9─5再会
全身凶器と化した身体を瞬時にトップスピードに乗せた千恵里は、フェイントをいくつか多重に入れて暁の脇をすり抜けた。
いやに簡単に抜けられた事を疑問に思う間もなく、朧は千恵里のすぐ目の前に迫ってくる。
朧の紅い口唇に薄く貼りついている冷笑が、余裕の笑みに見えて、やけに癇に障って仕方がない。
はっきり言ってしまうなら、千恵里にとって相手の何もかもが気に喰わなかった。
「人外お断りっ。飼い主は式神連れて、この学園から一緒に消えてんくんないかな!?」
まるで何かのキャンペーンポスターにでも書かれている、標語のような語感の言葉を吐き出しながら、千恵里は深く朧の間合いへと踏み込んでいく。
それでも朧はバックステップで距離を取り、真夏の逃げ水のように、千恵里を自分の間合いには容易に入れさせない。
千恵里にとっては、そのほんの僅かな距離が果てしなく遠く感じてしまう。
「絶対、逃がさないんだからね! 見せてあげるよ、あたしのとっておき!」
千恵里は息継ぎなしの完全な無呼吸状態から、白刃の閃きを一条、再度口唇から走らせた。
暗器と呼ばれる隠し武器、その特別に加工された仕込み用の短刀を、吹き矢のごとく射出させたのだ。
それは全くの不意打ちで、暁への初撃でわざと見せた息を吸う挙動をフェイクとして利用する事により、この第二撃との組み合わせを回避不能の連携術として成立させる事になる。
「新城流暗器術──無拍子、二人静!」
「一度見せた術を無拍子にした処で無駄な事」
それでもまるで時を遡ったとしか思えない初動を見せ、回避不能のタイミングだったはずの短刀を、朧は無造作に右手で掴んで見せる。
「奪った────っ」
そう叫んだのはしかし、朧ではなく千恵里の方だった。
グラリと傾いだ朧の左胸のちょうど真下辺りに、黒のつや消しの短刀の柄がいつの間にか生えている。
「動かないで。それは、そう簡単には抜けないわよ。抜くには“解呪”が必要なの。でも、さすがに二人静が影刃の術だとは気付かなかったみたいね? あなたが掴んでいるのはただの囮な訳。あたしだって、いろいろと考えてるんだから!」
フフン、と鼻を鳴らして千恵里は得意気な表情を見せて勝ち誇る。
「その影刃にはね、“呪”がいくつか仕込んであるの。敵対者の細胞の損傷を防ぎつつ、戦闘行為の一切を禁止するのが基本なんだけど、戦意に反応すればわたしの命令の及ばない、致命的とも言える“最後の呪”が起動してしまうからせいぜい注意する事ね。そうなったら、もうどうにもできなくなる。でもそうね、心配しなくていいわ。あなたが式神とその地味子を連れてこの学園からおとなしく出ていくのなら、正門の結界に反応して自動的に“解呪”されるはずよ。どう? これで分かったでしょう? ここにはもう二度と来ない方がいいって」
その時千恵里は自分が致命的な失言を犯した事には気付いていなかった。
場の空気が一気に冷え、朧と暁がその身に纏う雰囲気ががらりと変わる。
ふたりが全くと言っていい程本気を出していなかった事に、千恵里はこの期に及んでようやく気が付いたが、時は既に遅すぎた。
「出ていかなければどうなるのだ?」
物理的な重圧と何らか変わらないレベルのプレッシャーが、まるでコールタールのように、千恵里の身体にねっとりと絡み付く。
「そんなの、決まってる。あ……あなたに死ぬ程の痛みと苦しみを与える為に、残された“呪”を全て起動させなくちゃいけなくなるわ……お、脅しなんかじゃないんだから」
「まず第一に、わたしは拷問対策の為にあらゆる種類の苦痛に耐性が付けられているからな。だから、そんな事をしても無駄でしかないんだが、やりたければまあ好きにするがいい。次に、おまえ程度の相手をあしらうのに、戦意など一片の欠片すら持ちあわせてはいない。そんな必要は全くないのだ。ひとは路傍の蟻を踏みつぶすのに、いちいち殺意を覚えたりはしないだろう?」
「なっ……何が言いたいのよ」
「つまりだ、この影刃に仕込まれている“呪”の等級程度では、わたしにとって何の拘束にもならないし、“最後の呪”とやらも決して起動し得ないという事だ」
「そんな……っ。影刃に“呪”をたったひとつ仕込むだけで、一体どれだけの手間がかかると思ってんのよ……そんなハッタリは通用しないんだから」
そう気色ばんではみたものの、千恵里の声は段々とか細く、また弱々しい響きになっていく。
何故なら、本来であれば退魔調伏の為に用意されている強力無比な“呪”を既にいくつか並列起動させ、朧の言葉が真実間違いのない事を、その身を以て知ってしまったからに他ならない。
影刃の柄にくっきりと浮かび上がっている、「急急如律令」の文字が明滅を繰り返しているのが、仕込まれた調伏系の“呪”が全て起動しているその証だった。
並みの人間なら発動と同時に苦痛に悶絶して、とても正気を保ち続ける事など出来はしない。
血の気の引いていく千恵里の顔を満足げに眺め、朧はシニカルな微笑みを口唇の端に浮かべて見せる。
「誰にも教わらなかったようだから、ひとつ教えてやろう。素直に詫びを入れる勇気も時には必要だ。今ならまだ、多少の非礼は許してやってもいい。我が君は寛容でいらっしゃるからな」
「そんなのできる訳ない……簡単に退いたりしたら、静香さんに怒られちゃうよ……っ」
「最後通牒は果たした。これでもう茶番は幕引きだ。暗器術を使えるのが自分だけだと思っているようだが、悪夢を見せてやろう──折神流、暗器の舞 」
その刹那的瞬間、ぞわりと千恵里の全身が総毛立った。
現実離れしたそのありえない光景を目の当たりにして、絶望感に囚われた彼女の表情が恐怖に歪んだ。
朧の口唇に浮かべられていた冷笑がさらに色濃く刻まれていくのが、たまらなく口惜しい。
「絶望するのは、これからだ。踊れ、血しぶきにまみれて。降り注げっ──篠突く雨!」
朧の声に呼応するかのように、保健室の天井一面から一瞬にして突き出た無数の槍が、その鋭い刃が持つ切尖を真下に向け、土砂降りの雨のごとく容赦なく一斉に降り注いだ。
逃げ場などまるでない、辺り一面を隈無く、そして無差別に攻撃するその術が描き出す修羅場は、まさに“篠突く雨”の名に相応しい。
無慈悲で救いのない朧の攻撃は、暗器術の域を遥かに逸脱する凶悪さと破壊力をまざまざと見せ付け、保健室内のデスクや薬品棚と言わず果てはベッドまで、全ての備品や設備類を呑み込み、切り裂き、さらには打ち砕いて、瞬きすらする間も許されずに、ズタズタに寸断されていってしまう。
千恵里の身体もまた、その例外ではなかった。
全身の至る個所から同時多発的に、ありえない程の衝撃が痛みとなって、彼女の神経繊維のことごとくを蹂躙しながら末端にまで駆け巡る。
かつてない程の重力を感じ、囚われ、彼女は自らの体重に逆らう力さえ失い、ゆっくりとリノリウムの冷たい床に崩れ堕ちていく。
明滅する視界、フラッシュバックする思考。
次々に浮かんでは消える、とりとめのないイメージ。
脈絡のない奔流の中、その映像はひときわ色鮮やかに、彼女の脳裏に焼き付いた。
処女雪のように穢れなき白い髪と、血の色がそのまま透けて映る紅い瞳。
暁という名の式神の腕に抱かれ、冷ややかに千恵里を見下している、華奢な身体付きの中性的な少女。
『嘘……何でいきなりそんな綺麗になってんのよ……地味子だった癖に……隠してるなんて、もったいない……』
そこまで考えた処で、千恵里の記憶は不意に途絶え、その意識は深く闇に落ちた。
「────ヘルマプロディートス」
床に倒れ込んだ千恵里の身体に、今はもう対象への興味を失った視線を落としていた暁が、ぽつりとひと言呟いた。
それを聞き咎めた朧は、怪訝な表情を浮かべて、短く問う。
「何だ、それは?」
「この女が最後にそう言ったんだ。ほとんど、声らしい声になってなかったけどな」
朧に答えを返す暁の言葉に、自らの技量の不足が招いた体調不良から、最後尾でひとり蚊帳の外に置かれていた操が、めずらしく控えめに口を挟んだ。
どうやら彼女なりに忸怩たる思いがあるらしいが、それも無理からぬ事だった。
そんな操の気持ちに気付かない朧と暁ではなかったが、ふたりはあえてその部分には触れようとはしない。
「ギリシャ神話のアンドロギュニュスの名前じゃない? アフロディーテという美の女神と十二神が一柱ヘルメスとの間に生まれた子供の事ね。両性具有で、精霊を魅了する程美しかったと言われているわ」
「意味深だな。だとしたら、我が君のこの麗しきお姿を見られてしまったか。この女、よりにもよって夕陽お嬢さまを、よくも地味子などと呼んで愚弄してくれたものだ。篠突く雨のイメージをただ見せただけでは飽き足らない、精神に直接的にダメージを与えるだけなどこの女には甘すぎたくらいだ。いっそ六道輪廻の地獄へ叩き落としてやろうか」
「ダメよ、朧。降りかかる火の粉は振り払う程度にして、やりすぎてはいけないとお館さまにきつく言われているでしょう」
「心配するには及ばない、わたしと暁のふたりが真に本気を出さなければならない程の相手など、この学園にいるはずがない」
「たぶんな……」と、後に続くべき言葉を朧は口には出さず、心の裡に閉まっておく事にした。
彼女は脳裏に浮かぶひとりの女子生徒の存在についての考察を、いったん保留扱いにして棚上げをする。
初見で全てを把握するには、底の深い相手だったのは間違いなかったが、夕陽も操もメンタルがまだ弱く、無駄に不安にさせる必要もないという配慮からだった。
これはおそらく暁も同じ気持ちのはずで、目を合わせると彼もまた、無言のまま小さく頷いてみせる。
「仮にそんな化物がいたとしても、我らには夕陽お嬢さまの共鳴螺旋がある。操はできうる限り早く馴染んで、足を引っ張らずにすむようにしろ」
「わ、分かってるわよ。いちいち言われなくたって、そんなこと……っ」
朧の言葉に応える操の声に、微かにヒステリックな響きが混じり始めたのを、暁は敏感に察知する。
「シッ……静かにしろ、ふたりとも。姫さん、ようやく落ち着いたんだぞ」
彼の腕の中に今はおとなしく収まっている夕陽だったが、そのつぶらな瞳は紅玉のごとく輝き、さらさらのナチュラルショートは新雪を思わせる程に純粋な白を露わにしてしまっていた。
対風紀委員相手のいざこざで錯乱状態に陥っていた夕陽は、何時もの一時的な幼児退行を起こしてしまい、さっきまでグズついていたのだが、暁の言葉どおり今はようやく落ち着きを取り戻し、おとなしくなったばかりなのだ。
その間に夕陽が被った実害は、カラーコンタクトレンズを涙で流し失くしてしまった事と、メガネやウィッグを彼女自身の手によって強引に剥ぎ取ってしまった位のものだったが、それもまた何時もと同じでよくある事だった。
「でもまあ、顔や喉を前後の見境なく掻きむしられる事を思えば、ずっといい」
今はあどけない夕陽の顔を見つめる暁の表情は、朧でさえもかつて見た事のない、慈愛に満ちたそれは柔らかな微笑みだった。