2─1白(アルビノ)
由布院楓の口調はあくまでもおっとりしていて、何の気負いやてらいもなく淡々と話を進めていく。
「芙蓉のお姉さま、ご心配には及びません。わたくし自身もメタモルフォーゼの経験者である事をお忘れでしょうか? 夕陽さんは病人や怪我人などではないのです、女性としての心構えや立ち居振舞いを早急に身に付ける為にも、日常生活に勝るリハビリはないですわ」
由布院楓の静かな訴えに、本来反対すべき立場の三人の女性看護師たちですら、思わず頷いてしまっている姿を見て、芙蓉葵はくらりと微かな目眩を覚える。
長く重い沈黙の果てに、芙蓉葵は肺の中に溜め込んでいた空気を、口唇から全て吐き出した。
「負けたよ、由布院。夕陽くんの退院を認めよう。きみは一度口にした事は絶対に曲げないからな」
「おそれいります」
苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた芙蓉葵に対し、相も変わらず涼しげな表情のままでいる由布院楓は、それでも殊勝に頭を下げる。
「ただし条件がある。最低でも週に一度は経過を確認したい」
「わかっております。ここ、華月宮大付属病院に週に一度、必ず診断の為に夕陽さんを連れてお訪ねするとお約束いたしましょう」
頭を下げたままの由布院楓を、心持ち顎を上げて見据えていた芙蓉葵は、夕陽にさらに念を押すようにして言う。
「夕陽くんもいいね? 少しでもリハビリの経過が思わしくないようなら、またこの部屋に戻る事になるから、そのつもりで」
「はい。あの……ありがとうございます。お世話になりました。えっと……葵、先生」
芙蓉葵は厳しかった表情を和らげると、無言で夕陽の頭をひと撫でしてから、名残り惜しげにその身を離す。
彼女はおもむろにベッドから立ち上がると、女性看護師たちに後を任せ、そのまま振り向きもせずに部屋の外へと出ていく。
そんな彼女と入れ替わるかのようなタイミングで、ふたりの少女がドアから室内へと滑り込んで来た。
「お館さま、ただいま参りました」
「ああ、手毬に小毬。ふたりともこちらへ」
ドアを背にしておずおずと一礼するふたりを由布院楓が招き寄せると、彼女たちは背後を振り返りながらベッドサイドにまで歩いてくる。
「先程入口で、芙蓉さまにご挨拶させていただいたんですけど――…」
「何かものすごく不機嫌そうでいらして、何かあったのでしょうか?」
毬と呼ばれた名前のとおり、ショートボブがよく似合う、小さな丸顔の愛くるしい表情の少女たちだった。
年齢はその物腰からすると十代後半に思えるが、童顔なので夕陽より年下に見えなくもない。
よく似ているので、おそらくは姉妹なのだろう。
手毬に小毬という、名前からして間違いない。
身長は由布院楓よりもやや低いが、それでも女性の平均身長は上回っている。
藍色の落ち着いたお仕着せの和服に、ふたり揃って身を包んでいる姿は、何処か日本人形にも似た雰囲気を漂わせている。
「芙蓉のお姉さまはいつものとおり、何もお変わりはありません。おまえたちが気にする事ではないのです。さ、それより早く夕陽さんにご挨拶なさい」
由布院楓が促すと、ふたりは揃って前に進み出た。
「あらあら」
「まあまあ」
ふたりは夕陽の視線を捉えると、いきなりその表情を輝かせた。
全く同じタイミング、全く同じリアクションで、胸の辺りで両掌を合わせ、きゃあと小さな嬌声を上げる。
「何てお可愛らしいんでしょう。さすがは、お館さまがお気に召した妹君だけの事はありますわ」
「本当に、何てお美しい。あなたさまのようなお方のお側仕えになれるなんて、夢のようですぅ」
夕陽はふたりの言葉が自分の容姿を指しての事とはまだまだ実感できずにいたので、何と言って返事をすればいいか、この場に適当な言葉を咄嗟に見つける事ができなかった。
「はじめてお目にかかります、手毬と申します。これからは夕陽さまのお側にお仕えさせていただきますので、何なりとご用命くださいませ」
「はじめまして、夕陽さま。小毬と申しますぅ。誠心誠意あなたさまにお仕えいたしますので、今後ともどうかよろしくお願いいたしますね」
滑舌のはっきりしているのが手毬で、時折語尾が舌足らずになるのが小毬、黙っていればよく似たふたりだが、いったん口を開くとその印象は大きく異なった。
「えっと、彼女たちは? これから何を?」
どう反応すればいいか思いあぐねた夕陽は、縋るような視線を由布院楓に向ける。
「もちろん退院の手続きですわ。手続きを終えたら、すぐに由布院の邸に向かいます。ですから、ふたりは夕陽さんの介添えとして必要なんですの。何せ、メタモルフォーゼされてただでさえ体力が落ちている処へ、二週間ぶりに床を離れる事になるのですから」
「かっ、介添えなんていらないです。それに退院できるなら、おれは真陽に会いに行きたい」
「真陽さんの事なら心配いりません。雨月のお姉さまがおっしゃっていたとおり、ヘルパーをふたり付けてありますし、何より元から完全看護の態勢だと伺っておりますが」
「二週間も会ってないんです、この目で顔を見ないと安心できない」
「今のあなたの姿だと、行く先々でいたずらに騒ぎを引き起こしかねませんよ。芙蓉のお姉さまが真陽さんの引き継ぎをなさるまで、待った方が賢明でしょう」
平行線を辿るふたりの会話を見かねた三人の女性看護師たちが、由布院楓の背後から、それぞれ遠慮がちに口を開いた。
「由布院の奥様のおっしゃるとおりです、夕陽さま」
「ウチの院長先生を信じて、全てをお任せください」
「交渉は詰めに入っているそうですから、あともうしばらくの辛抱です」
彼女たちによる矢継ぎ早の説得に、夕陽はそれ以上抵抗する事をあきらめ、次なる案で何とか妥協点を見いだそうとする。
「だったら家に帰らせてください。家賃や公共料金が未納になってるはずだから」
「困りましたねえ。口約束とはいえ、あなたは先程わたくしと部屋の賃貸契約を結んだはず。由布院の邸でお預りするからには、当主であるわたくしの意向に従ってもらわねばなりません。それに夕陽さんのご自宅は現在、わたくしたち始祖の十人が管理をしていますので、慌てる必要など何もないのでございますよ」
由布院楓が右手指先を頬に軽く当てながら小首を傾げ、さほど困った様子も見せずにそう言うと、夕陽が怪訝そうに眉をひそめた。
「やっぱり、おれが借りた部屋って……」
「ええ。わたくし、由布院の邸です」
「…………っ」
思わず息を呑んだ夕陽に対して、由布院楓は再び右の袖口で口許を隠すと、瞳を弓形に細める。
「ふふっ。今さら悩んでおいでですか? わたくしが提示した条件でまだご不満のようでしたら、いっそ無償でお貸ししてもよろしいのですけれど」
さんざん逡巡をくりかえした挙げ句、夕陽はやがてがっくりと華奢になった両肩を落として、力なく呟いた。
「いえ……月、五千円で貸してください。でも、介添えはいりません。ていのいいメイドじゃないですか」
「なりません。必要だから、あなたに付けるのです。この子たちがお気に召さないのであれば、他の者を付けましょう。何なら、夕陽さんに選んでいただいてもかまいません」
「そんなの関係ない。自分の事は自分でできるって言ってるんです。メイドなんかいらない」
それを聞いた由布院楓は顎を心持ち上げると、瞳を一本の線で描いたように、すぅ――と細める。
「どうしても、聞き入れてはいただけませんか?」
「何を言われても、嫌なものは嫌なんです」
「仕方ありませんねえ。聞く耳を持ってもらえない方には、身を以て知っていただくしかないですわね。アルビノの特性を早めに理解するのも、今後を思えばそう悪い事ではないでしょう」
「アルビノの特性?」
首を捻る夕陽には取り合わず、由布院楓はその冷ややかな表情には似つかわしくない、何処までもおっとりとしたままの口調で、脇に控えるふたりの少女の名を呼んだ。
「手毬、小毬」
「はい、お館さま」
「少し室内に陽の光を入れましょうか」
「かしこまりました」
ふたりは一礼を残して窓際に歩み寄ると、左右シンメトリーに向かい合う姿勢を取って、中央にあるカーテンの隙間に揃って手をかける。
「お、奥様? 何を?」
由布院楓の意図に気付いた女性看護師たちが、急にうろたえ出すのを尻目に、手毬と小毬のふたりはカーテンを勢いよく開け放つ。
「――――!?」
陽の光が室内に満ちたその瞬間、夕陽は網膜が焼け付くような痛みを覚える。
それと同時に視界が白一色に染まると、夕陽の“紅い瞳”にはもう何も映らなくなった。