幕間3夕陽と女郎花
月齡満ちる夜の静寂に、少女のすすり泣く声が微かに響いている。
息を押し殺した嗚咽が、酷くもの哀しく、切なく、繰り返し繰り返し、いつまでも続いて止むことがない。
由布院邸西の院は、北西の側に日本有数の霊脈から湧く名も知れぬ湖を臨み、東に正殿が隣接している。
正殿寄り東側の一辺に沿って走る縁側の、その南へ向かう突き当たりの扉の前で、板張りの床上に広がる染みを前にして、華奢な少女の影が肩を小刻みに震わせ佇んでいる。
少女の影はむせび泣きながら、両の膝で跪くと、手にした雑巾で床上に広がる染みを拭おうとした、その瞬間。
「待て、夕陽」
短くも強制力のある言葉を、背後から不意にかけられ、少女の影──夕陽の両肩がビクンと跳ね上がる。
老女のような、幼女のような、不可思議な響きを持つ威厳あるその声に、夕陽は聞き覚えがあった。
恐る恐る夕陽が振り返ると、月明かりを浴びて、羽織袴姿の巫女装束にも似た衣装を身に纏った、五、六才程の幼女がひっそりと佇んでいる。
幼女は巫女装束に何処か似た装いをしながらも、西洋人形のように整った非常に美しい容貌を持ち、落ち着き払ったその態度は、とても大人びていて凛としている。
切れ長の紅い瞳はまるで猫のように、やや眦が上がっていて、見る者に気の強そうな印象を与えている。
その反面、小さくつんとした鼻は愛らしく、紅のさされている形の整った薄い口唇は柔らかな微笑を湛え、全体の雰囲気を柔らかなものにしていた。
髪は瞳と共に夕陽と同じ色を持つ。
シルクのなめらかさを具現化しているストレートの白いその髪は、床にまで届く程にとても長く、緋袴から覗く白い足袋を中心にして床の上で放射状に広がっている。
それは一見、衣擦れひとつ、物音ひとつ立てずに移動する事など到底不可能に思えるが、幼女の存在は確かにそこにある。
その姿は、幻想的かつ現実離れしていて、この世の者ならざる雰囲気を醸し出していた。
「奥の院さま……?」
「ほう、何故分かる?」
「あ……声に聞き覚えがある気がしたんです。でも、そんなはずないのに」
誰にも見られたくないはずの現場を押さえられたにも関わらず、目を潤ませながらも落ち着いた様子で、夕陽はこくんと小首を右に傾ける。
それを見た幼女は猫のように目を細めると、満足げに頷く。
「いや、確かにわらわは奥の院と呼ばれてはおるが、楓の妹であるおまえはわらわの妹でもある。女郎花でよい」
「おみなえ……し、さま?」
「身内相手に敬称はいらぬ、呼び捨てで構わぬ。名は女郎花と書いて、おみなえしと読む。妾腹の子には相応しい名であろ?」
「しょうばらって?」
「ふむ、まだ楓の知識を自由には引き出せぬか、まあ致し方ない。緊急とはいえ性急にすぎたからの。馴染むまでには時間がかかるであろ。しかし、楓の人格を上書きされたにも関わらず愛いままでよい。しょうばらが分からぬか? 妾腹……つまり、愛人が産んだ子という事じゃな」
「あ、ご……ごめんなさい」
思いもかけぬ内容に胸を衝かれ、夕陽はぽろりと零れ落ちる涙も構わず頭を下げる。
夕陽は相変わらず感受性豊かで、精神的に不安定で、彼女はそれを未だコントロールしきれていない。
初潮が始まり、生理を一定の周期で迎えるようになれば、女性ホルモンの供給も増え、ホルモンバランスも安定する。
そうなれば、夕陽の気持ちもやがては落ち着いていくのだが、その時期はまだまだ先のようだった。
幼女は全てを見透かしているかのような瞳で、夕陽の姿を愛おしげに見つめながら、より一層猫のように目を細めていく。
「気にせずともよい。余計な事を口にしたようで、悪かった。それにわらわは公式には発表されてはおらぬが、メタモルフォーゼ初の罹患者でな。見た目程は幼くはない。出自に関しては、とうに割り切っている。しかもこれは元からの名ではなく、父上に対して半ば嫌がらせのように自ら名乗り始めた字名であるからな」
「ごめんなさい。それでもやっぱり、おれ……不注意でした」
萎れたままの夕陽に対して、女郎花の声音は何処までも優しげで、慈愛の響きに満ちている。
「泣かずともよい。この花の名は、結構気に入っておってな。美女をも圧倒する美しさという意味もあるのじゃ、似合いであろ?」
「あ……綺麗です。とっても!」
ふたりとも人として規格外の美しさを有している為、このやりとりは一歩間違えれば、嫌味の応酬ともなりかねない危うさを孕んでいたが、このふたりの場合はこれが初対面とは思えぬ程に距離感が近く、そのように険悪な雰囲気に陥る気配は微塵もなかった。
自らの容姿をことさら誇る様子でもなく、あたりまえの事をあたりまえと、さらりと述べた女郎花と、おもねる様子を一切見せずに素直に頷いた夕陽。
それは実に自然な流れで、微笑ましくすらある。
病院帰りの車中での記憶を失っている夕陽にとっては、目の前の幼女の柔らかな佇まいと、ここ数日で何度となく垣間見た、手毬や小毬を始めとする使用人たちが、女郎花の名前にすら過剰に反応して、その存在に恐れ慄いている事実がうまく重ならない。
「それで、このような夜更けに、このような場所で何をしている?」
誰もが当然思うその疑問に、夕陽は答えを返す事をためらい、しばらく逡巡した。
女郎花は答えをせかすでもなく、夕陽が口を開くのを静かな面もちで待っている。
「ごめんなさい……おれ、トイレ間に合わなくて。たいした距離じゃないから、大丈夫だと思ってたんだけど……楓姉さんが仕事で初めて留守にした夜に……こんな」
夕陽は普段は淡い桜色の頬を、今は紅葉色に染めて、途切れ途切れに答え始める。
彼女は常ならば、今夜はどうしても外せぬ日時指定の仕事の為不在にしている由布院楓によって、真夜中に最低でも一度は起こされ、まだ慣れぬ排泄の世話をしてもらっていたのだという。
もちろん彼女はそれを無抵抗に受け入れた訳ではない。
なし崩し的に姉とふたりで一緒に入浴する事を許容はしたが、例えそれが姉であろうと、今は退院したにも関わらず、排泄時に自分以外の誰かの手を煩わせるなど彼女にしてみれば到底ありえない事だった。
それでも、たかが排泄と思ってはいても実際に経験をしてみれば、それがいかに甘い考えであるかを彼女は後に嫌という程思い知る。
男である時とはあまりに勝手が違い過ぎて、戸惑う事の連続に思い悩んだ夕陽は、結局姉の由布院楓に押し切られてしまったのだ。
それ以降、夕陽は羞恥責めの連続に遭う事となり、深夜布団の中でのたうち回りたくなるような思いに連日悩まされ、ついには不眠症気味となる。
ビデの使い方から始まって、衛生上による観点から小と大では後始末の際に、ティッシュで女性器を拭く向きを前後変えなければならない必要がある事、さらには生理用品の扱い方等々。
つい先日までは少年だった夕陽にとって、正にカルチャーショックにも等しい経験を次々に重ねていく。
女性としての言葉遣いに立ち居振る舞い、メイクやファッションの知識、それら日常生活以前の基礎的な段階でこう何度も躓くのは、夕陽にとって全くの予想外ではあった。
だが、それにもまして深刻な問題は夜中にトイレが近くなる事で、そればかりは直ぐに改善のしようもなく、彼女は由布院楓に夜毎定刻に起こしてもらうという、幼児のような扱いを甘んじて受ける事となる。
今夜、妹をひとり寝させてしまう事を由布院楓は非常に気に病んで、仕事の断りを何度も相手先に入れようとしたが、夕陽は操たちがいるから大丈夫だと、姉に要らぬ心配をかけぬよう笑顔で送り出したのだ。
「それなのに、おれ……こんなんじゃ、姉さんに、顔合わせられない」
「恥じる事はない。男と女では筋肉の使い方が違うからの、一から身体で覚え直さなければならぬ。姉妹の誰しもが通った道じゃ。いずれは治る」
「ほんとに……?」
「ああ、まことじゃ。さ、そのような汚れ仕事を夕陽がする事はない。ああ、そんな濡れたままのものを何時まで身に付けているつもりじゃ、肌にはりついて気持ちが悪いであろ? さあ、早々に立ち上がるがよい。すぐに着替えを用意させる」
夕陽の白いワンピースタイプの寝間着は、女郎花の指摘どおりに膝上のスカート部分が濡れて、夕陽の太腿に薄い生地張り付いて素肌が透けている。
「で、でもっ……おれの不始末だから」
「いや、夕陽のせいではない。悪いのはわらわであるやも知れぬ。今この一帯には人払いの結界が張ってある。そうでもなくば、あの三人の側仕えたちがみすみすこの事態を黙って見逃すはずがないであろ。あれでなかなか、おまえに対する忠誠心には見るべきものがあるからな。この不始末、原因を作ったわらわが落とし前をつける」
女郎花は猫のように細めていた瞳を見開くと、それまでとは打って変わった厳しくも冷たい声音で、夕陽にも馴染みのある名を呼んだ。
「四季、聞こえているなら返事をしろ。わらわのこの閉鎖空間に立ち入る事を許す。適当なのを寄越すがよい」
女郎花の言葉に夕陽の内にある由布院楓の知識が反応したのか、彼女は今自分がいる場所が月の光も届かぬ異空間である事に、その時ようやく気が付き、認識をした。
「確かに承りました。ひとつよろしいですか夕陽さま、西の院の主であるあなたさまが、不浄の後始末にそのお手を汚されるような事などあってはなりません。さ、全てこちらにお任せください。繭、蛹、後は頼んだよ」
姿を見せぬ四季の〈声〉が命じると、女郎花よりもさらに小柄な影、禿姿の女児がふたり、歓声を上げながら何処からか不意に現れた。
ふたりは夕陽と女郎花の間の空間を、大はしゃぎながら駆け回る。
「だっ、だめです。こんなちっちゃな女の子にそんな事させられない」
「夕陽さま……どうかお気遣いなく。この子たちは九十九神の眷属で、何より不浄のものを嫌うんです。この程度の穢れを払う事なんざ、一瞬で済ませちまいます。さ、おまえたち、終わったらすぐにその場を失礼するんだよ」
四季の〈声〉が夕陽にそう答えた時には既に、繭と蛹のふたりの姿はその場から消え失せ、床も綺麗に磨き抜かれていた。
彼女が指先で触れてみると、そこは確かにきちんと乾いてる。
「嘘……いつの間に」
「何も驚く事はない、由布院とは古来より陰陽道を生業とする由緒ある家系。詳しく知りたくば、おまえの内なる楓の知識をようく漁ってみるがよい」
あまりの早業に、雑巾を両手に握りしめたまま呆気にとられた夕陽に向かい、女郎花は事も無げに言う。
「もっと知識に貪欲になれ、夕陽。求めよ、さすれば必ず答えは得られる。今、おまえが抱いてる疑問に対する全ての答えは、既におまえの内にある。それらはいずれ、おまえ自身の身を助ける糧にもなるであろ」
「おれの中に、全部?」
「次に月齢が満ちる時、また逢おう。おまえの成長を楽しみにしているぞ」
気付けば、夕陽はその場にひとり取り残されていた。
操たち、三人の側仕えたちが着替えを手に、姿の消えた主の姿を求めて、半ば錯乱した様子で夕陽の許に息を切らせて現れたのは、それから幾らも時が経たないうちの事だった。
◇ ◇ ◇
タロット占いには、それぞれの目的に応じて、基本的な展開法だけでも、スリー・カード・リーディングや、フォー・カード・リーディングがある。
最もシンプルな展開法には、ワン・オラクルと呼ばれるものがあり、これは比較的短期の運勢や相性、結果等を求めるのに適している。
皎々(こうこう)とした月明かりが降り注いで地表を遍く照らす、満月の夜。
ここ、華月宮学園女子寮三階東側の角部屋であるその一室も、決して例外ではない。
窓から射し込む月明かりだけを頼りにして、女子高生らしいシンプルなネグリジェ姿のひとりの少女が、窓際に設置された勉強机の上で、大アルカナと呼ばれるタロット占いの基本を構成する、二十二枚のカードを繰っていた。
「太陽(THE SUN)の正位置。恋の暗示は、楽しい恋愛。相思相愛。オープンな関係。スムーズに進展する。そして、新しく始まる恋……か」
少女はシャッフルを終えた中から一枚のカードを引くと、慎重に自身の未来をそのカードからリードする。
これはワン・オラクルの展開法で、一枚のカードから全ての情報を読み解かなければならない為、不確定要素が紛れる事も多いのだが、少女はこのスプレッドを好んで使っていた。
確実に訪れると分かっている未来程、つまらないものはないというのが少女の信条だったからだ。
だから、スリー・カード・リーディングやフォー・カード・リーディングではなく、あえてワン・オラクルを選ぶ。
リードを終えた少女は、淡い期待に胸を膨らませ、少し先の未来へと思いを馳せる。
「今の時期だと、新任教師の線はないわね。定員は足りてるし。転校生できっと間違いないわ。名前はまだ知らないけれど、早くいらっしゃい、わたしのジェミニ──魂の相似形」