9─1再会
操は荒れ狂う感情の乱れを制御するのに必死だった。
霊糸から伝わってくる、彼女の主である夕陽の心の内を蹂躙している嵐の影響が、ひたすら過ぎ去るのを待っている。
一瞬でもその嵐に煽られ、巻き込まれてしまえば、夕陽の音叉の共鳴螺旋が発動し、取り返しがつかなくなってしまうであろう事を、彼女は過去の経験によりいやという程に味わっているので、ただ死に物狂いで耐えるしかない。
傀儡操者としてもっと冷徹になり、夕陽をただの人形として扱えれば、これ程までに苦しまずにすむのだが、主を盲目的に敬愛する操にその選択肢は端からない。
夕陽の意識がある状態で、その感情の襞の奥にある細かな機微の全てを共有しながらも霊糸の繋がりを保てれば、音叉の力をさらに生かす事ができるはずだとの思いがある。
相性がよいとされる、彼女の兄である操人と夕陽の関係とのさらに上を行くには、夕陽の心の内にある負の要素ですらベクトル変換し、余さず正のエネルギーとして扱えるようにするしかない。
それができれば傀儡操者としては無論の事、夕陽の従者として他の追随を許さない存在になれるはずだと、操は常日頃から考えている。
それは決して荒唐無稽な夢物語ではないはずだった。
実際に操の理想形の片鱗を、由布院楓が彼女の眼前で示した例もある。
夕陽を人形扱いするのではなく、夕陽は夕陽としての人格を保ったまま、むしろ自らが彼女の増幅器にも似た力の構成部品となり、必要因子となる。
それこそ操が望んでやまない、夕陽に対する理想の関係──。
音叉の姫君たる夕陽の礎として、なくてはならない存在になる。
共鳴螺旋の閉じたループを開放し、無限にも等しい力を得て、夕陽を女神に近い存在にまで成長させる。
それは操が永遠に解を求め続ける事になる、至上の命題──。
◇ ◇ ◇
「生徒会執行部副会長、妹尾静香の名において、その罪状告知はわたしが一時預かります。よって風紀委員長、篝みちるによる確保の命は却下! 各自、その場より一歩も動く事は許しません!」
「なっ!? 一体、何の権限で! 専門分野での公務中は各専門委員の長と生徒会執行部役員は完全に同等のはずです。つまりこの場合は生活指導の公務中によるトラブルですからそれを収束させる義務が風紀委員長にはあるし、それを止める権限は他の誰にもないはずです!」
風紀委員長、篝みちるによる暁たちへの怒りの矛先は簡単には収まる気配を見せず、彼女の暴走を止めようとした生徒会執行部副会長、妹尾静香にまで向けられてしまう。
儀同の半身を大切そうに抱き起こしつつも、誰彼なく噛み付く勢いを見せる狂犬じみた態度の篝みちるに対して、妹尾静香は一転して淡々とした事務的な態度に戻る。
「トラブルの収束? ただの私怨ではなくて? 過剰な権限の行使はさすがに見逃す訳にはいかないわ。自重しなさい、篝みちる」
「主観の相違です。風紀委員たちは皆、わたしに賛同してくれるでしょう」
「主観の相違、ねえ? そう、なら思うとりにやってみればいいわ」
「風紀委員長、篝による命令は未だ継続中である! わたしの命令に背く風紀委員服務規定違反者には懲罰動議を発令、後日査問委員会にて徹底的にその責任を追及するものとする! 残された学園生活で日陰の身にやつしたくなければ、ようく考えて動くんだな」
だが、篝みちるの予想に反して、それでも風紀委員たちは誰ひとり動こうとはしなかった。
否、動きたくても動けなかったのである。
目の前に立つ見知らぬ生徒たちの雰囲気が、ある一瞬を境にしてがらりと変わり、何者をも寄せ付けはしない殺気を周囲に撒き散らしているからだ。
他者から初めて浴びせかけられている苛烈なまでの殺気。
だが、風紀委員たちはそれが殺気である事ですら気付いてはいない。
ただそれぞれの内にある、生存本能とも喚ぶべき部分が、本人自身でさえそれとは知らぬうちに反応しているに過ぎないのだ。
怯え、竦み、震え、かつてない恐怖に戦慄せざるをえないのは、狂おしいまでの生への欲求が、涙ぐましいまでの命への執着が、己の身体を危機から少しでも遠ざけるよう、拘束するからだ。
遅れてきた新一年生、時期外れの転入生たち。
彼、または彼女たちの存在感は他とは際立つ程に圧倒的で、色鮮やかで、そして美しい。
いずれも男女それぞれの平均以上の身長で、スタイルも人並み外れて均整が取れている。
口唇から覗いている犬歯がやけに目立つ男子生徒は、制服の上からでも分かる程の野生動物を連想させるしなやかな筋肉質の身体付きに、狼のたてがみのようなラフなカットの黒髪がこの上もなくよく似合う。
セミロングの黒髪を後頭部の高い位置でひとつに結っているポニーテールの女子生徒は、中性的な雰囲気をその身に纏い、世が世なら美貌の少年剣士にでも見紛われてしまいそうな凛とした佇まいをしている。
長い黒髪をざっくりとひとつに編み込んでいる三つ編みの女子生徒は、日本人形もかくやという程の整った容姿をしていて、第三者から見れば誰しもが姫という呼び名は彼女にこそ相応しいと思わせる、愛らしくも気高い雰囲気を漂わせている。
そんな規格外の存在感を有する三人の生徒たちに、姫と呼ばれて割れ物の硝子細工のように大切に扱われている、メガネをかけた少し地味めで小柄な少女。
まるで映画のワンシーンのように絵になるその光景は、退屈な日常に憂いて、常に何か新しい刺激がないか探し求めている良家の子女たちの琴線に確実に触れた。
意識が朦朧としている夕陽を、暁が迷う事なく抱き上げると、「きゃあ、きゃあ」と、黄色い嬌声がそこかしこで上がる。
正面玄関前には今や車両通学の生徒たちだけではなく、正門で既に生活指導のチェックを終えて、本来は別の入口に向かうはずの徒歩通学者たちも続々と集結してきていてるのだ。
「な……っ、何時の間に?」
「視野が狭いわね、篝。そんな事で冷静な判断ができているのかしら」
由布院家所有のリムジンがロータリーから消え、後続の車両が次々に正面玄関前に着き、車で通学する生徒たちを順に降ろしていった結果、今のこの状況が生まれている。
小さなひとの集まりはさらに別のひとの集まりを呼んで、やがて集団を形成していく。
場に集う、生徒たちによる支持のバランスは見る間に一方的に傾いて、風紀委員たちに向けてさらなるプレッシャーを与え始めている。
暁を始めとする、夕陽の守護者たちのヴィジュアルはただそこに在るだけで、見る者全てを無条件に惹きつけてしまう程の、理屈を超えた魅力に満ち溢れていた。
「篝、あなたこの雰囲気のなかで、まだ無理を押し通すつもり? 校則というものはね、運用する側の人格も問われるものなのよ。ここで風紀委員に対する批判の火の手があがれば、今後の生活指導に支障をきたすかもしれなくてよ。少なくとも今よりやりにくくなる事は間違いないでしょうね」
「だからこそ例え小さな火種でも、この場で確実に鎮火しておかなければならないんです」
妹尾静香の淡々とした事務的な口調が苛立ちを募らせるのか、篝みちるは苛々する様子を隠そうともせずに噛み付き返す。
「そう、あくまで退く気はないようね」
「校則ですから」
「だったら、その校則に泣いてもらいましょうか」
「…………」
「ねえ、知ってる? あらゆる校則に優先する特例事項がある事を?」
「特例事項?」
訝しむ篝みちるの態度を、まるで憐れみ、せせら嗤うかのように、妹尾静香の口角が静かに吊り上がっていく。
妹尾静香と篝みちる、ふたりの一歩も退かないやりとりの間にも、暁たちは焦れる気持ちを押し殺すようにして、水面下では密かに高速化言語による意思の疎通を図っていた。
────おい操、絶対に耐え切るんだぜ。でなけりゃ、また姫さんが寝込んじまう。
────お館さまやおまえの兄上がいない状況で、夕陽さまの共鳴螺旋のお力が発動したらどうなるか分かっているんだろうな。
暁が腕の中の夕陽の様子を気遣わしげにしながらもそう言い放つと、朧もすかさず厳しい調子で追随するが、それは操の感情を逆撫でする結果にしかならず、彼女は苛立ちを爆発させてわめき散らしてしまう。
────うるっさいんだって! それと操人の事はゆーなっ! 気が散る!
────見てらんねえな。おい朧、この鬱陶しいツラした連中、蹴散らしていいか。操の奴、もう保たないぜ?
暁が周囲の状況を窺いながらも、若干呆れたかのようなニュアンスを匂わせると、操はただでさえ不安定な感情をさらに昂ぶらせる。
────なっ? 大丈夫だと言ってるでしょう!
────無理すんな、おまえがもう限界なのは見りゃ分かる。
────勝手な事を言わないで。わたしはもう二度と同じあやまちを繰り返さないと決めたのよ。放っておいて!
その時だった、まるで高速化言語を理解しているとしか思えない内容とタイミングで、妹尾静香が暁たちの会話に割り込んできた。
「放っておくなんて出来ないわね、これ以上。篝、よく見なさい。彼女の顔色、酷く悪いわ。無駄に足止めされて、相当無理しているようだけど」
「!!」
振り向けば操の傍らに、いつの間にか妹尾静香が佇んでいた。
暁たちの間に緊張が走り、それぞれがアイコタクトを交わす。
そうして、妹尾静香の反応に探りを入れる為に、あえて高速化言語による会話を続ける事を選択する。
────今のは何だ? この女、おれたちの会話を理解しているのか?
────さあな。どちらにもとれる瞬間をわざと狙った可能性もあるが、仮にそうでも簡単には尻尾は掴めんだろう。それよりもこの時代の、この国で、わたしたちふたりの後ろを取れる人間が、由布院の邸の外にもいた事の方が問題だろう。
かつてない程の厳しい視線を向けてくる朧の気配に気付いているのか、いないのか。
妹尾静香はいつの間にか操の傍らに立ち、彼女の肩を両手で抱き寄せながら、相も変わらず淡々とした事務的な口調で篝みちるを苛つかせていた。
「ねえ、聞いてる篝? こちらの生徒、久沓操さん、調子悪そうだと思わない? 安曇野さんに続いて意識を失ってしまいそうよ」
「聞いてます。確かにそうですが、それが何か? 特例事項とどう関係が?」
「折神朧さん、真宮寺暁さんのおふたりがいなければ、彼女たちは歩く事もままならないでしょうね」
「さっきから、何を? そんなのはいちいち説明されなくても、見れば分かります」
「それが聞きたかったの。ようやく認めてくれたわね、篝」
「だから? いったい何をですか?」
会話を重ねる度に、さらに口角を吊り上げていく妹尾静香の表情に、篝みちるは自分が何か失敗を犯してしまったのかと、我知らず問いかけるその声音に、そこはかとない不安の色を滲ませる。
「体調不良の生徒二名が、ここにいる事を──この生徒たちには付き添いの生徒二名を付けて、今より直ちに保健室に連れて行かせます。それを阻害する一切の行為は処罰の対象としますので、委員各自は気を付けるように」
「特別救済措置法……っ」
妹尾静香の言葉に、眉を顰めて俯き加減につらつらと記憶を探っていた篝みちるだったが、何かに思い当たり腑に落ちたのかハッとした様子で顔を上げると、実に苦々しげに呟きを洩らす。
特措法1条の1──生徒個人の健康維持及び生命維持に関する管理活動の一切は、あらゆる校則に優先するものとし、何人の権限であろうとその対象に及ぶものではない。
特措法1条の2──体調の優れない生徒の安寧を図る為、保健室を一切の権限が及ぶ事のない治外法権区域とする。
「そう、一応は頭に入ってるようね。話が早いわ。保健室においては、生徒会各専門委員の権限は一切及ばぬものとし、いかなる理由であれ公務による保健室への出入りは全て禁止にします」
「つまり、健康上の理由を以て彼女たちをこの場から救い出し、治外法権として指定される場所で保護する訳ですか……どうして、そこまでなりふり構わず? 少々強引ではないですか」
「あら? たった今、あなた自身が認めてくれたのよ? 安曇野さんたちが特別救済措置法の適用条件を満たしている事を。それに、強引さではきっとあなたに負けるわね。他に何か質問は?」
「…………っ」
校則を以て、校則を制す──誰よりも校則を重んじる風紀委員の長たる篝みちるに、これ以上反論すべき言葉などあろうはずもない。
彼女はただ儀同の身体を抱き締め、口唇が醜く歪む程に、きつく噛み締めるしかなかった。
「何もないようね、篝。めったに運用される事のない特措法とはいえ、風紀委員の長たる者、全ての校則に精通していて然るべきだわ。精進する事ね」
うなだれ、肩を落とす篝みちるへの興味の一切を失くしたかのように、妹尾静香はあっさりと踵を返すと、その場からの離れ際にさも思い出したついでにとでも言った調子で、未だ風紀委員たちに囲まれたままでいる暁たちに声をかけた。
「ああ、あなたたち。保健室へ案内するわ、付いていらっしゃい」