1─5目覚めし時
白い携帯端末と本革のカードホルダーに、一冊の預金通帳が差し出された。
夕陽はしばらくそれらを無言で見つめ、小首を傾げながらアッシュグレーの髪の女性をつぶらな紅い瞳で見上げる。
“まるで雪兎だ――”
間近にいた誰もがそう思った。
夕陽本人は全く気付いてはいないが、その無垢で幼い仕草は殺人的に愛らしく、朱理花織と恵那菜摘のふたりを始め、看護師たちそれぞれの感情を激しく揺さぶった。
口許と鼻を両手で覆い隠して上を向いたり、朱に染まった頬に両の掌を当てて俯いてしまったり、自分で自分の両肩を抱いて身悶えたりして、あたふたと謎の動きを見せつつ、挙動不審に陥った彼女たちを尻目に、アッシュグレーの髪の女性が口を開く。
「自己紹介の前に、これを渡しておこうか。わたしたち始祖の十人の携帯のナンバーとアドレスが登録してあるわ。通帳にはカードの限度額のトータルが記載されてる。毎月ちゃんと記帳して、使用は計画的にね。もっとも、あなたが使った分は翌月にはちゃんと穴埋めしておくから、何も心配せずに好きなように使ってくれればいいわ」
」
夕陽はうながされるままに、受け取った携帯端末とカードホルダー、そして通帳を不思議そうに眺め回す。
芙蓉葵がそんな夕陽から携帯端末を取り上げると、タッチパネルを操作して始祖の十人の個人情報を呼び出した。
「わたしたちは皆、旧家の出だからな。聞いただけではどんな漢字を当てるか分かりづらい名前がある。きみも、この画面を見ながらだと分かりやすい――どうした?」
「ルナックスの黒……」
夕陽がぽつりと洩らした呟きを聞いて、芙蓉葵がさらに補足する。
「ああ、それは緊急用だろう。きみが必要に迫られて、どうにもならなくなった時にはそれを使うんだ。姉上も十年ぶりの妹姫の誕生だから、今回はかなり入れ込んでいるみたいだな」
シーツの上に数種類のカードをバラまいて、名刺大の黒いプラスチック製カードを両手で持って固まっていた夕陽が、慌てた様子で通帳を開き記載されている金額を確認すると、俯き加減でプルプルと小刻みに震えだす。
「夕陽くん?」
「これ――!」
勢いよく顔を上げた夕陽の双眸は大きく見開かれ、芙蓉葵の瞳を正面から捉えた。
印象的な紅い瞳には失われていた光が戻り、そのあまりに強い眼差しに芙蓉葵はくらりと軽いめまいを覚える。
「これ、何ですか?」
開いた通帳を芙蓉葵に突き出した夕陽は完全に自分を取り戻し、現実に還って来ていた。
よほど強い衝撃を受けたらしい。
間近で待機したままだった女性看護師たちが、限度額無制限で有名な黒のカードを見て目を剥くと、好奇心全開ですかさず通帳を覗き込み、記載された預金残高の桁数を数え始めて、すぐに途中で放棄した。
彼女たちは思わず無言で見つめ合うと、長年のつきあいが可能にした高速のアイコンタクトで、意志の疎通を図り始める。
シスコン、姉バカ、過保護――他。
様々なワードがそれぞれの胸中で交錯する中、やがて彼女たちはいずれも同じ思いを抱く。
考えるだけ不毛だと分かってはいたが、院長である芙蓉葵が、今は自分たちと同じ女性である事を、三人は全力で呪わずにはいられなかった。
「あなたは一年前にご両親と車の事故で死別して、同乗していた意識不明のお姉さまをひとりで面倒みているはずだけど」
芙蓉葵の代わりに、アッシュグレーの髪の女性が再び答えると、夕陽はその言葉に過剰に反応した。
他人の視線を気にする余裕もなくうろたえるその姿は、見る側の動揺をも思わず誘う。
「そうだ、真陽! おれ、どうかしてる! 今日の日付は!? もう、どれくらい眠ってたんだ!?」
「きみが眠りに就いてから、今日でちょうど二週間だ。だが、心配しなくてもいい。きみの姉上なら、ウチの病院で面倒をみさせてもらえるよう、入院先の病院とは既に調整に入っている。すぐに話はまとまるだろう。世話役にヘルパーもふたり付けてある」
芙蓉葵の抑揚を抑えた落ち着いた言葉に、夕陽はホッと胸を撫で下ろしたが、そのままきつい視線で彼女を睨む。
「……調べたんですね」
だが、この問いに答えたのはやはり、アッシュグレーの髪の女性だった。
質問に対する役割分担がはっきりとしているのが窺える。
「悪いけどいろいろとね。安曇野家の資産状況も過去から現在まで、全て把握しているわ。ただひとつ、あなたのメタモルフォーゼ発症の経緯だけは調査外。主治医である芙蓉葵にストップをかけられてしまっては、逆らう訳にもいかないしね」
夕陽の目つきがさらに鋭くなり、頬が一気に紅潮する。
「施しですか? そんなのいりません。両親が遺してくれた貯えと保険で、ぎりぎりだけど何とか暮らせてます」
「その貯えも何時まで続くかしら? お姉さまの高度医療に対する費用はかなり重い負担のはずよ。あなたが今までどおりの生活を選んだ場合だけど、わたしの試算ではどんなに上手に遺産を運用しても、今のままでは高校は卒業できても大学は無理ね。いずれ行き詰まるわよ」
「でも。だからって、こんなの受け取る理由がない!」
「理由ならあるわ、あなたがわたしたち始祖の十人の妹姫だからよ」
夕陽は、自身の理解を超えたその言葉に唖然とする。
「たったそれだけで?」
「それだけで十分だわ」
アッシュグレーの髪の女性は、夕陽がなぜ怒っているのか心底分からないといった雰囲気をありありと漂わせている。
「でも、やっぱりこれは受け取れません」
あくまで拒絶する夕陽の頑なな態度に、彼女は顎に右拳を当てその肘を左手で抱きかかえると、悩ましげな表情で溜息を吐く。
「金額が不服なのかしら? それとも現金の方がいいの? 言ってくれたらすぐにでも用意するけど。でも、今のあなたには重いわよ。それにそうね、そうなったらとても危険だわ。あなたに護衛をつけなければならないわね。至急、優秀なSPを五、六人程セレクトさせるわ」
それを聞いた夕陽は思わず脱力してしまい、それ以上会話を続ける気力も失くして、芙蓉葵の胸にぐったりと倒れ込んで、そのまま彼女に右肩を預けてしまった。
今週末から来週初めにかけて忙しいので、頑張って少し早めの更新です。
それから、今回のエピソードが予定より膨らんでしまったので、始祖の十人の自己紹介は次回に持ち越しです。
楽しみにされてた方がいたなら、本当にごめんなさい。
でも、エピソードが予定より膨らんだり、キャラが勝手に動き始めるのは、作品にとってはいい傾向なので許してください。