、ただ風のように生きていけば良かった。
その後悔は遅すぎた。
「貴様……!」
突然の横槍に激怒したのは、当然のようにリーガルだった。ごく自然に、その豪華な軍刀をレッドに差し向ける。
そんな間抜けな将軍に、レッドが一瞥をくれてやる。
ただの虫けらが一匹いた。
勇猛果敢な貴族様が、その程度にしか見えなかった。
「貴様も賊だな? 姫殿下に何を吹き込んだかは知らないが、その罪」
邪魔な虫がいる。なら、どうするか。
一瞬でレッドが距離を詰める。リーガルの首を掴み、そのまま窓から放り投げる。
部屋に虫がいたら、誰だってそうするように。
ガラスが割れ、男の体が落ちていく。
「リーガル将軍……!」
プルシアの声がする。それで初めて、今落ちたのが人間だったと気がついた。
それから遅れて思い出す。人を殺すのは、悪いことだと。
追いかけるようにレッドが跳ぶ。少し勢いをつけ過ぎたようで、思いの外遠くへ飛んでしまっていた。
レッドは風を起こし加速して、男の体を乱暴に掴む。そしてゆっくりと着地すれば、そこは村の中心部だった。
石碑があった。いつ作りなおしたかなど知らないが、随分と真新しい物がある。
そこに刻まれた文字がある。彼がこの村を恨む原因が、そこにあった。
『たった一人で世界を救った、英雄ローランド・E・ウィンフィールドの偉業を称えて』
――違った。
世界を救ったのは、彼女だった。
彼はただ、ついていただけ。
魔法は使えた。武器も扱えた。それでも、あの時はまだ彼女のほうがずっと上手だった。魔法も武器の扱いも、どこからか来たという彼女のほうが何倍も上手に扱えた。
追いついたのはいつだろうか。
彼女よりもずっと上手に、魔法を使えるようになったのは。
彼女よりももっと素早く、剣を振り下ろした時は。
思い出せない。確かめるすべはない。
それでも、鮮明に覚えている。
あの日美咲が消えた時、世界中の誰もが彼女の事を忘れてしまった事を。
彼女の痕跡と記憶はこの世界から徐々に消え去っていた。偉業は書き換えられた。最初の地点がここだった。
彼女とこの村を訪れた時に、刻まれていた文字を覚えている。
『たった二人で世界を救った、英雄たちの偉業を称えて』
そんな石碑は、もう無い。
レッドはゆっくりと顔を上げる。
そこにあるのは、もう見ず知らずの建物ばかりだった。子供の頃、膝をすりむかせて駆けた草原はどこにもない。優しくしてくれた人はもういない。父も母も、もうここにはいない。
だから、ここは故郷でも何でも無かった。今になって、彼はようやく気がついた。
ここにあるのは、ただの不愉快な石碑と知らない建物だけだった。
思わず、彼は疑問に思う。
どうしてこんな村を気にかけていたのか。こんな場所が何になるのか。
偽の伝説を称えるこの村が、ただの雑草にさえ見えた。
――だから、焼いてしまえば良い。
そう思い、手をかざす。
「ローランドの嘘つき」
夜風に乗って、声が彼の耳に届いた。
「たまに帰りたいって、言ってたくせに」
覚えている。
無邪気で、暖かくて、優しかったあの声を。今でもまだ覚えている。だから、振り返る。いつもそこに彼女がいたから。
「……美咲?」
そこには、彼女がいた。
買ったばかりの上着を着て、小さな肩で大きく息をして。走って降りてきたのだろう。呼吸が荒くなっていると、この距離だってわかる。
「パパ……?」
ミサキがいた。
「ああ……」
自分でも間抜けだと思える声が、自然と彼の口から漏れていた。
「どうしたの? パパ……泣いてるよ?」
思わず、顔に手を当てる。冷たい感触がそこにあった。
「何でもないよ」
「本当?」
「……やっぱり嘘かも」
肩をすくめて、彼はそんな事を言う。
「ここは僕の故郷だからね。懐かしい人に会ったんだ」
彼女がいた。
そんな気がした。
それだけで彼は救われた。
「誰?」
それは、誰でも無くただ一人。
彼が愛した唯一の人。
「僕の大切な人さ」
彼の、大切な人。