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7─2傷(トラウマ)


 夕陽の身体が糸の切れた操り人形のように、ガクリと崩れ落ちる光景を目の当たりにして、手毬と小毬のふたりが悲鳴をあげた。

 操は地に未だ跪いた状態で、かろうじて意識は保ってはいるが、身動き取れない状態にある。

 一見冷静な表情を装う由布院楓は、いつの間にか夕陽が絡むと、取り乱さずにはいられなくなっている自身の変化に気付いて、心の内で苦笑していた。

 それでも、遅滞なきその動作は流麗さを微塵も失う事はなく、一瞬たりとも緩んだりはしない。

 空中に伸ばした両腕をあやとりでもしているかのように駆使すると、見えない糸を手繰り寄せ、凛とひと声叫ぶ。




「掌握────っ!!」




 それは、由布院楓が傀儡操者たる操から霊糸の上位権限を奪った瞬間。

 夕陽の身体が動画の一時停止状態のように、数瞬の間動きを止める。

 次にその拘束が解けると、由布院楓を振り切って離れようとしていた夕陽の身体は、後頭部からゆっくりとスローモーションのように倒れ込んでいく。


 ────由布院楓の胸へと。

 

 操の身体にかかっていた過負荷は、ブレーカーが弾け飛んだ時のように綺麗に消失していた。

 ゆえに、彼女だけは知っている。

 操と夕陽の間でループしていた負の共鳴螺旋を、自らの身体を絶縁体にして強制的に遮断した由布院楓に今この瞬間、いったいどれ程の負荷がかかっているのかを。

 霊糸からは容赦なく、月の魔力に悪酔いし、未だ酩酊状態にある、夕陽の不安定かつ暴走した精神世界の全てが流れ込んでいるはずだ。

 そうなれば、否が応にでも接触する事になる。

 夕陽の心の奥底におりのように溜まる、コールタールみたいにどろどろとした粘着的で、闇よりもさらに暗くどす黒い、心的外傷トラウマと。

 あれと遭遇すれば、いかに由布院楓といえども心の平静を保つのは難しいに違いない。

 そうなれば、束の間得られた今の均衡など、いとも簡単に破れてしまう。




「月がこれ程までに、夕陽さんの事を酔わせてしまうとは、何て目障りな。二度とこのような事がないよう、あの夜空から堕としてしまいましょうか」




 操の予想に反して、月を冷ややかに仰ぎ見る由布院楓の声は、何処までも涼やかだった。

 刹那的、ほんの瞬間的には、操の予想は当たっていたともいえるが、彼女と由布院楓では魂の容量が較べるのも愚かしい程にかけ離れている。

 まさに、桁違い、桁外れと言っても間違いではない程に。

 その容量を生かす事により操はもちろん、久沓や四季のふたりでさえ及びもつかないレベルでの分割思考を展開できる彼女には、例えどのような状況下にあろうと、我を完全に見失ってしまう事などまずありえない。

 冷静さを失った思考部分はローカルな領域に切って捨て、万が一の可能性すら残さず回避できるよう、複数の並列思考で眼前の問題に全力であたる。

 由布院楓は確かに、夕陽の心のさらに奥底に潜む、澱んだ闇を見た。

 だが魂の容量はもとより、操とは積み重ねてきた経験値が違う、研鑽されてきたわざの精度が違う、そして何よりも夕陽への想いの強さが違っていた。

 或いはそれは、主従と姉妹というそれぞれの立場と関係の違いがもたらす、決して超える事のできない壁なのかもしれないが。




「何で? 何で真陽は平気なのに、おれだけ……こんな。みんなが、おれを見る視線の意味なんかに、気付きたくなかった! ずっとそんな事に気付かなければよかった! 真陽がいないと、おれひとりなんかじゃ耐えられない! 耐え切れないんだ!」




 未だ錯乱状態にある夕陽を受け止めると、きつく、それでいて包み込むようにして由布院楓は抱擁をする。

 拘束から逃れようと、力なくもがく夕陽の身体はしかし、由布院楓に縋りつくように絡み、姉の肌のぬくもりをただ求めているようにしか見えない。




「戻りたいっ、何も知らなかった、あの頃に。パパとママ、真陽がずっと側にいてくれたあの頃に帰りたい! もう、ひとりでいるのは嫌なんだ!」


「行かないで、夕陽さん! あなたはもうひとりなんかじゃない! トラウマに捕らわれてしまってはダメです、帰ってきてください!」




 何かに憑かれたように叫び続ける夕陽に対して、由布院楓はほんの一瞬感情も露わに夕陽の名を呼ぶと、操から上位権限を奪った霊糸を用いて、夕陽の深層心理に強制的な介入を開始する。




  ◇ ◇ ◇




 ひとりじゃない、ひとりなんかじゃない。

 あなたはもう、ひとりじゃない。

 側にいるよ、ずっと。あなたの側に、ずっといる。

 何時だってあなたを守る、守ってあげる。

 だからもう泣かないで、涙を流したりなんかしないで。

 誰もがあなたに、欲望に塗れた視線を向けている訳じゃない。

 あなたを見つめる優しい眼差しに気付いて、暖かな、愛情に満ちた視線に気付いて。

 ずっと、あなたを見ている。あなただけを見つめている。

 だから気付いて、あなたはもう、ひとりなんかじゃない……。




  ◇ ◇ ◇




「つかまえた、夕陽さん。もう、離さない」




 探索サーチを終えた由布院楓が、ゆっくりと目蓋をあけていくと、両の頬を真っ赤に染めた夕陽の顔がすぐ間近にあった。

 それは、おたがいの瞳の奥をそれぞれが覗ける程の近しい距離。

 夕陽の瞳は落ち着きなく揺れてはいたが、光を取り戻している。

 由布院楓は、おとなしくなった妹の額に、自らの額をコツンと押し当てると、「もう……」と、安堵の吐息混じりに呟きを洩らす。




「姉さん、楓……姉さん。顔、顔が近すぎる……っ」




 落ち着きを取り戻した夕陽のはにかんだその笑顔を見て、由布院楓はようやく肩から力を抜いた。




「ねえ。せっかく助けてくれたのに……こ、これじゃまたっ……気が遠くなってしまいそうなんだけど」


「記憶はきちんとあるようですねえ。よかったです、わたくしたちがくちづけを交わした事を忘れておしまいになっていらっしゃったら、わたくししばらく立ち直れそうにありませんでした」




 由布院楓のあからさまな言葉に、自らが置かれた状況に、夕陽はさらに羞恥の色を深めていく。

 その何処か甘えているような、それでいて拗ねているような、無意識に媚びを含んだ夕陽の態度に、由布院楓は自らの嗜虐性が刺激されるのを感じ、ちょっとした悪戯心を発揮する。




「あ、あれはっ。あれはちょっと……強引すぎると……思うんだけど」


「あら? 強引なのはお嫌でしょうか」


「いっ、嫌なんかじゃ! あ……いや、ホントは、そんなの嫌なんだけど、で、でもっ、楓姉さんに、なら……何されても、平気……かも」




「ふふっ」と満足そうに含み笑いをする由布院楓の顔を、抗議の意味を込めて夕陽は睨むが、その可愛らしくも拗ねた表情は、やはり何処か媚びを含んでいるようにしか見えない。

 その仕草の可憐さは、由布院楓の心の琴線に生々しく触れると、彼女の胸を何度も高鳴らせ続ける。




「平気かも……ですか。それではその辺りの事を、今後ふたりでゆっくりと確かめていきましょうか」


「たっ……確かめるって、そんな。どうやって?」




 元はほんのり桜色の頬が、ほっそりとした首筋が、桜貝のような耳朶が、今や紅葉色に染まっている。

 そんな夕陽の今にも消え入りそうな頼りなく弱々しい、庇護欲をそそらされずにはいられないその風情に、由布院楓は妹の魅力にこれ以上抗い続ける事の無意味さを知った。




「決めました、わたくし。もう誰にも、何にも言わせません。夕陽さん、あなたと真陽さんのふたりを、わたくしの妹として由布院に迎え入れます。これは決定事項ですので、覆る事はありません」




 由布院楓は夕陽の膝裏を左手ですくい上げて抱き上げると、湯槽を後にする。

 



「そ、そんなのズルい、楓姉さん。今のおれは、姉さん一色に染められてしまっているのに。断れるはずないの分かって言ってるよね」




 由布院楓はその言葉に深い満足感を覚える。

 霊糸を通じて、ふたりの心は確かに重なり合い、ひとつになった。

 それぞれの、知識、思考、性格、価値観を共有し、足りない部分はそれを補うように、インストールされ、リライトされ、デバックされ、何度もロードを繰り返した。

 その結果、由布院楓は夕陽の心に、夕陽は由布院楓の心に、相互に影響しあって、別人とまではいかないが、新たなるパーソナリティを獲得する結果となっていた。

 言うまでもないがこのケースでは、夕陽の言葉を例に紐解くまでもなく、精神的に優位にあった由布院楓の影響を夕陽の側が多大に受ける結果となっている。

 それは生まれながらの姉妹にも何ら劣る事のない、魂の共鳴。

 由布院楓の、真陽に対する時間のハンデを一瞬にして詰めた、凝縮された時間の共有。

 これから先も、夕陽をさらに自分の色に染めていけるであろう未来を思い描くと、由布院楓は抑える事のできない愉悦を覚えずにはいられない。




「ね、さっきの言葉は本当?」


「何か、言いましたでしょうか? わたくし」


「月を、堕としてみせるって言ってた」


「聞こえていたのですか……お恥ずかしい。わたくしも、よほど頭に血が上っていたようですねえ。ですが、月ですか? そうですねえ、夕陽さん、あなたがそれを真実望むなら今すぐにでも堕としてみせましょうか。月の存在が、あなたの心持ちを不安にさせ、落ち着きを失くさせてしまうのなら。あのようなただの石の塊など消えて失くなってしまえばいいのです」


「本当に? 月を堕とすなんて、そんな事できるの?」


「夕陽さんが、そう望むのであれば」




 さも何でもない風に、由布院楓はさらりとそう繰り返す。

 それを聞いた夕陽は照れくさそうに目を細めると、顔を伏せて潤んだ瞳を隠そうとする。




「姉さんなら本当にしそうだね。敵わないな、姉さんには。そんな事されたら地球に天変地異が起きてしまうよ。月の引力が失くなれば、かなり大きな影響が出そう。姉さんにそんな悪魔じみた真似させられない。いいよ、本当の姉妹になっても。由布院の籍に入るのも真陽さえ許してくれるなら、おれは構わない。安曇野の姓を名乗る事まで許してくれるなんて、姉さんの気持ちが嬉しくてもう何も言えないよ」




 由布院楓は総桧造りの湯殿に場所を移すと、洗い場の鏡の前に置かれた小さな木製の椅子バスチェアに、夕陽を抱きかかえたままで腰を降ろす。 

 操たち三人の側仕えたちが、慌てて夕陽の世話をしようとしたが、由布院楓はそれを綺麗に無視すると、彼女を膝上に乗せたままその身体を洗い始める。

 用意されていた、ボティソープやシャンプー、トリートメントにコンディショナーは、何故か夕陽が普段から使っている、元々は双子の姉である真陽が愛用していたブランド品で、彼女はそんな些細な部分の細やかな心遣いに、自分に対する由布院楓の想いを改めて思い知る。

 とりとめもなく、そんな事を観察していた夕陽の余裕はしかし、すぐに消え失せてしまう。




「姉さ……っ? ちょっと待っ……て、何か変っ、くすぐっ……っ」




 夕陽は自分の肌が以前と較べ、あまりにも異質な物に変化しているという事実を、再び思い知らされていた。

 退院の際の、着替えの時にも感じた事だが、あまりに敏感すぎるのだ。

 まるで皮膚のすぐ真下に神経が通っているのかと思う程に、刺激とは到底呼べないような微弱な感覚にさえ、背中が仰け反るような反応をしてしまう。


 肌を撫でるソープの泡が、肌を伝う水滴の流れが。


 由布院楓の手によって、夕陽は赤子のような仰向けの態勢で全身をくまなく綺麗に洗い流されると共に、その間もずっと絶え間なく与え続けられている刺激には到底逆らえず、いいように弄ばれてしまう。




「姉さんっ……姉さん、は、平気なの? そう、いえば……胸の大きさも、全然違うし……っ。身長だって、違う……のは、どうしてっ?」


「ご心配なく。間もなく訪れるはずの初潮を無事迎えれば、夕陽さんの身体も成長期に入ります。すぐに、他の姉妹たちのようになれますよ」




 嬌声まじりの夕陽の声に耳を傾けながら、由布院楓は手を休める事なく、シャンプーのすすぎ洗いまでを終わらせる。

 トリートメントを髪に馴染ませ、最後にコンディショナーで髪の調子を整えると、手櫛で夕陽のまだ短い髪をまとめて後ろに流す。

 蒼く、白い月明かりが、濡れた髪の水滴に乱反射して、キラキラときらめいている。

 月の化身にしか見えない白の妖精が、最後にほっとひと息吐いたその様子が、この上もなく色めいていてひどく艶めかしい。

 そんな夕陽の悩ましげな表情を数瞬の間、じっと見つめていた由布院楓が、やがてぽつりと呟いた。




「決めました」


「え……ま、また? 何を、決めたの」




 夕陽は未だ息も絶え絶えの様子だったが、由布院楓の膝上に抱かれた状態のまま、うっすらと開いた瞳でぼんやりと姉を見上げていた。

 由布院楓はそんな夕陽の膝裏を左手ですくい上げると、彼女を再び胸元に抱き上げながら立ち上がる。




「今宵は夕陽さんの一族への御披露目は取り止めにします。西の院にわたくしも泊まり込む事にしますので、食事をふたり分用意しなさい。夕陽さんの分は胃に負担のかからぬよう、軽めのもので」


「お、お館さま!? そんなっ、選挙を控えていらっしゃる身で、無理を押して急遽集まってくださった議員の先生方も少なからずいらっしゃいますのに」




 慌てたのは三人の側仕え達だった。

 三人、もつれ合うようにして由布院楓の背中の後を追い、先の言葉の撤回を求めて口々に言い募る。

 宴を今さら取り止めるとなれば、様々な障害が起きるであろう事は、想像するに難くない。

 何より正殿にはもう一族の大半が揃っている頃合いで、皆が夕陽の尊顔を拝するのを今や遅しと待ちかまえている状態なのだ。




「勝手に押しかけて来られて、ただ迷惑なだけですから。保身と点数稼ぎが仕事の者達に、こちら側がつき合う義理などありません」


「ですが、奥の院さまもぉ何とおっしゃるか。お考え直しくださいませぇ」




 冷ややかな由布院楓の態度に怯みそうになりながらも、操たち三人はさらに追い縋る。




「月齢が満ちるまでには、後数日あります。女郎花もそれまでは、おとなしくしているでしょう。ですからしばらくは、わたくしが夕陽さんを独り占めに……いいえ、女性としての日常生活に不自由しない程度には面倒を見てさしあげなければ」


「無理をおっしゃらないでください、お館さま」




 最後までしつこく迫る手毬を完全に無視をすると、由布院楓は不意に夕陽に向かって問いかける。




「学校、早く行きたいですよねえ? 夕陽さん」




 微笑みかける由布院楓に向かって、夕陽がこくんと頷いて見せた瞬間、その場の形勢は決した。

 操を始めとする側仕えたちに、夕陽の意向に逆らう選択肢などあり得るはずもない。

 始めから無駄な抵抗だった事を思い知らされた彼女たちは、がっくりと一様に肩を落としたのだった。



 

らちもない……」




 嫣然とした微笑を口唇に浮かべ、由布院楓は満足げにそう呟いた。




 いつもMTFのご愛読ありがとうございます。ひさしぶりに次回の予告です。

 

 次回の、「幕間3夕陽と女郎花」を以て、現在の由布院楓編は一応の区切りを迎えます。

 今後は、いよいよ学園編へと突入していく予定です。

 残る始祖の十人たちに、ようやく名前を名乗らせてやれそうです。

 ながらくお待たせしてしまって、たいへん申し訳ありませんでした。


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