9─2再会
華月宮の杜の奥深くにある明治時代の代表的建築物、『鹿鳴館』の外観イメージが完全に再現された石造りの重厚かつ瀟洒な洋館風校舎、それが華月宮学園である。
基本的な構造は、東西に延びる北棟と南棟の二棟から成り、校舎の両端よりそれぞれ1/4程度の部分に繋がる二箇所の渡り廊下によって連絡している。
正門から離れた側にある南棟は、広大なグラウンドに面している四階建ての建屋で、一階から三階までは各階ごとに学年分けされ、四階部分は生徒会執行部を始めとして、各委員会、生徒会議室等、生徒会関連の組織が集められた一般教室棟と呼ばれている。
正門に近い側にある北棟は、正面玄関前から全景を捉えた時にはまさに鹿鳴館そのものと見紛うばかりの外観を誇る二階建ての建屋で、一階は主に教員及び事務関連、二階には視聴覚教室等の特別教室と、それに付随する準備室によって構成される管理棟となっている。
この二棟を中心に据えて、講堂、体育館、プール、学食、運動部、文化部の各部室棟が、衛星状に配置され、この由緒ある学園を形成していた。
「あなたはここでもういいわ、ありがとう。由佳里にはわたしから言っておくから。さ、先生方につかまらないらうちに早く教室に戻りなさい」
「はい、分かりました。それでは会長、わたしはこれで失礼します」
丁寧な一礼を残して去っていく、おさげ髪をした下級生の背中を、優しげな眼差しで見送ると、不意に厳しい顔付きになって彼女は振り向く。
北棟二階の東のつきあたりにある音楽室のドアを、姉小路瞳子が開けたその時、圧倒的かつ何処までも威圧的な音圧を伴ったピアノの音色の渦が、暴風雨のように荒れ狂っていた。
破壊的で、暴力的で。創造性の欠片もない、怒涛の音塊。
狂気を孕んだその響きはもはやとても音楽と呼べるものではなく、ただの不快なノイズでしかなかった。
瞳子はその秀麗な眉をわずかにひそめながらも、無言のままで室内に足を踏み入れる。
彼女の背後でオートクローザーが防音仕様のドアを閉じると、外部に漏れる音を瞬時に遮断する。
音楽室の音響設備は、ちょっとした規模の小劇場程度なら何ら劣る事のない高い水準にあり、防音もまた完璧に近かった。
「なにごとなの? これはっ」
瞳子は声を凛と張り上げながら、さらりとした長い黒髪を右手で背中に払い、背筋を綺麗に伸ばした美しい姿勢を崩す事なく、早足で窓際に置かれている黒く艶めいているグラウンドピアノに近付いていく。
ピアノの脇に所在無く佇んでいたふたりの女子生徒が、瞳子の気配に振り向くと、あからさまにホッとしたような表情を浮かべる。
「遅かったじゃない、瞳子」
「生徒会執行部が揃いも揃って、許可もなく特別教室を使用するなんてどういうつもりなの? 篝あたりに知れたら、先生方よりもうるさいわよ」
「その篝と揉めて、こうなったみたいなの。わたしと範のふたりは正門側にいたから詳しくは知らないんだけど。風紀委員たちを問い詰めても、あいつら何も言わないしね」
頭の両側で三つ編みにした髪をそれぞれにまとめ、結い上げている、いかにも良家の子女らしいお嬢様然とした雰囲気を身に纏っている女子生徒──新城由佳里が、やや焦燥を滲ませた表情で咎めるように言う。
「遅くなったのは悪かったわ、由佳里。ここに来る途中、職員室にも寄ってきたものだから」
「あなたは女子寮の寮長でもあるから、登校時間が遅くなるのも仕方ないのは分かってる。で、それで? 何か分かったの。一時間目が緊急的に自習となった理由」
「さすがに話が早いわね。でも、何も。ただ、先生方が何時になく慌ただしくていらしたわね。あそこでは生徒会長の肩書きなんて全く関係ないから、すぐに職員室から追い出されてしまったわ。静香なら、それでも何か掴んでくれたんだろうけど」
「そのかんじんの静香がこれだからね」
目を閉じ髪を振り乱し、非人間的とも呼ぶべき超絶的な技巧の運指法のみならず、全身全霊をかけて鍵盤を無心に叩き続ける、妹尾静香のその姿はまさに神懸かりで、何かに憑かれているようにしか見えない。
瞳子は今、静香の背後に立ち、ピアノ脇にいるふたりに向けて会話をしているのだが、それなりに声を張り上げなければ、おたがいに何を言っているのか分からない状況にも関わらず、静香の耳にはそれさえも届いてはいないのだろう。
由佳里の最後の言葉に、瞳子が憮然とした面持ちを浮かべると、額に接した髪の生え際が全て見える程のベリーショートをした、日に灼けた褐色の肌が臙脂色をした制服にとてもよく似合う、スレンダーな女子生徒──範子怡も会話に加わった。
「いずれにしてもだ、瞳子。ここにあまり長居はできないだろう。一時間目が終わるまで、誰も来ないとは考えにくい」
「むしろ、その可能性の方が高いでしょうね、範。さっき瞳子がこの部屋に入る時、ほんの一瞬とはいえ、外に音を洩らしてしまったわ」
「だったらここは、瞳子に静香を何とかしてもらうしかない。わたしと由佳里では、どうしても止められないんだ。“妹”の行いに非があれば窘め、言う事を聞かせるのは“姉”の役目と決まっている」
由佳里とファンのふたりが交わす会話が導き出した結論に、瞳子はやるせない表情で溜息を洩らす。
「簡単に言ってくれるじゃない。静香がこんな風にトランス状態になってしまったら、誰にも止めるのは無理だわ。ここ数年は収まっていたのに 、本当にどうしてしまったのかしら。後はもう、気絶させるか、体力が尽きるかするまで待つしかないわね」
諦念を含んだ瞳子の言葉に、由佳里は腰に両の拳を当てて、心持ち顎を上げると、心底呆れたような表情を見せる。
「冗談でしょう? この曲、オプス・クラヴィチェンバリスティクムはね、楽譜どおりに弾けば、演奏時間が四時間近くにもなるのよ。それまでこのまま、ただ手をこまねいて見ていろっていうの?」
英国生まれのピアノ演奏家、カイホスルー・シャプルジ・ソラブジによって、二十世紀の前半に作曲されたピアノ独奏曲、オプス・クラヴィチェンバリスティクムは、四時間弱を要する演奏時間に加え、一九八〇年代頃までは、「これまでに書かれた中で最も難しいピアノ曲である」と認識されることも多く、難易度と複雑性に於いては他のどの作品にも引けを取らないとされていた難曲中の難曲である。
「仕方ないわ。静香の気が済むまでつきあうには、このままここに籠城するしかないでしょうね。あなたたちは、もう教室に戻りなさい。“妹”の不始末は “姉”の不始末、他の誰かを巻き添えにするなんてできない」
音量で制するタイプのこの曲は、楽譜には大量のアクセント記号と轟音を指定するfffffの指示も稀ではなく、要求される技巧のレベルと演奏時間の長さも相俟って、演奏者の体力と気力を容赦なく根こそぎ削り取っていく。
だがそれでも、瞳子の過去の経験によれば、静香の体力の底が尽き、演奏が止むまでには、まだかなりの時間があるはずだったのだが──。
「瞳子、静香が……っ!」
「分かってる!」
由佳里の悲鳴混じりの声に、瞳子はすぐさま反応する。
鍵盤を叩くタッチが急に乱れ始めたかと思うと、ついにはそのまま演奏を立て直せないままに、静香の背中がぐらりと揺らいで、演奏用の椅子から転げ落ちてしまいそうになる。
この結末を全く予想していなかった瞳子は、慌てて静香に駆け寄り、弛緩した身体を背中から受け止めた。
瞳子が肩越しに問いかけると、静香は何処か焦点の合わない虚ろな瞳を宙にさ迷わせ、消え入りそうな声で訥々(とつとつ)と答える。
「静香、しっかり。らしくないじゃないの。いったい何があったのか、教えなさい」
「瞳子。わたし、あなたが言ってたジェミニ……見つけたかもしれない」
「ジェミニ? タロットの啓示の子?」
華月宮学園はカソリック系のミッションスクールを、その源流としている。
元々は女子校として創設された為か、校則上では恋愛に触れる項目は少なく、生徒同士による恋愛は積極的に認められてはいないが、否定もまたされてはいない。
だがそれは、あくまでも異性間の恋愛に限っての事で、主に教義上の理由もあり、対外的にはこの学園内に同性間の恋愛は存在しない事になっている。
ジェミニとはこの学校独自の隠語で、今でも使う生徒は少なくない。
華月宮学園がまだ女子校だった頃の名残りの言葉で、教義に背き人知れず恋愛関係にある女子生徒同士を、暗黙のうちに何時からかそう呼び始めた事に端を発する言葉だった。
現在ではもっと軽い、擬似恋愛をも含むフレンドリーな関係を指す場合もあるが、その言葉の裏に秘められた真の意味は、生徒たちの間では今でも色褪せる事なく継続されて使われている。
「でも、あの子はダメよ、やめた方がいい。きっとおたがいが不幸になる」
「静香、あなた何を言ってるの?」
「…………っ」
「静香……!」
まるで巫女が神託を告げる様を連想させるかのような静香の姿だったが、突然息を詰まらせ苦悶の表情に顔を歪ませると、耐えきれずにその身をふたつに折ってしまう。
「これだけ演奏しても、まだダメ……“音”が内にこもって出て行ってくれない!」
「静香、さっきからどうしたの? わたしたちにも分かるように話して!」
「あの操って子、何……何なの? あれで正気を保っていられるなんて、どうかしてる、普通じゃないわ!」
瞳子はこの状況でもまだ、自分の声がまるで静香に届かない様子から、彼女のトランス状態がまだ解けていない事を知り、激しい焦燥感に見舞われる。
そんな時、さっきから何か耳をすましていた由佳里が、ふと呟きを洩らす。
「ねえ、何か聴こえない? これ、何の音?」
「こんな時に何言ってるの、由佳里? 別に、何も聴こえないわ」
瞳子にしてみればまるで場の空気を読んでいないかのような由佳里の言葉に、苛立ち混じりに返事をするが、ファンまでもが由佳里の言葉に倣って耳をすましている。
「いいや、由佳里の言うとおりだ。確かに聴こえる。これは、いったい何だ」
耳に手を当て、教室内をゆっくりと見渡していた由佳里が、教壇の中央に置かれている教卓の処で視線を止めると、指をさして叫んだ。
「音叉よっ、音叉が共鳴してる!」
「共鳴って、いったい何に?」
由佳里の指摘どおり、教卓の上に置かれていた調律用の音叉が、自らが起こす振動により、ほんの僅かずつズレながら移動しているのが、瞳子にも見えた。
異変はそればかりではなく、気付けば教室中の窓硝子も細かく震え、間断なく微かな音を立てている。
『ル…………ン』
『ルッ………ン』
『ルッ───ン』
そうしている間にも、音叉が発する音の響きは徐々に強まっていき、やがて特定の周波数に到達した時、さらなる異変は起こった。
乾いた炸裂音が続けさまにし、教壇側から音楽室の後方に向かって、次々に部屋中の照明が破裂を繰り返していく。
細かな振動を続けていた防音仕様の二重になった分厚い遮音硝子が、その外側の硝子にのみいくつもの亀裂が走り、まるで瞬間氷結でもするかのように、窓枠に向かって軋んだ音を立てながら白くひび割れていく。
それはまるでポルターガイスト現象のように、不可解で、理不尽で、原因不明の、とても謎に満ちた現象だった。
「共鳴螺旋……何て威力なの。ほんの些細な残滓だけで……こんなにも威力があるなんて」
妹尾静香はそんな謎めいた言葉を残して、姉小路瞳子の腕の中で、途切れかけていた意識をようやく手放した。
残された三人は思わず顔を見合わせると、ひと息吐いて、脱力する。
教卓の上に置かれていた音叉が、今は床に落ちて転がっている事に気付いた者は、ひとりもいなかった。