8─1華月宮の杜
私立華月宮学園は、始祖の十人主宰のProject•Kが所有する都内一等地にある。
広大な面積を誇るその敷地は、近代建築群の一角に、そこだけケーキナイフで切り分けられたかのように存在する。
何処か神宮外苑にも似た緑深き洋風庭園内に、系列の幼稚舎から最高学府までのひと通りが揃えられ、周囲の環境も含めて理想的な一貫教育の場を形成しているのだ。
敷地内への主な進入経路は五つ。
幼稚舎、小学部、中学部、高等部、大学・大学院。
それぞれの進入口は、それぞれの学舎を抱くエリア毎に別れている。
むろん、いったん敷地内に入ってさえしまえば、各エリア間を自由に行き来できるのは言うまでもない。
五つある進入経路のひとつ、私立華月宮学園高等部のエリア。
その正門を、一台の黒塗りのリムジンが、低速ながらも滑るようになめらかな駆動で潜り抜けていく。
登校のピークを迎えるこの時間帯。
送迎の車が高等部正門外から学舎正面玄関口まで連なって渋滞化しているその光景自体は、毎朝恒例と化している為ここではさしてめずらしいものではない。
それがどれだけの高級車であろうと、徒歩通学の生徒たちの視線を奪うような事は通常ならありえない。
だが、そんなもの慣れた様子の生徒たちでさえも、由布院家所有のリムジンのテールは、驚愕の眼差しをもって見送らざるを得なかった。
全長八メートルを優に超す、オーダーメイドによる黒塗りのその車体は、高級車の展示会さながらの様相を呈しているこの場においてさえ、尚異質であり、異形であり、破格であると言えた。
「姉さん。ねえ、何かみんなこっち見てるんだけど? やっぱりこの車って、相当目立つんじゃ……他の車じゃだめだったの?」
「目立つくらいでいいんですよ、夕陽さん。あなたが由布院家縁の者だと知れれば、誰もあなたにうかつな真似をする事など、そう簡単にはできなくなるでしょうから」
朝の通学ラッシュに巻き込まれたリムジン車内は、低速走行中とはいえとても静かで、微かに流れているクラシック音楽以外、エンジン音はもちろん、あらゆるノイズから遮断されている。
通常であれば電動式パーティションにより、客室のプライベート空間は完全に保たれ、運転手や外部からの視線に晒される事は一切ないのだが、今朝は初登校を心待ちにしていた夕陽の希望により、全てのパーティションは開放された状態にある。
それでも、各ウィンドウにはめ込まれた紫外線対策目的のスモークガラスが、朝の日差しを40%以下のレベルにまで遮光している為、車内には間接照明が点けられている。
仄明るく照らし出されるインテリア類は、白を基調にメイプルウッドがあしらわれ、瀟洒で上品な、落ち着いた雰囲気を醸し出す。
進行方向に対して、車体の右側面にはドリンクバー専用のカウンターが設置され、白の本革シートが運転席真後ろの位置と、車体左側面から最後尾にかけてL字型に配置されている。
最後尾のシートには、夕陽が由布院楓の左隣に並んで腰を降ろし、姉の肘の部分に両腕を絡めて、何処か気後れした様子で身体を隙間なく密着させていた。
「うかつな真似って?」
「夕陽さまがそのような事を、知る必要はございません。わたしたちがお側にいる以上、何も心配なさる事などないのです」
左側面のシートに座る、自らの主と同じ制服に身を包んだ操がこともなげにそう言うと、夕陽は戸惑いの表情を見せながら溜息混じりに呟きを洩らす。
「でもおれ……せっかく地味な感じにしてるのに」
夕陽のその言葉には由布院楓を始め、車内にいる誰もが苦笑せざるを得なかった。
特にこの場に、西の院の留守を守る手毬と小毬のふたりが居たなら、大きく肩を落として嘆息していたに違いない。
何故なら、初登校をする今日という日に向けて、彼女たち姉妹が夕陽の髪型を始め、身のまわりの支度の全てを整えてきたからだ。
彼女たちにとって不幸だったのは、夕陽の趣味・嗜好が想像以上に徹底していて、しかもかなり偏っている事だった。
地味で目立たない事をことさら好み、自身が目立つ要素は極力排除していく。
彼女の白く艶めいたシルクの髪は染料が全く乗らず、何度染め直してもムラになってしまう為に仕方なくウイッグにすれば、彼女が選んだのはごく普通の黒のナチュラルショートで、レイヤーやシャギーが多く入ったものや、ふわゆる系のガーリーなテイストのものには見向きもしない。
紫外線対策のカラーコンタクトも明るい茶系は端から避け、髪の色と同様の無難な黒を選び、さらには制服のメインカラーである臙脂色に、フレームの色を合わせた伊達メガネまでかける始末だった。
制服はそんな保守的な傾向が最も顕著に現れ、彼女の妖精のようなスタイルを引き立てる為、身体の実寸に合わせて仕立て直そうとしても断固拒否され、結局はノーマル仕様のまま手付かずで今日を迎えてしまう。
夕陽が唯一こだわりを見せたのは下着
(インナー)の肌触りで、素材と縫製に凝ったもの以外は一切受け付ける事をしなかった。
おかげで、華月宮学園の校則に抵触する怖れは生徒手帳を確認するまでもなく一切なかったが、その枠内で出来うる限り夕陽の美しさが引き立つようにと、張り切っていた姉妹ふたりをいたく落胆させる結果となった。
だが──それでも。夕陽は美しくあり続けた。
全体的にいくら地味な印象にまとめようとしても、そのつぶらな瞳が、すっきりと通った鼻梁が、果実のように瑞々しい口唇が、透き通るような白い肌が、控えめながも確かな存在感を放っている事を隠しきれない。
芸能人が普段着で街に出てもすぐに気付かれるのと同様で、どのような姿形であっても夕陽は夕陽であり続け、望むと望まざるに関わらず人の群れに埋没する事など、まるで天に許されていないかのようだった。
それこそがまさに、姫の遺伝子に選ばれし者全てが持つ、逃れ得ない運命の楔なのだと、由布院楓は何処か影のある表情で、ある時夕陽に教えてくれた。
「これじゃ、目立っちゃう。おれは普通でいたいのに」
新緑の季節に相応しい若葉色を基調にした、由布院楓が着こなす加賀友禅。
夕陽はその肩口に顔を深く埋めて、あきらめ気味に嘆いて見せる。
そんな風に、倦怠感漂わせていた夕陽だったが、ふと何かを思い付いたかのように顔を上げると、にっこりと天使のごとく微笑んだ。
「あ、でも。操と朧が一緒にいてくれるからそうでもないかな? ふたりともすごく綺麗だし。おれの事なんか誰も気にしないよね」
「ゆ、夕陽さまっ」
夕陽のそんな言葉に反応し、褒められて歓ぶ小犬のように、思わず弾んだ声を上げた操だったが、彼女と同じ左側面のシートに座って、やはり夕陽と同じ臙脂色の制服姿でいる朧が、ほとんど瞬殺と言えるタイミングでばっさりと斬って捨てた。
「操、顔が緩んでいるぞ。我が君のご冗談だ、真に受けるな」
「うるっさい、分かってるっ」
朧は、操から進行方向側に離れて座っていて、彼女たちの間には人が三人分程のスペースが不自然にも空けられているのだが、それを詰めようとする意思はふたりには一切見られない。
「そんなっ、冗談なんかじゃないよ」
「おそれながら、我が君。わたし共などあなた様方姉妹とは較べるべくもない存在。そのような軽々しいお言葉は自らの価値を下げるだけにしかなりません。今後はお慎みください」
「えぇー? 姉さんは確かにすっごく綺麗だけどさ、おんなじ顔していても、おれなんか全然女らしくないし、それこそ較べるのは失礼だよ」
真顔でそう言う夕陽に向かって、後部
客室側最後のひとりが、それまでの沈黙を破り言葉を投げかける。
「いや、そんな事はないぜ、姫さん。お館さまにも負けねえくらいあんたは綺麗だよ、間違いなくな」
「もっ、もう、嘘ばっかり。いきなり割り込んできて何言ってるかな、暁は」
運転席とは背中合わせのシートに深く座る暁は、臙脂色のマオカラースーツの制服に身を包んでいる。
デンマーク王室御用達ロイヤルダンスクのバタークッキーを頬ばりながら向けられている暁の視線に、夕陽は何故か落ち着かない気持ちになってしまう。
口唇から吐いて出るしどろもどろで頼りなげな口調が、さらに羞らいを加速させていく。
暁はそんな夕陽の不審な態度を一切気に留める様子もなく、クッキーを食べ続けている。
夕陽と同じ年頃の成長した姿でいる事を朧に命じられて以来、彼の食欲には目を見張るものがあった。
実体化を維持し続けるには霊力の消費が相当激しく、彼は召還者である朧にかかる負担を少しでも減らすようにする為に、エネルギー源を他に求めざるを得なかったのだ。
「暁は式神ですので、主に嘘を吐いたりしません」
涼しげな表情でありながらも、きっぱりと断定する朧の言葉にいたたまれなくなった夕陽は、必死に話題を逸らす事を試みる。
「そっ、そんな事よりさ、みんな口調は仕方ないとして、普通に夕陽って呼んでくれない? おれは楓姉さんの妹ってだけで、主でも、姫でも、何でもないし。ただの普通の人間だよ」
「音叉の姫さんが何か言ってるぜ」
暁がクッションの効いたシートの背もたれに深く身を沈め、少々呆れ気味にそう言うと、朧が彼にきつい視線を向けてくる。
見れば夕陽があからさまにしゅんとした態度で、由布院楓の腕の中で萎れていた。
彼女の精神は脆弱で、目覚めてからひと月近くが経った今でも、未だ不安定で打たれ弱く、ほんの些細な事がきっかけで、容易く感情の起伏が繰り返されてしまうのだ。
暁は両肩をすくめて朧に反省の意を表すと、次のバタークッキーを口の中に放り込んだ。
彼の場合、その何処か斜に構えた口調が原因で、内容の一切に関わらず、時に言葉が意図せず皮肉めいた響きになってしまう事が過去にも少なからずあった。
むろん、彼に悪気がないのは言うまでもない。
「音叉の力は味方につければ絶対不敗。何ものにも代え難い、唯一無二のお力です」
操が場を取り繕うかのように言葉を繋ぐと、朧も頷きながら後を継ぐ。
「そのように貴き存在である我が君が、自らを普通の人間などという軽々しいお言葉を使うのはお止めくださいと、何時も申し上げていますのに。暁があなた様の自覚のなさに呆れてしまうのも必定かと」
「ごめん、やっぱり自覚が足りないのかな……おれ」
「自らの価値を下げるような真似は、お慎みくださいと申し上げているだけですが」
「だっておれ、音叉の力ってよく分からないし。操や朧、暁の三人が護衛についてくれる程の価値が自分にあるなんて、とても思えない」
「姫さん、人の価値ってのは自分自身には決めらんねえんだぜ。いくら偉そうにふんぞり返っていても、誰にも価値を認められないような奴は、ちょっとした事がきっかけで最後は必ず落ちていくもんだし、本人にその気がなくてもいつの間にか周囲に認められ、祀り上げられてしまったり、人にはそれぞれに相応しい立ち位置ってのがあるのさ」
暁が今度は言葉の響きに気を付けて、やんわりと諭すようにして言うと、朧がふたりの気持ちを補足する。
「我が君、あなた様はわたし共が認めた主です。決してお館さまに拾って頂いた一宿一飯の恩義の気持ちだけで、あなた様の許に付いた訳ではありません」
「そう言ってくれるのはもちろん嬉しいんだけど、本当におれなんかにそんな資格があるのかな」
「操人はともかく、四季が黙ってあなたに従っている時点で充分にすごい事ですよ、夕陽さん。あれは気に入らなければ女郎花の命令でさえ、平然と無視したりしますからねえ」
自信なさげな様子で、すっかりしょげ返っている夕陽を見かねたのか、由布院楓がおっとりした口調でそう言うと、夕陽は目を丸くして姉の顔を見上げた。
「え、四季さんってそんな人なの? すごく優しいよ?」
「夕陽さまの前だと猫被ってるんです、頭は。怒るとものすごく怖いんですよ」
夕陽の四季に対する印象がよいものであるのが面白くなかったのか、操が眉間に皺を寄せながら吐き捨てるように言うと、暁と朧のふたりもそれぞれの表情に複雑な色を浮かべる。
「ああ……確かにおっかねえ女だな。ああいうのは敵に廻すと厄介だぜ」
「ええ、何考えてるか分からないような処があるからなおさらね」
会話がそんな風にひと段落つきそうなちょうどよい頃合いを、まるで見計らっていたかのような絶妙のタイミングで、久沓の控えめではあるがよく通る声が運転席からする。
「もう、間もなくです」
後部客室側に揃う全員の視線が一斉にフロントガラスに向けられると、鹿鳴館風の瀟洒な学舎の正面玄関前に、男女数名の生徒たちが綺麗に整列をしているのが見える。
どうやら彼らは、車から降りた生徒たちの生活指導をしているらしく、手渡された鞄の中身や服装を逐一丁寧に改めるのが毎朝の務めらしい。
それは他の学校でも見られる、ごくありふれた何気ない光景だったのだが。トクン──と、夕陽の胸の鼓動が乱れ、彼女の心の何処か奥底で、小さな細波が立っていた。