10─2集結、ふたたび
夏の日射しにはまだ遠いこの季節にも関わらず、その部屋では天井カセット型の空調機がフル稼動で運転していた。
実利と機能性を優先させた無機質なその部屋には、シルバーメタリックの質感を持つ、アルミ鋼の質感がよく似合っていた。
部屋の主が座るデスクを始めとする室内の什器備品類全てが、硬質なシルバーメタリックのイメージでまとめられている。
室内を構成する四面の壁には、ブラインドの降りた窓枠と、二箇所あるドアの部分を除いて、やはりシルバーメタリックのスチール製ラックが組まれ床面から天井までを埋め尽くす。
ラックにはルーターによって統括された、ハイスペックを追求した法人用サーバーマシンやPCのHDDが数十台鎮座し、それぞれの筐体から微かに響いてくる駆動音や冷却用ファンのモーターが回転する音が混じり合い、独特の低い唸り音を上げている。
各マシン間はそれぞれ、複雑に絡み合う各種ケーブル類が連絡しあっている。
さらには、床もまたアルミ鋼製の二重床が組まれ、隙間からは、蛇のようにのたうち走っているコード類が覗いているのが見て取れる。
知識ある人間が見れば、この室内に構築されたサーバーシステムには、億単位の巨額の費用が注ぎ込まれている事がすぐに分かるはずだ。
だがこの部屋はIT企業のオフィスでもなければ、一部上場企業内のサーバールームでもない。
そこは、私立華月宮学園の学園長室と呼ばれている一室だった。
その部屋の中央部、場違いな雰囲気を醸し出している応接セットのソファーにちょこんと座る制服姿の白い少女がひとり。
彼女は目の前のローテーブルに置かれた紅茶が注がれたマイセンのティーカップに、一度も手を伸ばしてはいない。
琥珀色したお茶と、柑橘系の芳醇な香り。
ベルガモットの落ち着きある芳香が、カップの中身がアールグレイである事を教えてくれる。
彼女は微かに覚え始めた喉の渇きを潤す欲求に、もうかなりの時を耐え続けていた。
お茶を出された時に学園職員から丁寧に勧められた事から、別にティーカップに手を伸ばしても何ら問題はないはずだとは思ったが、同時に出された、“もうひとつのティーカップ”の中身が一向に減らない以上、やはり自分ひとりだけが先にカップの縁に口唇を付けるのはためらわれてしまう。
何時果てるともない静寂。
張り詰めていく緊張の糸。
沈黙だけが、ただ続いていく時の流れに耐えかねて、安曇野夕陽は思わず声を上げた。
「あ……あのっ」
だが、後に続く言葉が見つからない。
かけるべき言葉がなかったからではない。
むしろその逆で、ひさしぶりの再会に思いがけない程の想いが、とめどなく溢れてきたからであった。
どんな言葉を選んでみてもこの場の状況にとても相応しいとは思えず、どんな言葉を選んでみても自分の気持ちを上手く表現できそうには思えなかった。
沈黙が続く、その室内で腰を下ろしている人間が後ひとりいる。
安曇野夕陽本人の他に、夕陽が雨月という姓だけを知る、姫たちの長姉。
何も分からぬまま、連れて来られたこの部屋の主たる彼女に、室内に入る事を許されたのは、夕陽ただひとりだけだった。
当然ながら、一時的にとはいえ夕陽から目を離す事になる為に、朧たちは散々渋って見せ、強硬に抵抗したのだが、相手はあの由布院楓でさえも一目置く人物である。
見事な交渉術を展開し、朧たちが自ら身を引くまでに擁した時間は、意外な程までに僅かでしかなかった。
悪く言えば、朧たち自身にもよく分からぬうちに丸め込んでしまったのだ。
それは、事の成り行きをすぐ間近で見ていた夕陽でさえも、舌を巻く程の見事さだった。
「ああ、すまないな、安曇野夕陽。悪いが、もうあとほんの数分程待ってくれないか? 何よりもきみの事を優先したいんだが、組織の長としては、なかなかそういう訳にはいかなくてな。どうしてもリアルタイムでしか対処できない仕事を片付けるまでは、今はこのとおり手が離せない」
「え? あの、そんなの全然……」
学園長室、その窓際に置かれている重厚なアルミ鋼製のデスク上には開かれたノートPCが五台置かれていた。
姫の長姉たる学園長は、そのノートPCのキーボードを手許を全く見ないブラインドタッチで、高速タイピングを一瞬の遅滞もなく続けている。
さらに驚くべきは、右手と左手で、同時にそれぞれ別のノートPCを操作し、さらには五台全ての液晶画面に、流し見ながらもせわしなく視線を走らせている事実だった。
むろん、デスクの片隅に追いやられている、中身が減らないままのティーカップの存在感は薄く、見向きもされない。
この状態を彼女は、朧たちと相対した時からずっと続けているのだ。
つまり彼女にとっては、朧たちをあしらう程度は仕事のついでのほんの片手間の、まさに児戯にも等しい些事だったという事でしかない。
「朧が言っていた、風紀委員と生徒会執行部の間に生じた軋轢の件は何とかしよう。しかし、頭ごなしに行くのは少々不味い。そうだな……生徒会執行部をこちら側に寝返らせるか。その為に必要な材料もつい先程手に入れた事だしな。元々は些細な誤解が事の発端だから、こちらは何も問題はなかろう。問題は風紀委員というより篝だが、おたがいに牽制しあってくれればそれぞれが表立って下手な動きができなくなる。むろん、無用のトラブルは避けられるよう、誰か妹をひとりサポートに付けなければなるまいな」
「ありがとうございます。あの……おれの事なんか後回しでいいですから、先にお仕事片付けてください」
学園長がノートPCの液晶画面から目を離さないまま言葉を紡ぐと、夕陽は自分が仕事の邪魔にならぬよう、ただひたすら祈りながら返事をする。
まるで、そんな夕陽の健気な気持ちを見計らったかのようなタイミングで、それは起こった。
「………………ん」
会話の間ですらずっとタイピングされ続けていた学園長のしなやかで細い指先が、不意に止まったのだ。
視線も液晶画面から外れ、彼女の瞳は虚空の一点を見つめている。
「気のせいか……いや、やはり間違いない。確かに聞こえる」
夕陽には学園長が何を言っているのかは、全く分からなかったが、その意味する処はすぐに知れる事となる。
「朱理と恵那か……あんな速いだけが取り柄の非実用的なバイクを通勤に使うとは何を考えているんだ。しかもだ、にも関わらず出勤時間はとうに過ぎている。全く救いようがないな。おとなしく芸能活動を続けていればいいものを。何時ものように、後始末を押し付けられた妹達がいい迷惑だろう」
遠く、周波数の高い金属音が響いたかと思うと、その音源があっという間に近付いて来るのが夕陽にも分かった。
ジャンボジェット機が離発着を繰り返す、空港の待合ロビーでもこれ程の騒音とは無縁のはずだ。
誰もがきっと、そう思うに違いない。
「これは……規制値の93dbなどというレベルはとうに超えてしまっているな。全く朝から騒々しい事だ。エンジンの排気圧に耐えきれず、サイレンサーが死んだか。グラスウールを触媒に使う限り、何度リペアしても結果は同じだろうな。恵那が付いていながら、不甲斐ない。ふたりでひとりだというのに、これでは一緒にいる意味がない」
最早、学園長が洩らしたその呟きも夕陽に届く事はない。
“騒々しい工場内部”という具体的な騒音レベルが90dbである事を思えば、いかに法外な音が無意味に撒き散らされているかが分かるだろう。
こうなると最早、音の暴力と言い切ってしまっても過言ではない。
実際、音圧の影響により、窓硝子が微かに振動を始め、ティーカップの液面には波紋が立っている。
このままでは振動したソーサーごと、ティーカップがテーブル上で移動し始めるかもしれない。
そう思う事は、決して想像過多ではないはずだ。
「決まりだな、ペナルティーだ。この学園での安曇野夕陽の面倒は、あのふたりに任せるか」
最もこれではペナルティーの意味にはならないか──と、愉しげに微笑み、学園長はようやくティーカップに手を伸ばすと、安曇野夕陽の前に置かれたティーカップもまた手付かずなのに気付き、謝罪と共に改めて紅茶を勧めた。
「………………っ!」
だが、両手で耳を塞いでいた夕陽に、やっと訪れたお茶の時間を楽しむ余裕など、全くなかったのは言うまでもない。
更新が大幅に遅れてしまい、大変申し訳ありません。
拙作を楽しみにして頂いてる読者の方たちに、何とお詫びすればいいのか言葉もありません。
ただ、作者の新生活が落ち着くまでは今回のような不定期更新が続く事になります。
作者が今の環境に慣れるまで、どうか大きな気持ちで次回更新をお待ちくださいませ。
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図々しいお願い事だとは思いますが、寂しさに負けそうな作者に、どうか暖かな励ましを──。