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2─2白(アルビノ)

 陽の光に視界を奪われた夕陽は、反射的に顔を伏せて両掌で眼を庇う。

 窓辺から少しでも遠く離れようと身体を腰からねじって反転させるが、ベッドの縁に着いた細く華奢になった右手は思いの外かよわく、軽くなったはずの夕陽の体重ですら支える事ができずに、肘からがくりと折れてバランスを崩す。




「――――――!!」




 全身が粟立あわだち、ベッドから転落する事を夕陽が覚悟したその瞬間、ふぅわりと誰かに柔らかく抱き止められた。




「ごらんなさい、わたくしの言ったとおりでしょう。まだろくに、自分の身体も使えないではありませんか。この分では車椅子に頼らなければ、ベッドから離れる事すら叶いませんよ」




 由布院楓のおっとりとした声はそれまでと全く変わりなく、何処までも落ち着き払っている。

 彼女が前もって警告していたとおり、これでは夕陽ひとりで退院して元の日常生活へ戻る事など、とうてい無理な話だった。

 メタモルフォーゼによる女性化と二週間にも及ぶ病床生活がもたらした体力の低下は、夕陽の想像を遥かに超えている。

 だが、問題は体力的な側面ばかりではない。

 真に厄介なのは、メタモルフォーゼによる女性化の結果、以前と比べて変化したものとそのまま変化していないものを、夕陽自身が正確に把握していない点にある。

 男女の性差をなるべく早い段階で受け入れ、それによって生じる意識のズレを優先して埋めていかなければ、MTF化したFTM・・・・・・・・・という通常ではありえない矛盾を抱えた存在になり、後天的な性同一性障害とも言うべき問題に後々苦しむ事になってしまう。

 始祖の十人の中には、望まずしてこのパラドックスに陥ってしまった者もいる為に、メタモルフォーゼした直後の妹姫に対する精神的ケアには十人皆が特に心を砕く。

 だが、今の状態の夕陽にはそんな由布院楓の穏やかなる声も、心の内なる思惑もどちらも届きはしなかった。




「目がっ? 何も見えない!?」




 白い闇がもたらした恐怖に、夕陽は軽いパニック状態に陥り、恥も外聞もなく由布院楓の身体にしがみつく。

 彼女はそれを優しく受け止めて、夕陽の背中をとんとんと叩いて小さな子供のようにあやす。




「ふふっ。芙蓉のお姉さまに対してもそうでしたが、言葉のわりに意外と甘えん坊さんですねえ。でも、心配はいりません。すぐに見えるようになりますよ。わたくしも夕陽さん程ではないですけれど、最初は苦労いたしました。時が経てば慣れますし、今はいいカラーコンタクトもありますから」




 アルビノとは先天性白皮症せんてんせいはくひしょうと呼ばれる、遺伝子疾患である。

 姫の場合、夕陽程ではないが、メタモルフォーゼによる女性化の際に例外なくアルビノになる。

 メラニンの生合成に係わる遺伝子情報の欠損により白化するのだ。

 夕陽の場合、その症状が姫の中では最も顕著な例で、毛髪や体毛そして素肌が完全にメラニン色素を失い、抜けるような白に変化している。

 それでいて、瞳だけが兎のように紅いのは、虹彩に集中している毛細血管が浮かび上がって見える為だ。

 メラニン色素を持たないアルビノは太陽光による紫外線に弱く、白い肌はすぐに日に焼けて赤くただれ、紅い瞳は網膜が焼かれ一時的とはいえしばらくの間視力を失ってしまう。




「紫外線(UV)対策ケアがいかに姫にとって大切か、分かっていただけましたか? 生まれついての女性に比べて、よほど注意が必要になるのでございますよ」




 由布院楓のものとも、夕陽自身のものともつかぬ心臓の鼓動に合わせ、背中をとんとんと叩かれるに任せていた夕陽は、それでもようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。

 由布院楓の胸に抱かれながら、凪いだ水面みなものように気持ちが静まってくると、今度は急に恥ずかしさが募ってくる。

 今さらながらに、彼女の腕の中で幼児のように相手の身体にしがみついている自分に気付くと、両頬と耳の後ろ辺りが熱くなり、どうしようもなくいたたまれない思いになる。




「………………ぁ」




 あわてて離れようとした夕陽は、その時不意に懐かしい匂いを嗅いだ。

 夕陽の双子の姉、真陽が好んで使っていた香水フレグランスと同じ、フローラルな椿カメリアの香り。

 由布院楓からほのかに漂うそれは、彼女が髪を結い上げる際に使う椿油の芳香なのだが、夕陽がそれを知るのはもう少し後の事になる。

 胸いっぱいにその香りを吸い込むと、家族全員が揃っていて幸せだった頃の記憶が一度に甦ってくる。

 夕陽はそのあまりにせつなく、たまらなく愛しい過去の映像ビジョンの奔流に呑み込まれてしまい、思わず涙を流した。

 自分ではどうする事もできない程の圧倒的な寂寥感せきりょうかんに打ちひしがれ、全身が崩れ落ちそうになる。




「どうかされましたか?」




 由布院楓の穏やかな声が、夕陽を現実に引き戻す。

 感情の波に溺れてしまいそうになっていた夕陽は、その時不意に理解した。

 救いの手は最初から、目の前にずっと差しのべられていたのだと――。




「……何でもないです」


「そうですか」




 華奢な両肩を震わせ、嗚咽混じりに返事をする夕陽を、由布院楓はそれ以上は特に何も追求する事なく受け止めた。




「ただ、もう少し」


「はい」


「もう少し、このままでいてもいいですか?」


「はい」




 二度目の“はい”に含まれた肯定の響きに、万感の思いが込み上げ、夕陽の胸が熱くなる。

 涙はもはや止めどなく溢れ続け、枯れる気配がない。




「あと、もうひとつ」


「何でしょう?」


「今だけ……姉さんって、呼んでもいいですか?」


「もちろんでございますよ。今だけと言わず、これからはずっとそう呼んでくださってかまいません。最初から言っているではありませんか、あなたはわたくしたちの妹姫なんです。どれだけ甘えてくださってもよろしいのですよ」




 妹姫と呼ばれる言葉の響きが、何故か胸にすんなりと落ちる。

 夕陽の心の内にあった、つまらないわだかまりが消えた瞬間だった。




「おれ、行きます。由布院のやしきへ。いえ、連れていってください。おれも“一緒”に」


「これからは由布院があなたの家なんですよ。もうずっと“一緒”ですから」


「姉さん……の、言う事聞いて、早く元気になる!」


「はい。素直な方は好きです、わたくし」




 この後、夕陽の気持ちが充分に落ち着いた事を確かめた由布院楓は、手毬と小毬のふたりにこの新たな妹姫の身の回りの世話を任せ、三人の女性看護師たちには折りたたみ式車椅子と松葉杖の手配を依頼した。

 その間、自らは夕陽の退院に関する手続きの全てを、外来が訪れ始める時間までに手際よく終わらせる。

 そうして夕陽は、病院関係者以外の誰の目にも一切触れる事なく、由布院家所有の高級リムジン車中の人となった。


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