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9─7再会


「何時までそうしているつもりだ、暁」




 めずらしく戸惑いを見せている暁に、朧が冷ややかな声をかけると、彼は心底困り果てた様子で、朧の顔を見上げた。

 だがそれは、朧だからこそ気付ける程の、ほんの些細な変化。

 事実、暁の傍らに立つ操には普段どおりの態度にしか見えていない。

 二床並べられた簡易ベッドの間に空けられているスペースに佇み、朧は腕を組み、左の人差し指で右の二の腕をトントンと一定のリズムで叩いている。

 その抑揚のないリズムが逆に、苛立ちをかろうじて抑えている朧の内面を的確に表しているように暁には思えたが、なるようにしかならないのだから仕方がない。

 窓側の簡易ベッドには千恵里が横たわり、微かな寝息を立てている。

 朧は万が一に備えてふたつのベッドの間に位置取りをし、廊下側の簡易ベッドに夕陽を寝かせようとしてもたつきを見せる暁に眉をひそめていた。




「待てよ、そうにらむな朧。姫さんがどうしても離してくれないんだ」




 朧の非難めいた視線を受け流し、暁は自身の腕の中にいる、柔らかで暖かなぬくもりを持った、羽毛のように軽い肉体を有した少女に対して、この上もなく優しげな声をかける。

 常に獲物を狙う野生の肉食獸のような雰囲気をその身に纏う暁も、夕陽に対している時だけは、その気配が何処かへ綺麗に消え失せてしまう。

 見つめただけで獲物を射殺いころしてしまえそうな鋭い眼差しも、夕陽に向けられている時だけは、とても柔らかで慈愛に満ちた光がたたええられている。

 その些少な変化に気付くのもまた朧だけで、肝心の夕陽にまでは届いてはいない。

 朧と契約を結ぶまでは、群れを作る事を好まず、誰とも馴れ合う事もなく、孤高を求めて悠久の時をさすらってきた暁だったが、全ての他者を警戒する事があたりまえになっている彼の心の裡に、夕陽は気付けばいつの間にか入り込んできていて、その琴線にたやすく触れてくるのだ。

 猫科の気まぐれで力を貸し、精神的にはつかず離れずの程よい距離を保ち続けてきた、朧との距離感とはまた違った心地よさがある。

 或いはそれは、MTF化によって目覚めた、夕陽の共鳴螺旋と呼ばれる異能がもたらす、恩恵の内のひとつかもしれない。

 単なる庇護欲ともまたちがう、これがいわゆる波長が合うという事なのだろうなと、彼は考えるともなくそう思っている。




『姫さんがその気になったらとんでもないたらしになるぜ』




 それは彼の偽らざる本心で、自分自身の魅力を未だ自覚する事のない夕陽に、言葉にはできない危うさを覚えずにはいられなかった。

 そこまで考えが及ぶと、彼は何故だかは知らないが、何時も説明のつかない焦燥感に苛まれてしまう。

 それがどのような感情に起因するものなのか、彼が真に理解するのはまだ先の事だった。




「さあ、姫さん。少し休もうか」


「んっ」




 小さくかぶりを振った夕陽は、暁の制服をきつく握りしめて、全身でしがみついてくる。

 その甘えた幼子のような愛くるしい様子を見れば、いかに朧と言えども、夕陽から暁を無理矢理にでも引き剥がす事は心情的に難しい。

 朧の体中から冷気が洩れだす程、彼女の不機嫌さが増している事に、どこ吹く風の態度を崩さず、暁は辛抱強く夕陽に言って聞かせる。




「そんな事言わずに横になってくれ。まだ本調子じゃないんだから、しばらく休んだ方がいい」


「んんっ」


「なあ、頼むよ姫さん。言う事聞いてくれ」


「や!」




 ベッドに背中が、そして枕に後頭部がつけられそうになって、夕陽は慌てて頭を跳ね上げると、さらにきつく暁にしがみつく。

 辛抱強くはあれど、さすがに暁の声もはっきりとした当惑混じりの響きに変化してくると、その些細な機微を察した夕陽が潤んだ瞳で彼を見上げてくる。




「わがまま言わないでくれよ、姫さん。頼むからさ」


「あかつきは、ゆうひがきらいなの?」




 舌足らずで語尾が微妙に震えるその涙声は、抜群の破壊力を有していたのか、暁も思わず返答に詰まり、何も言えなくなってしまう。




「う……っ」




 そんな暁の様子に頭痛を覚えたのか、朧は右のこめかみを指先で押さえ、眉間に寄せられている皺をさらに深くした。

 見かねた彼女は今度は操に視線を向ける。




「操……何とかしろ。おまえならできるだろう?」




 ほんのわずかな反論ですら許しそうもない押し殺した低音こえに、暁と同じ側のベッドサイド、朧の対面にいた操はさりげなく視線を逸らす。




「そんなの無理……これが緊急時ならともかく、夕陽さまの意思に反する介入はなるべくならしたくないし、できる限り避けたいの。お館さまにだって、そう命じられているわ」


「むう……ならばどうすればいい?」


「夕陽さまが飽きるまで、暁があやしてさしあげるしかないんじゃない?」




 もどかしげに唸り声を上げる朧に向けて、操は何を分かりきった事をといった乾いた口調で答えを返す。




「やはりそれしかないのか、納得はしかねるが」


「そんなの、わたしだって」




 ついに殺気を抑えきれなくなり始めた朧と同様、操の身体の周辺でも、見えない霊糸同士が蠢き触れ合ってでもいるのか、空気が軋み震え始める。




「おい、てめえらふたり、何を好き勝手言ってやがる」




 こんな周囲の状況では、せっかく落ち着きかけた夕陽が何時再びぐずつきだすかもしれず、暁の声がとげのある響きに変わる。

 朧と操のふたりも、さすがに声を潜めるが、彼女たちの嫉妬心までがそれで治まる訳ではない。

 ベッドを挟んでやりとりする内に徐々にエキサイトしていき、やがて高速化言語を駆使してまで、現状に対する不満をぶちまけ始める。

 操はともかく、普段は冷静沈着な朧でさえも、幼児退行化が一時的な症状であるとはいえ、夕陽のちょう余所よそへ向いたきりではおもしろくない。




『操は、暁ごときが我が君を独占している現状が許せると思うのか』


『許せる訳ないじゃない。邸じゃ、お館さまべったりで、この学園内くらいしか夕陽さまと親密になれるなんて機会はないのに』


『そうだろうとも。誰であれ、由布院家に仕える者ならば、我が君に対する想いにいささかのちがいもあるはずがない。なのに、今のこの状況は何だ』




 朧の言葉を受けて、操が返事を高速化言語のソースに変換しかけた時だった。




「え?」


「あ?」


「は?」


「ん?」




 調子外れの、何処か場の空気に全くそぐわない声が最初にして、朧、操、暁の三人がそれぞれ三様の反応を示し、おたがいの顔を見合わせる。

 わずかに遅れる事数秒、今度は絹を裂く程に甲高い、悲鳴にも似た声が上がった。




「えぇええええええええええ……っ?」




 三人の視線が夕陽に集まるのは、自然な流れだった。

 見れば、首筋から耳朶、目許までもを紅葉色に染め上げた夕陽が、暁の顔を見上げてその身をすっかり固くしている。

 せっかく意識を取り戻したのに、いきなりまたパニック状態に陥られては、事態の沈静化は何時まで経っても図れはしない。

 ここでの対応を間違えれば、振り出しに戻ってしまう。

 だが、夕陽を繊細に扱わなければならないはずのこの場面。

 暁の内心はともかく、夕陽の主観的には、彼の態度にことさらな変化は見られはしない。




「あ、暁が何で、お、おれをっ、だ、抱いてるのかなっ?」


「逆だ。姫さんが、おれにしがみついて離れないんだ」


「あ、ああ!?」


「待てっ、今手を離すんじゃない!」




 暁に指摘されて初めて、夕陽は彼の腕の中に収まり、彼の制服に皺が寄ってしまう程にきつくしがみついている自分に気付く。

 慌てて手を放して、距離を取ろうとしたのがこの上もなく不味かった。

 ベッドに横たえられようとしていた体勢で、仰け反るようにして上に逃がれれば、必然的に訪れるであろう結果が夕陽に待っていた。




「つ────っ」




 乾いた音がひとつ響き、両手で頭を抱えた夕陽が胎児のように身を丸くして呻いている。

 簡易ベッドのパイプで組まれたフレームに、頭頂部を激しく打ち付けたのだ。




「お……おいっ、大丈夫かよ?」




 さすがに動揺を隠しきれない暁だったが、思わず差し伸べようとした彼の手が夕陽の頭に届く事はなかった。




「どけ!」


「どきなさい!」




 朧と操のふたりがもの凄い勢いで、夕陽の身体に覆い被さるようにしている暁を払いのけたからだ。

 過保護とも言える過剰な反応ではあったが、立場が逆の場合を考えれば、自分でも同様の反応を示してしまいそうで、暁は喉まで出掛かっていた文句をひとり飲み込んだ。




「何処をお打ちになったのですか、我が君。原因を作った暁に対して、さぞやおいかりでしょう」


「ご命令してくだされば、霊糸で暁を切り刻んでやります」




 久沓の霊糸は、生体の神経系へ介入して自在に操るだけではなく、この世にある全ての物体に対して物理的干渉が可能だった。

 しかしそれは、この世の理の外に存在している相手に対しても何ら変わる事なく同様で、仮にそれが霊的な存在であっても、攻撃の切れ味は一切衰える事なくさらに増す。

 暁のように霊体が実体化している相手に対しては、物理的、霊的、どちらからのアプローチも即時に可能で、決して逃したりはしない。




「いっ……たぁああああああああい!」




 だが、この時の夕陽には側仕えであるふたりに返事をする余裕など全くと言っていい程なく、目に火花が散るような痛みに、頭を抱えたままの姿勢でじっと耐えるしかなかった。

 その時だった──鍵穴にカチャカチャとせわしなく鍵が差し込まれる音が、室内に微かに伝わってきた。

 それに続いて、ドアノブからはシリンダーロックが解錠される音がやけに大きく鳴り響き、これ以上ない程に、荒々しく、そして勢いよく、保健室入口のドアが開け放たれる。

 朧たち三人は瞬時に警戒レベルを上げて迎撃可能の布陣を敷くが、室内に現れた人影を見て、この上もなく驚いた。




「大丈夫かっ、安曇野夕陽!?」


「お……お館さまっ?」




   ◇ ◇ ◇




 妹尾静香は身体を何処か頼りなくふらつかせながらも、誰の人影もない管理棟二階の通路をいきなり駆け出し、音楽室を後にした。




「静香、静香ってば、ねえ……静香ったら!」




 瞳子を始めとする生徒会執行部に所属する残りのメンバーたちは、完全に虚を突かれ、あっけに取られてしまう。

 それでも先行している静香の背中にすぐに追い付くと、無理に引き止めようとはせず、代わりに質問を投げかける。

 瞳子たちには、話がまるで見えていないのだから当然だ。




「ねえ、少しは説明して。黙ってばかりじゃ何も分からないじゃない」


「ごめんなさい、みんな。まだわたしにも整理がつかないの。何から話していいか、何を話したらいいのか、全然分からないの」




 追い付いた後、やや歩調を落として肩を並べてきた瞳子に視線を向ける事もなく、静香は弱々しくかぶりを振りながら前に向かって進む。

 由佳里とファンは、そんなふたりの後を何も言わずについて行く。

 この場は完全に瞳子に任せた格好だ。 ふたりの付き合いは幼少の頃より続いていて、もうかなり長い。

 瞳子はしかし、それ以上の追及は控える事にした。

 これ程までに混乱している静香を、彼女が見るのは初めてで、今は何を聞いても無駄だろうと判断したからだった。

 このまま静香について行けば、例えこの先に待つ答えが彼女たちにとって望まざる事実であろうと、事態は必ず進展するはずだ。

 じたばたするのは、それからでも遅くはない。

 彼女のその状況判断は正しく、そして賢明だと言えるだろう。

 弱々しく頭を振るい続ける静香は、思い出したかのように、力なくポツリと呟きを洩らす。




「本当に……分からないのよ」




 彼女たち生徒会執行部が目指す保健室は、もう目の前に迫っていた。

 ここまでお付き合いしてくださった読者の皆様方、本当にありがとうございます。

 やっとここまでたどり着きましたあ、長かったあ。


 どうか、今後もMTFをよろしくお願い致します。

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