Sinclair
嗚呼、シンクレール。僕の大事な大事なシンクレール。どうか何処にも行かないでおくれ。
君がいるなら何もいらない。君がいるなら月までだって飛ぼう。君がいるなら総てを差し出してもかまわない。
嗚呼、シンクレール。僕の大切なシンクレール。愛しい愛しいシンクレール。
――どうして君は、返事をしてくれないんだい?
エメラルドの瞳に涙を浮かべる君を僕はこの世界の何よりも美しいと思った。
それだけではない。自らの肩を抱くその腕を、か弱く震えるその脚を、聖女の如き言を紡ぐその唇を僕は心から慈しむ。
「そうだ、シンクレール。お腹が空かないかい?いや、こんなこと聞くだけ野暮な話かな。だって今朝から何も食べてないものね」
シンクレールはこくりと頷く。僕はそれに笑顔で返して、昨日の夜から煮込み続けた肉と野菜のスープに隠し味の粉末を入れ火にかけた。
振り返ると彼女は僕のほうをじっと見ている。そんなにお腹が減っていたんだろうか。僕は彼女に申し訳なくなってた。
「ごめんね。そんなにお腹が減っていたんだ」
シンクレールは慌てた様子で首を左右に振った。恥らっている彼女も僕は好きだ。でもシンクレール、そんなに勢いよく首を振ったら取れてしまうよ。
スープが暖め終わったら椅子を引き彼女を座らせる。何も言わずそっとこなすのが紳士の嗜みだ。彼女に食事お食べさせてあげるのも僕の仕事。熱くないようにちゃんと覚ましてあげるのも忘れない。
シンクレールはなかなか口を開けてはくれなかった。肉が入っているからか。そういえば彼女は減量していた気がする。
気にしなくてもいいのに、少しくらい太っても君は魅力的だよ。そう言って笑った僕を見て彼女はやっと口を開いてくれた。
しかし、熱かったのだろう。彼女は泣きそうな顔をして食事を口の中に含んだまま持て余しているようだった。
「大丈夫。落ち着いて食べてね」
僕がそう言うと彼女は震えながら嚥下した。
それを見て満足した僕は、自分も一口スープを飲んで、美味しいねと彼女に笑いかける。シンクレールも笑ってくれた。
そんな彼女を僕は抱き寄せ、力いっぱい抱きしめた。彼女の肩は震え、少しすると僕にもたれかかるように力が抜けた。
今日の彼女はいつもより早く眠ってしまった。一定のリズムで聞こえる寝息も、少し開いた口から漏れる寝言も、愛らしい彼女のものと思うとこの上なく素晴らしいもののような気がする。
「ねえ、シンクレール。僕も一緒に寝ていいかい」
返事はなかった。だからいつものように彼女を起こさないようにこっそりと僕もベッドに入る。
夢で見た彼女は真っ白のドレスを着ていた。なので僕は今日も誓う。そのドレスの胸に真っ赤なバラを添えて上げようと。
シンクレール、今日は何をして過ごそうか。二人で踊り明かすのはどうだろう。今度は彼女に料理を作ってもらうのもいいかもしれない。
そして最後にはやっぱり、真っ赤なドレスを着せて上げよう。
嗚呼、シンクレール。親愛なるシンクレール。君は薔薇色のドレスがとてもよく似合う。
シンクレール。シンクレール。シンクレール。シンクレール。
僕は何時までも、きっと何処までも――君の幻影を追い求める。
目を覚ました。耳に入るのは遠く聞こえる鶏声と僅かな蠢動。伸びをして立ち上がる。
家の外に出て少しだけ遠くを見渡すと君がいた。
「おはようシンクレール」
陽光を背に首を傾げる仕草をする君は太陽よりも眩しくて、僕は目を細める。
今日も一日が始まったのだ。
なぜこんなことになったのだろうか。真面目な好青年というのが彼に挨拶したときの印象だった。母親譲りの翠緑色の瞳を誉めてもらったのも嬉しかったし、頭を撫でてもらうのも自然と悪い気がしなかった。話を聞いていると、どうやらシンクレールという彼女がいるらしい。彼の家に上げてもらったのはそんな安心感も後押ししたせいだ。彼女には悪いと思ったが彼との会話を終わらせるのは惜しいと私は考えていた。
饐えた臭いがした。血走った彼の目は自然と恐怖を喚起させる。
涙が出た。震えを殺すために肩を抱く。頭の中は真っ白になった。知らずに口からは彼を説得する言葉や許しを請う言葉が漏れた。何を言ったか詳しくは覚えていない。
「そうだ、シンクレール。お腹が空かないかい?」
シンクレールが私のことだとこの時初めて気がついた。もちろん私はそんな名ではなかった。
「いや、こんなこと聞くだけ野暮な話かな。だって今朝から何も食べてないものね」
はじめに浮かんだのは疑問だった。彼と会ったのは昼過ぎだったからだ。なんでそんなことを知っているの。真相に思い当たった時には一層恐怖が強くなった。
私は黙って頷くしかなかった。
腰が抜けて立てなかった私を彼は黙って椅子に座らせ、そのままスプーンで掬ったスープを差し出してきた。スープは赤く、私は悪い予感がした。
スープを掬った皿を見る。浮いていた肉は掌の形をしていた。
彼が何かを言っている。悲鳴を押し殺すことで精一杯だった私はよく聞き取ることができなかった。ただ、彼の笑顔がこれを食べないと酷い目に合わすといっている気がした。
鉄の味をするスープを飲み込めない私を彼はじっと見ていた。焦りが湧く。
「大丈夫。落ち着いて食べてね」
言われた瞬間、私は口の中身を飲み下していた。咽せる我慢すると、呼吸がし辛く声など出るわけがなかった。
彼はこのスープとも呼べない液体を飲み、あろうことか美味しいねと笑った。勿論、美味しいはずもなかった。恐怖で唇が引きつった。
身体が強張っていたせいか、そうされるまでまったく気がつかなかった。腕をとられ強引に引き寄せられる。不思議と恐怖は感じず、ただ流れる視界の隅に彼の握るナイフを捉えた。
背中が熱い気がする。体が痙攣を起こした。ただそれだけしか感じないのは、さっきのスープに何か入っていたからなのかもしれない。
口から赤い液体が零れ、首筋を伝い白い洋服を汚す。薔薇みたいだなと思った。してみると抱きしめられたまま胸に薔薇を添え今まさに眠ろうとしている自分は姫のようだと、他人事のように考えた。それならばと、私は体を彼に預けた。
彼が私を見ていた。いつの間にかベッドに寝かされているようだった。朦朧とする意識の中で私は彼の顔を見た。
「死にたくない」
何度もそういった私の声は多分彼には聞こえていなかった。
Sinclairはシンクレールともシンクレアとも発音するそうです。
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