8─2華月宮の杜
華月宮学園正門から正面玄関を連絡する舗装路の両側には、丁寧に手入れされた銀杏並木が連なっていた。
新芽が成長し、今は緑に色づいているその光景は、秋には見事な黄葉を見せ、冬には落葉し、生徒たちに季節の移ろいを教えてくれる。
由布院家所有のリムジンはそんな銀杏並木の下を、ゆっくりと徐行していた。
正面玄関前を起点とする渋滞に今は巻き込まれている為、石畳の歩道の上を行く徒歩通学の生徒たちに次々追い抜かれていく。
その際、彼、または彼女たちは、威容を誇る黒塗りの車体に例外なくちらちらと視線を投げかけてくるのが、車内からでもよく分かる。
「もう、間もなくです」
久沓がそう告げてからしばらくして、ようやくリムジンが学舎の正面玄関前のロータリーに進入すると、整列している生徒たちの前で滑らかに停止する。
エンジンをアイドリング状態にしたままで運転席から降りた久沓が、後部左側面にあるスライドドアを開けると、暁を筆頭に朧と操のふたりが後に続いて車外へ降りていく。
「姉さん、じゃあ、いってくる」
「はい、しっかりね。夕陽さん」
この頃になると由布院楓は、ふたりきりでいる時などは特にだが、夕陽に対してかなりくだけた口調になる場面もしばしば見られるようになっていた。
「うん、じゃあね」
夕陽はそんな由布院楓の言葉に嬉しそうに微笑んで、胸の前で小さく手を振る姉にひとつ頷き返すと、やや緊張気味の表情を浮かべながらもスクールバッグを抱えて車内を後にする。
「夕陽さま、お手をどうぞ」
「あっ、ありがとう。久沓」
久沓の男性にしては繊細な手を取り車外へ出ると、操たちの服装チェックが既に開始されていた。
暁には男子生徒が、操と朧には女子生徒がそれぞれ二名ずつで対応している。
「おはようございます、あなたも初めて見る顔ですね。わたしは華月宮学園生徒会執行部副会長、妹尾静香。風紀委員による朝の生活指導にご協力願います。では、あなたが所属するクラスと名前をどうぞ」
全校生徒のプロフィールが入力されたタブレットを手にする女子生徒の風紀委員を後ろに従え、リーダー格と見られる女子生徒が腕を胸の下で組みながら、夕陽の前に一歩進み出た。
彼女は理知的な容姿をしていて、肩口に触れるか触れない程度の、緩くウェーブのかけられたミディアムボブがとてもよく似合う。
学園よりもスーツ姿でオフィス街にいる方が似合いそうな、デキる女の雰囲気を漂わせ、場の雰囲気を締めている。
夕陽はそんな彼女の佇まいと、軽く詰問めいた口調にすっかり舞い上がってしまう。
さらにその時、久沓が再び乗り込んだ由布院家所有のリムジンが、滑るように発進して正面玄関前から離れ始めると、夕陽の心の内に立った細波が小さくうねり始める。
頼れる姉である由布院楓が遠去かっていく気配が、夕陽の心の緊張と不安を知らず知らずのうちに増幅させていく。
「あ……えと、わっ、わた……し」
「所属のクラスと名前を」
「1年A組……安曇野……安曇野夕陽です」
「1年A組の安曇野さん? ああ、あなたが過去最高得点で編入試験をパスしたという生徒ね? お目にかかれて光栄だわ」
それは中学三年間で、真ん中辺りの最も人数が多いグループに埋もれていた夕陽にしてみれば、にわかには信じ難い内容だった。
思わず耳を疑うような言葉を告げられてしまい、彼女は控えめな態度でおずおずと聞き返す。
「えっ? 編入試験……最高得点、だったんですか?」
「そう聞いてるけれど? 職員室で先生方がめずらしく興奮気味に話をされている場にたまたま居合わせてね。わたし耳はスゴクいいの、“地獄耳”と言ってもいい位に」
だが夕陽には相手の言葉を聞いている余裕は全くなく、茫然自失の状態で、口に手をあて呟くように自問自答を繰り返している。
「何でっ……そんなの困る。やけにスラスラ解けるから、出来はいいと思ってたけど……これも姉さんがくれた知識のおかげかな? 使いたい時には全然使えないくせに、こんな時ばかり……もうっ」
目立つ事を好まない夕陽にすれば、例えどのような形であれ、人より秀でる部分は極力排していきたいと考えたいただけに、忸怩たる思いに苛まれ続ける。
試験の結果を意識的に操作する程の余裕は編入試験の時にはなかったので、何を言っても完全な結果論なのだが、夕陽は自分を責めずにはいられない。
「安曇野さん、どうかして? 安曇野さんっ?」
「あ、いっ、いえ。何でも」
妹尾静香がわずかに背を屈め、覗き込むようにして夕陽の瞳を捉える。
瞳を間近に見られた夕陽は、カラーコンタクトがバレないか不安になり、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「そう? あなた、病弱で療養生活が長くていらしたんでしょう? 無理はしないでね。では安曇野さん、鞄を」
「はっ、はい。よろしくお願いします」
夕陽は反射的に小さく頭を下げると、女子生徒の風紀委員にスクールバッグを預ける。
緊張からぎこちない仕草になっている夕陽の様子が微笑ましく映ったのか、妹尾静香の口許がわずかに緩む。
その空隙を狙ったかのように、背が高く均整のとれた体格の男子生徒が、ふたりの間に割り込んできた。
「ちょっと待ってください、副会長」
「儀同? いきなり何です? 時間が押していますから、後にしなさい」
「申し訳ありません。後でどのような処分でも受けます。ここは好きにさせてください」
「何を勝手な事を……」
訝しげな態度を崩さない妹尾静香に背中を向けて振り切ると、儀同と呼ばれた男子生徒は夕陽に対して真正面から向き合った。
バスケの選手並みの身長が与える威圧感に、夕陽は思わず一歩後退りする。
「おまえの名前、安曇野だって? 安曇野夕陽? だったら、安曇野真陽を知らないか? いいや、知ってるはずだ。こんな名前、そうはないからな。聞きたい事があるんだ、あいつが何処の病院に転院したのか知っているなら教えてくれ」
「何で、真陽……を?」
語尾が震え、口唇が震え、膝から力が抜けて、崩れそうになる。
夕陽は怯えに憑かれている事を自覚して絶望的な気持ちになる。
メタモルフォーゼ以前は、相手がどのような体格、どのような気性であれ、夕陽は他の男子生徒に怖れを抱いた事など一度もなかったからだ。
こうして、事あるごとに以前とは違ってしまった自分自身に気付く度に、言いようのない感情が渦巻いて、どうしようもなく不安になり、無性に喚き散らしたくなる。
まるで、知らない土地でひとり迷子になってしまったかのように、拠って立つ場所を何時までも見いだせない、そんな感覚。
彼女の心は何時でもほんの小さなきっかけで、いとも簡単に不安定で落ち着かない状態に陥ってしまう。
「やっぱり知ってるんだな。頼むっ、教えてくれ。おまえはあいつの姉妹か何かか。顔は全然似てないけど、名前は似てる。何か関係はあるんだろっ。どうなんだ?」
「あ……おれは」
「おれ? 何言ってるんだ、おまえ? おい、しっかりしろ」
儀同はもどかしげな表情を浮かべ、夕陽の両肩を掴むと、苛立ちも露わに彼女の身体を揺さぶる。
夕陽は何故いきなりこんな状況に追いやられているのか理解ができないまま、何処か視点の定まらない瞳を虚空に向けて、しばらくは何の抵抗も見せずにされるがままの状態でいた。
やがて辛うじて相手に聞こえるかどうかという声量で、彼女はぽつりと呟きを洩らす。
「おれは真陽じゃない……離せ」
「教えてくれるまで離さないっ」
だが、それでも儀同は引き下がる気配すら一切見せず、さらに強い口調で言い募る。
そのあまりの見幕に、その一途な真摯さに。
周囲の人間もそれぞれにどう反応すべきか、判断が遅れたのが、夕陽にとっては不幸だった。
操たちにしても、儀同という男子生徒が万が一夕陽の姉の関係者であるかもしれない可能性を捨てきれず、風紀委員たちと同様に判断の遅れを招く失態を犯していた。
図らずも心理的に孤立した夕陽の精神はやがて、逃れようのない袋小路へと追い込まれていく。
「おれに、触るなっ。おれを、そんな目で……見るなっ」
「落ち着けっ。おれはただ、真陽の事を聞きたかっただけだ!」
儀同の手を振り解こうと、夕陽は身を激しく捩るが、本気になった男の前には無力でしかない自分を改めて思い知り、絶望が心臓を鷲掴みにする。
進退窮まった夕陽の感情はこの瞬間に限界を迎え、ショートしてしまう。
「いっ、嫌ァああアあああああアあっ」
喉が張り裂けんばかりの夕陽の悲痛な叫びに、その場で真っ先に反応したのは暁だった。
「おい、てめえ。いい加減にしやがれ。ウチの姫さんから離れろ」
「ぐぅ……っ」
儀同の死角から音もなく忍び寄り、彼の右手首を掴んだ次の瞬間には、暁は自分よりも頭ひとつ分背の高い相手を、背中から綺麗に地へと叩き付けていた。
儀同は暁の鮮やかな手際に、何ら抵抗する事もできずに、ただ息を詰まらせ、呻くしかない。
「そこまでだっ、暁! やりすぎるな」
さらなる追撃を予想した朧から鋭く制止の声がかかるが、暁は仰向けに倒れたままの儀同には見向きもせずに、夕陽の両肘の辺りをそっと掴んでその身を気遣う。
「おい、姫さんっ。落ち着け! もう大丈夫だ!」
「あァあアああああああアああああっ」
夕陽は錯乱したまま、それでも暁の身体に縋るようにして、必死の形相でしがみつく。
我を取り戻して騒然とする風紀委員たちの怒号が交錯する。
地に転がったまま痛みに呻く儀同に駆け寄ったひとりの女子風紀委員が、容赦ない糾弾の声を張り上げる。
「よくも儀同をっ! 安曇野夕陽ならびに真宮寺暁の両名に、華月宮学園校則第95条より、96条の3、公務執行妨害罪の適用をする! 確保!」
罪状を告げる、非情で冷酷なその響きが場を一瞬で支配した。