10─1集結、ふたたび
我が言葉に宿りしかりそめの命は、この世のものに非ず。真実なりや、または偽りなりや、今ここに問う。
◇ ◇ ◇
管理棟二階から階段を下り、事務局前を素通りして、正面玄関ホールを横切ろうとしていた時の事だった。
不意に静香の足が止まり、ホッとしたような響きを含んだ呟きを洩らす。
「千恵里……ひとりで、静かに眠っているみたい。寝息も落ち着いているし、最悪の事態にはならなかったようね……よかった」
そう安堵の表情を浮かべながらも、彼女はさらに耳を澄まし、聴覚を頼りに何かを探っている。
「でも、だったら安曇野夕陽は何処へ消えたの?」
瞳子を筆頭とする、残りの生徒会執行部は、ここでも静香に対して何も声をかけずにじっと待っている。
おたがいの役割を心得て、おたがいに信頼しあっているのが窺える。
「これは……まさか学園長室? 今は嘘のようにノイズが晴れているから気付かなかったわ……そう、朝は初めての登校で、不安だったのね……ああ、でもやはり由布院家ご当主さまの妹君なのは間違いないようね……わたしの謝罪を受け入れてくださるかしら」
「ちょっと待って。謝罪? いったい誰に? ちょっと聞き捨てならないわね。そろそろ何があったか説明してもらいたいわ」
どうやら目的の対象とする存在を探り当てたらしい静香の言葉尻を捉え、由佳里が聞き咎める。
「ああ由佳里……わたし、あなたにも謝らなければならない事があるの」
静香は、夢現の境界を彷徨っているような、何処か虚ろで頼りなげな反応を示す。
だが、そんな静香の様子に慣れている由佳里は、普段のままに対応する。
「千恵里の事についてなら謝ってもらわなくてもいいわ。好きに使ってくれればいい。あの子はね、誰かが何か、役割を与えてやらなければダメになるタイプなの。だから何も気にしなくていいのよ」
由佳里は話の流れから何かが腑に落ちたようだった。
静香と千恵里の間に、自身の知らない何らかのやりとりがあったらしいと察すると同時に、その概容さえも、ほぼ正確に予想を付けていた。
「ありがとう、由佳里。そう言ってもらえると、少しは気が楽に……っ!?」
それは突然の出来事だった。
何の前触れも、予兆もなく、静香が不意に、両手で耳を押さえて蹲ってしまったのだ。
これには、さすがに他の三人も戸惑いを見せるが、その原因は彼女たちにもすぐに知れる事となる。
数瞬の時を置いて、非常に甲高く、耳を劈かんばかりの金属的な爆音が、辺り一帯に轟いたのだ。
その音はまさに波動となって、空気を圧縮し、振動させ、そこにあるもの全てを無差別に蹂躙する。
ありとあらゆる窓硝子がビリビリと音を立て、このままでは割れてしまうのではと、瞳子達が危機感を覚え始めた頃、それは姿を現した。
「なっ、何、何の音!?」
「これは……っ、ジェットエンジンの音だ!」
「ジェット機? 何でこんな場所で?」
すぐ間近にいるにも関わらず、ほとんど叫び合うようにして、瞳子とファンが言葉を交わす。
「違う……! これは、まさかと思うがY2Kなのか。しかし、こんな音をさせておきながら、日本でナンバーが取れるとは思えないが?」
そう愉しげに言うファンに、瞳子は思わず聞き返す。
人並み以上の肺活量を誇るファンの声は、この状況下においても非常に通りがよかったが、瞳子はそのあまりに場違いな言葉に、爆音のせいで内容を聞き間違えてしまったのかと思ったからだ。
「Y2K? 2000年問題が一体何なの?」
瞳子はこの時、やむをえない事ではあるが、ファンの言葉に一瞬錯覚をした。
2000年問題とは前世紀末、現行の太陽暦であるグレゴリオ暦2000年になると、旧世代のプログラムによって稼働しているコンピュータが、一斉に誤作動を起こす可能性があるとされた問題である。
これが略称でY2K問題、またはミレニアム・バグと呼ばれていたのだか、瞳子が自身の知識として元々持っていたこの情報を、反射的に思い浮かべてしまったのも無理はない。
むしろ、Y2Kから2000年問題以外の事象に結び付ける人間の方が稀少だろう。
ファンはその数少ない内のひとりだった。
「いや、やはり間違いないはずだ! 地上を、ましてや公道を走れるジェットエンジン搭載のマシンなど、他にはありえないだろうからな!」
「分かるように説明して、ファン!」
ファンが、何処か夢見心地の表情を浮かべて、熱に浮かされたような口調で叫ぶ。
「Y2Kだ! わたしが言っているのは、MTT・タービン・スーパーバイクの事なんだっ」
MTT・タービン・スーパーバイク。
アメリカのMTT社が開発し、米国本土で発売された、ガスタービンエンジン搭載のオートバイ。
「MTT Turbine SUPERBIKE」主にY2Kと称される。
米国カリフォルニア州において、航空機用ガスタービン・エンジンを搭載するモーターボートや消火用ポンプなどを製造している同社が開発したのがこのオートバイである。
ガスタービン搭載を主張するかのような大径の排気管と、ジェット機そのものの甲高い金属音が特徴で、「市販されている世界最速のオートバイ」、「世界一高価な市販オートバイ」として、ギネスブックにも記載されている。
米国国内でのメーカー希望小売価格は150,000米ドルであったが、2004年より185,000米ドルとなっている。
過去に製造された事のあるジェットエンジン搭載のオートバイのようにジェット噴射による推進力を利用するのとは異なり、パワー・タービンから軸出力を取り出し、2段のオートマチックトランスミッションを介して後輪を直接駆動する方式を取っている。
ガスタービン・エンジンは、圧縮機とタービンを駆動しているため慣性力が大きく、レシプロエンジンのように短時間で急激な回転数の増減ができない為、このオートバイの運転には特別なテクニックが必要とされる。
搭載されるエンジンは、ベル 206型ヘリコプターなどにも採用されるロールス・ロイス plc社製のターボシャフトエンジンであるアリソン 250-C18。
ディーゼルエンジン用の軽油を使用できるように仕様が変更されており、320英馬力(238kW)にも及ぶ最高軸出力を発生。
ヘリコプターに搭載した状態でジェット燃料を使用した場合の、同エンジンの最高出力は318英馬力となっている。 MTTでは、アメリカ連邦航空局 (FAA) の基準で、航空機用としては使用期限を迎えた中古の同エンジンを購入し、再び組み直した上で使用。
このオートバイの最高速度は、250mph(約402km/h)にも達し、スタートから227mph(365km/h)までの加速にかかる時間は僅か15秒という性能を発揮。
また、バックミラーの代わりとなるリアビューカメラが装備され、フロントのLCDモニターに映し出される構造になっている。
尚、2001年モデル以降の一般的な市販オートバイに装着されているスピードリミッター(300km/hで作動)が、同オートバイには装着されていないのが、元々の設計思想及び、その生い立ちを物語っていた。
「来る────っ」
ファンが指差す方を見れば、正門に詰めている守衛ふたりが、慌てふためき、両開きの門を開けている様子が遠くからでも見て取れる。
まだほんの僅かでしかない、正門の隙間。
その間隙を縫うようにして、銀色の金属の塊が一瞬ですり抜ける。
小規模なソニックブームでも発生しているのか、一拍遅れて守衛たちの制服が強風にたなびいて、頭の帽子が後方へと吹き飛んだ。
それを見たファンの表情は、ますます輝きを増していく。
「さあ、見せてくれ! 止まれるのか、そのスピードで!?」
次の瞬間、大気を切り裂く程のスキール音が派手に撒き散らされ、アスファルトとタイヤの接地面から、白煙が上がった。
フルブレーキングで制動の態勢に入ったのだ。
最初は小さく見えたその銀の機影は、瞬きひとつする間もなく学園校舎の正面玄関前へと近付いてくる。
「さがりなさい、ファン! ダメよ、ぶつかる!」
ひとり正面玄関のドアを開けて出て行くファンに、静香の身体を抱き起こしていた瞳子と由佳里のふたりは、悲鳴混じりの声を上げる。
彼女たちの脳裏には、バイクが転倒クラッシュする最悪の結末だけが、映像として映し出されている。
耳障りなスキール音は尚も続き、いくらか減速はしているようだったが、素人目から見ても明らかに制動距離が足りていない。
ファンはそんな走る凶器紛いの機体に向かって飛び出して行ったのだ。
「Y2Kで、二人乗り(タンデム)だと? ますます普通じゃない。一体ライダーはどんな奴らなんだ!」
ただでさえ、ひとりでも乗りこなすのが難しい大出力モンスターマシンY2Kのリアカウルをわざわざ取り外し、二人乗り用タンデムシートに改造して取り付けてあるのだ。
ファンにしてみればそれは、自殺行為以外の何物にも思えないクレイジーな行為でしかなかった。
だが、そんな常識をも全て覆してしまう衝撃の光景が、この直後彼女のすぐ目の前で展開する事になる。
「リアタイヤのブレーキを抜いた? バカな、フロントタイヤがロックして転倒するぞ」
バイクの前輪のみに全荷重をかけフルブレーキングすれば、必然的に後輪が浮き上がってしまう。
殺し切れていないスピードを考えれば非常に危険な行為で、一歩間違えればフロントフリップの態勢に入り、ライダーは頭から前のめりに振り落とされてしまう事にもなりかねない。
だが、機体のリアが浮き上がってからのふたりのライダーの体重移動はまさに神懸かっていた。
絶妙のボディバランスとコントロールを駆使して、浮き上がった後輪を真横に振り出したのだ。
「ジャックナイフターン!? 無理だ! スピードの出しすぎだっ」
ジャックナイフターン、バイクの挙動がジャックナイフの柄から刃が飛び出す瞬間を連想させる事から、この名で呼ばれている技術だ。
本来ならエントリー向けの難易度でありながら、見栄えのいい技という位置付けなのだが、それは低速域においての話で、減速も程々の状態でこの技に入るのは例えプロのスタントマンでも無謀でしかない。
後輪を再び接地させたバイクは、タイヤが盛大に悲鳴を上げ、エンジンの底面部をファンに見せながら、ライダーと機体を合わせた全重量を以て制動をかけられる。
「そうか! テクニックさえあれば、ふたり分の体重の方が都合がいいと言う事か!」
呻くファンを嘲笑うかのように、Y2Kは精緻な挙動のまま、強引さの欠片も見せずに、最後まで一切破綻する事なく、彼女が立つ正面玄関前で計ったように完璧に停まり切ったのだ。
「何て……何てデタラメなんだ、このふたり」
喘ぐようにそう言い、それきり言葉を失ってしまったファンの前で、ふたりのライダーはY2Kから何事もなかったかのように、落ち着き払った様子で降りている。
乗っているバイクやそのプロ顔負けのテクニックに似合わず、蛍光色とラメ等で派手にデコレートされた、ヘルメットとライダースーツが妙に眩しい。
細くしなやかで、メリハリの利いた、腰の位置がスーパーモデル並に高い身体のラインは、合皮のスーツ姿にも関わらず優美なシルエットを描き出し、ふたりが女性である事を強く主張している。
「あー、マフラー死んじゃった。何チョイスしてもエンジンのパワーに負けちゃうねー。これじゃ次の車検通らないし、公道走れない。また、所轄に出頭命令くらっちゃうかも。どうせ、うるさく言われるんだろうな。雨月姉に揉み消しなんて不正頼めないし」
「仕方ないよ、花織。女でY2K乗ってるのなんて、あんたくらいだし。何かあったらすぐに呼び出されてあたりまえ。でもそうね、今度はオリジナルのマフラー作ってみようか、わたしが投資してるいい町工場紹介してあげる。そんな処の方がね、案外いい仕事するって事を教えてあげるから」
「あー、最近NASAが頭下げて取引申し込んで来たんだっけ」
「そーそ、知る人ぞ知る存在な訳」
「菜摘がそこまで言うなら、任せるよ。好きなようにしてくれていいから」
ふたりはフルフェイスのバイザーを跳ね上げ、横に並んで、ゆっくりとファンの方に向かって歩いてくる。
さっきまで酷く張り詰めていた自分がバカらしくなってしまう程に、ふたりが交わしている会話には緊張感の欠片もなく、ファンは拍子抜けすると共に自嘲の笑みを浮かべるしかない。
「あなた達、当学園に何用ですか? 外部の関係者以外は事務局で手続きを」
静香を由佳里に任せ、ファンの後をひとり追ってきた瞳子の声に、彼女は自分の立場を思い出す。
「いや、その前にヘルメットだろう。ヘルメットを脱いで顔を見せろ」
ファンは無理矢理にも冷静さを装い、何とか普段どおりの声を出す事に成功する。
「あ、ごめんねー、今脱ぐから。別にそんな怪しい者じゃないよ」
「朱理花織と恵那菜摘、今日付けでこの学園に赴任してきた教師よ。担当教科は何でもできるけど、たぶん英語と音楽になるはず、これからよろしくね」
答えながらヘルメットを脱ぎかけるふたりに向かって、ファンも興奮を押し殺して、言葉を返す。
「Y2Kか、いいバイクだな」
銀の機体を横目で見ていると、鎮まりかけたファンの心が再びざわめきだす。
先にヘルメットを脱いだメインのライダーは、少し意外そうな声を上げ、人懐こい笑顔を浮かべると、眩いばかりの美貌をファンに向けてくる。
「へえー? なかなか、分かってるじゃない。あなた学年は?」
「さ、三年生だが」
見つめられた瞬間、胸の鼓動が不意に跳ね、冷静さを装い続けるファンの仮面にも、小さな綻びが入る。
そんな自分自身に彼女は舌打ちをしたくなるのを、ぐっと堪えた。
「バイクの免許持ってる? 大型自動二輪持ってるなら、貸してあげてもいいわよ。あのじゃじゃ馬を乗りこなす自信があるならね。ケガは一応自己責任で」
「本当か。わたしは一年休学しているからな、大型自動二輪なら持っている。去年、十八の誕生日を迎えてすぐに取りにいった」
生徒手帳で年齢を確認すると、先にヘルメットを脱いだライダーは、手にしていたバイクのキーのホルダーに人差し指を引っ掛け、くるんと一度回転させてからファンに向けてそれを放った。
「そ。じゃ、“あの子”お願い。どっか邪魔にならない場所に移動しておいて」
「…………」
「あれー? 返事はあ?」
顔を間近に覗き込まれたファンは、この時ようやく、いかに自身が動揺していて、興奮していたのかを思い知らされていた。
そして同時に、自らの目がいかに曇り切っていたのかも。
首筋を伝う、嫌に冷たい汗を感じながら、彼女はようやく息を吐くようにして言った。
「始祖のお二方には、ご挨拶が遅れました無礼をお許しください。華月宮学園生徒会執行部はこの度のご着任を心よりご歓迎申し上げます」
今後しばらくプライベートが忙しくなる予定です、なるべく維持していくつもりですが、その間は更新ペースが若干落ちるかもしれません、その際はどうかご容赦くださいませ。