いってきます
財布の中には、四千八百円。
貯金を全部詰め込んできたから、かなり減ってしまった方だ。
改札口を抜けるついでに手持ちの金額を確かめ、僕は二酸化炭素の塊を唇から吐き出した。この調子であと何日お金が保つのやら。
――これから、どうしようか。
僕は家出少年だ。
そう表現するとありきたりだが、僕の場合は他の同類たちと違って、もう二度と自宅に帰るつもりはなかった。行く宛もなく、一生この世界を彷徨い歩くつもりだった。……これも、月並みな思考だったかな。
今日でもう自宅を出て五日になる。
主な移動手段は電車で、もう県境をふたつは越えた。視線を巡らせばまったく見知らぬ光景が目の前に続いている。
信じられないくらいちっぽけな駅を後にすると、右には背丈の低い家々、左には黄色みを帯びてきた田畑が途方もなく広がり、遠くに山岳が窺えた。ずっと都郊外に住んでいた僕にとっては、まるで異世界のような景色だ。
けれど、正直この数日ですっかり見慣れてしまった。田舎道は変わり映えしないから。家出をした初日は冒険気分だったが、思えば感情を昂ぶらせたのはそれが最後だ。
車が通る気配もないので、歩道のない一車線道路の真ん中を大股で歩いてみた。
「もう捜索願いでも出された頃かな」
誰もいない道路で誰にともなく呟き、僕はまた歩きながら田舎の澄んだ空気に溜息を滲ませた。
家出をした理由は“特にない”というのが本音だ。
学校でのいじめとか、両親の不仲とか……そんな複雑で有り触れた事情は一切なくて。
ただ、毎日の中で僅かずつ堆積していった不満や退屈を、全部振り払いたかったから。普通に生活を送って陰鬱な心持ちになるくらいなら、いっそ日常から逃避するしかないんだと思えたから。思い返せば、我ながら突飛な屁理屈だけれど。
そしてある夜、布団にくるまった僕は夢想した……本当にこれまでの現実を抜け出し、自由気ままに生きる自らの姿を。
一度考え出したら、もう止まらない。
その翌朝、僕はいつもどおり「学校にいってくる」と両親に告げて、真逆の方向の電車に乗った。
準備なんて必要なかった。携帯電話も定期券も置いていって、ただありったけの貯金だけを長財布に詰め込んで。駅のトイレで一着きりの私服に着替えたら、元の制服はゴミ箱に捨てて。
文字どおり身ひとつで片道切符の旅だ。
最初から現在まで、すべて突発的な行動。頭がおかしいと後ろ指を差されたって仕方がない。
自分でも馬鹿だと思う。もしかして精神的に病んでいるのかな――なんて、至極高校生らしい自問すら浮かんでしまう。
さほど大層な代物ではないにしろ、十七年間、ただ無心で積み上げてきたものをいとも簡単に投げ捨てたのだ。
――なにしてるんだろうな、僕は……
自嘲気味に俯き、しかしそれさえも馬鹿らしくなって顔を上げる――と、不意にとある人物が目に止まった。
別に僕とは関係なんてない、赤の他人だ。幼稚園児くらいの女の子と、その手を引いて歩く母親らしき女性。そういえば今日は日曜だったか。
普段なら微笑ましく、あるいは鬱陶しく感じる程度の光景に、しかし僕は不覚にも自分と家族を重ねてしまっていた。仲良くも悪くもなかった両親の顔が脳裏に湧いてくる。
まだ心の片隅では、以前の生活を名残惜しく思っているのだろうか。正直よくわからない。
……自身の未練とは違うが、親への罪悪感なら少しだけ。
兄弟のいない一人っ子だったからか、他の家庭より過保護に育てられてきた。それ以外は変な問題もない、ごく一般的な円満家庭だった……と、思う。
きっと今この瞬間も、近所の人たちや警察にぺこぺこと頭を下げ、血眼になって僕を探しているんだろう。
――父さん、母さん、ごめんなさい。でも、今さら戻る気にもなれない。
両親以外だと、心根から僕の行方を懸念している人間はどうせいない。
小中学からの友達とは疎遠だし、高校ではそもそも同級生や教師と深く関わろうとはしてこなかった。
失踪してもう五日だ。きっと僕の存在も記憶の底に沈めた頃合いだろう。突然いなくなったことを不審に思った人間も稀じゃないだろうか。
――あ、そうだ。ほとんど会話したこともないけれど、茶髪で不良ぶっていた彼は、みんなの前で僕の蒸発に涙を流したかもしれない。僕を肴に、自分に酔って。阿呆らしい話だ。
友人なんて、所詮そんなものだ。僕だって、もうかつての同級生とは一生会わないだろうが、微塵も感慨は湧かない。試しにクラスメイトの顔を順番に思い出そうとしてみたが、半分も覚えていなかった。
……それにしても、歩いていると妙なことばかり考えてしまう。もう過去の思い出なんて必要ないのに。
脳内からくだらない思考を追い出そうと、その場から走り出してみる。運動不足で息はすぐ切れるし脇腹も痛んだけれど、気分は楽だった。
しばらく駆け足で進むと、先刻よりはいくらか大きな駅が正面に見えた。
――やっぱり、また電車に乗ろう。
そうして適当な地名までの切符を買って、僕はホームに降りた。
また三回の夜を越えた。
寝床はコンビニのトイレか大きなマンションの裏手。これから肌寒い季節になる、屋外で眠るのは厳しくなるだろうな。
車窓を流れる平板な景色を眺めたり、地元では絶対に見られない畦道を踏みしめて進んでいる間、僕は度々昔のことを想起していた。
忘れたいと思っても、自分の引き出しはそれしかないのだ。脳みそを使って何事かを考えれば、結局そこに行き着いてしまう。
今日も僕は名前も知らない地方線の列車に揺られ、偶然正面に座った少年に、かつての知り合いの面影を見た。
その気弱そうな顔立ちは、年齢こそ全然離れているが、小学生の頃いじめに遭っていた飯野くんという男子に似ていた。
教科書や机に落書きされたり、授業中に消しゴムの欠片をぶつけられたり……オオゴトではないが、陰湿な類のいじめ。生徒の誰もが黙認していた。たぶん先生も気づいていたが、なにも言わなかった。
僕と飯野くんに、直接的な関係はなかった――と言えば嘘になる。
授業の合間の休み時間、何度か彼に話しかけられたことがあったのだ。
とはいえ、別に「助けて」とか「いじめっ子を止めて」とか、そういう物騒な内容ではない。他愛も脈絡もない、ただの日常会話みたいなものだった。
それが彼なりのSOSのサインだったことは、いとも容易く読み取れた。……読み取れた上で、無視をした。
会話を交わして、それを皮切りにいじめの矛先が自分に向くのは恐ろしかったし、彼を助ける義理もなかったから。
それ以降の顛末は、知らない。飯野くんが僕たちとは別の中学校に進んだことくらいしか。
「ねえ、次の授業のとき、鉛筆貸してくれない?」
飯野くんの、その言葉だけがなぜか記憶の隅にしぶとくこびりついていた。――思えば、どうしてその授業の間だけだったんだろうか? 別にその一日中借りていればいいのに。
いつか、どこかで再会したら、訊いてみようか。どうせ有り得ないけれど。
思い出したついでに、胸中で彼の幸せを願ってあげることにした。
ガタゴトと騒がしい駆動音を立てる鉄の箱の中で、中途半端に曇った灰空を眺めながら、祈ってみる。僕の気持ちに意味があるなんて思わないし、もしかしたら高校でもいじめを受けているかもしれないが、とりあえず無責任に祈った。
……祈っている間に、僕は眠りに落ちていた。終点まで起きなかった。
何度か乗り換えて、太陽が沈んで月が真上で煌めく時分に駅を抜けた。今日は朝から晩まで電車に乗っていた。鉄道好きの子どもが憧れるような一日だ。
一応、補導されないようなド田舎を選んだつもりだ。立ち並ぶ古臭い店のシャッターが降りているのは深夜だからだろうが、どうせ昼間でも大差ないだろうなと思えた。退廃的な、しかし過去の活気もさほど想像できないような街並み。
どこか身体を休める場所を――希望は薄いが――探して周囲を見渡していると、不意に閉まった雑貨屋が目に止まった。
いや、本当に興味を惹かれたのは、その正面に並列している色褪せたガチャポン台だ。
別にマニアな趣味を持っているわけでもないし、ガチャポンなんて十年近くも触れていない。……が、目にした瞬間、なぜか無性に回したい気分になってしまった。おもむろに財布の紐を緩めれば、百円玉は三枚。
行儀よく整列した筐体を、順々に物色していく。様々な種類があるが、ほとんど見たことがない。たっぷり五分ほど悩んで、職人工具を模したオモチャに決めた。一回二百円。再挑戦はできないが、仕方あるまい。
僕は意気揚々と硬貨を投入した。ガチャ。と、レバーを捻る感触が懐かしい。転がり落ちてきたカプセルを開くのに少し戸惑ったりもして。
いざ中身を確認する。一番の狙いはパイプレンチだったのだが、中から出てきたのはモンキーレンチだった。
期待外れだが、観察してみると存外に造りが丁寧で細かい。きちんと動かせるし、これで二百円なら悪くないと思い直した。
なんだか満ち足りた気分で戦利品をポケットにしまい、自然に笑顔を浮かべて立ち上がった。
そして再び歩き出そうとして――ふと、笑ったのも久方ぶりだなと自覚し、今度は苦笑した。恐らく家出を敢行した日以来のことか。
しかし、高校に通っていた頃はしょっちゅう笑っていたかと問われると、怪しいところだ。同じ笑顔でも、他人に合わせて世間から押し出されないように気張っていたせいで、カサカサに乾ききった笑いしか浮かべる余裕がなかったかもしれない。それでは単なる仮面だ。
だから、決して悔悟の念に駆られたりするものか。きっと現状よりは幾分か安定していた未来を、自ら手放したこと。
……これからの予定や展望はない。北へ進むか、南へ向かうか。田舎臭い風景にもいい加減飽きたし、とにかく都会っぽい場所を探してみようか。
しばらく放浪したら、どこか一か所に拠点を構えてその日暮らしの生活をするのも悪くない。
こうして明日、明後日、将来のことを漠然と空想しているこの瞬間は、毎日機械的に家と学校を往復していた頃よりも、よっぽど充実しているんじゃないかと思えた。たとえ風見鶏に従うような道程でも、汚れて見難い羅針盤でも。
――そうさ。
僕は両手に抱えていた一切合切を放り捨てた代わりに、この自由を手に入れたんだ。
誰にも縛られず手前勝手に生きていける、この清々しい開放感。それを改めて自覚して、僕は三日月の薄明かりが照らす夜道を蹴り、あらためて今日の寝床を探した。
財布の中には、七百円。
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