7─1傷(トラウマ)
その時、月明かりを映す水面に一匹の蝶が枯れ葉のように、羽を散らし、鱗粉を散らすと、はらりと落ちて波紋を広げた。
蝶は描かれた五芒星を滲ませながら白の和紙札に戻っていき、やがて湯槽の底へと揺らめきながら沈んでいく。
湯槽の外。洗い場の片隅に立ち、三人横に並んで控えていた操たちが一斉に気色ばむが、由布院楓は全く動じる気配も見せずに落ち着いた声で応える。
「お館さま……っ」
「分かっています。二対一とはいえ、四季相手に胡蝶の舞を使わせるまでにやれるとは、やはりかなりの拾いものでしたか」
由布院邸の露天風呂は自然石が組合せられた湯槽が、枯山水の庭園に、灯籠、東屋、茶室等と共に絶妙な位置に配置された実に風流な景観を誇る。
庭園内にはまた、屋根の付いた本格的な総桧造りによる湯槽も備えられている。
それらはいずれも結界により幾重にも隠匿され、女郎花の許可を持たない邸の関係者以外の者には、誰の侵入を許す事もなければ、その正確な位置さえ知られる事はない。
「はぁ……夕陽さまが絶対安全な場所にいらっしゃるからって、遊びがすぎるから手痛いしっぺ返しを受けるんです、頭は」
「四季には四季なりの考えがあっての事です、操。実際、先に姿を消していた暁をも炙り出したのですから、一概には責められません」
「は、はい……っ。申し訳ありません」
溜息混じりに何気なく洩らされた操の言葉を、由布院楓が咎めた。
四季と相対している時とは違って、操はまだ素直な様子で頭を下げる。
「朧と暁、この由布院の敷地に迷い込んで来る事自体、何がしかの縁があるのでしょう。年頃もこれでちょうどよくなった事ですし、揃ったようですねえ……女郎花の言葉どおりに、夕陽さんの護衛役が全員。操がいればリハビリも時間の問題ですし、後は復学のタイミングだけですが……」
「夕陽……学校、早く行きたいな」
思考の淵に沈みかけていた由布院楓の意識を、夕陽の甘い響きを帯びた声が呼び戻す。
「お目覚めになりました? 夕陽さん。少し提案があるのですが、聞いてくださいますか?」
「なあに……?」
由布院楓が目を弓なりに細めて、膝の上に乗せた夕陽の身体を抱き直すと、彼女は赤子のように、姉の着痩せする豊満な胸許に顔をうずめる。
「まず始めに、お身体の調子はいかがですか? 何処か気になる点はございませんか?」
「んーん。全然平気」
「それはようございました。では、本来夕陽さんが松葉杖や車椅子を必要としなくなるまでに、あと十日前後はかかるはずだったのはご存知ですか? 今こうして、夕陽さんが自由に動けているのは操の存在があればこそなのです」
「んーん。そんなの知らない」
「芙蓉のお姉さまからは、何も聞いてはいらっしゃらないのですか?」
「ん。全然何も。でも、芙蓉のせんせい好きっ」
「……芙蓉のお姉さまは素敵な方ですからねえ。何より、落ち着いてらっしゃいますから」
身体を起こして見上げてくる、無邪気な夕陽の言葉に、由布院楓の瞳がめずらしく揺れた。
夕陽はそんな小さな姉の変化に気付くはずもなく、さらに続けて弾んだ声をあげる。
「レイも好きっ。曲、いっぱい知ってるよっ」
「レイ? ああ、朱理と恵那ですか。あのふたり、姫の地位向上の為にと言って広告塔を買って出るだけあって憎めない性格なんですが。わたくしの姉を名乗るのでしたら、もう少し落ち着いてくださるとよろしいのですがねえ」
とうとう身振りまで加わり始めた夕陽の様子を、複雑な表情で見つめる由布院楓に、操たちは内心非常に驚くが、もちろんそれを表情に出したりはしない。
「だけどねっ……」
夕陽はそこで言葉を一度区切ると、由布院楓の瞳を覗き込んで、にっこりと邪気のない笑顔を浮かべた。
誰もが見惚れてしまう程の、穢れを知らない澄んだ夕陽の瞳に、由布院楓の心はまるで思春期を迎えた少女のように高鳴ってしまう。
「楓お姉ちゃんは、もっともっとだあい好きっ」
さらに追い討ちをかける夕陽の殺し文句に先に陥落したのは、脇で控えていた三人の側仕えたちだった。
喉を詰まらせたような音がふたつ続いた後、小毬の焦りを含んだ声が湯殿に響く。
「手毬ちゃん、手毬ちゃんどうしたの。鼻を押さえたりして? ああっ、操ちゃんまでっ」
騒ぎを横目に、かろうじて態勢を立て直した由布院楓は、夕陽の瞳から逃れる為に、鎖骨のくっきり浮いたまだ生まれたての華奢な身体をそっと抱き寄せる。
「何か、怖い夢でも見ましたか? 退院の時と同じく、また甘えん坊の夕陽さんに戻ってしまわれましたねえ。素直な方は好きです、わたくし。可愛い妹に、甘えられるのも嫌いではありません。ですが、これは……PTSDによる、フラッシュバック? 幼児退行されているのでしょうか」
最後近くの言葉は呟くようにして考え込んだ由布院楓の様子に、自分から関心が離れてしまう事が嫌なのか、夕陽は姉の思考を遮るかのように言葉を繋いだ。
「ね。さっきのお話しの続き、もっとして?」
少し身を引き気味にして、軽く右に小首を傾げ、上目遣いに見つめてくる夕陽の可愛らしいおねだりを、由布院楓が拒めるはずもない。
「今の状態の夕陽さんでは、何処までわたくしの真意が伝わるかは分かりませんが、だからこそお話しておくべきでしょうか? あなたの隠された本音が知りたいのです。素直なお気持ちを聞かせてください」
「夕陽、難しい事はよく分かんない」
由布院楓のほつれた髪で戯れ始めた夕陽の仕草に、くすりと微笑を洩らす。
これまで無縁だと思っていた、母性愛とも、恋愛感情ともつかない、不確かでありながら心の奥底から湧き上がって来るような想いが、今は無性に心地よく感じられる。
由布院楓は未知なる自分自身と、今初めて対峙していた。
「さして、難しい話ではありません。あなたのお姉さま……真陽さんの意識ですが、芙蓉のお姉さまが治療を引き継ぐ事が決まった今、そう遠くない時期に回復されるのは間違いないでしょう」
「…………っ。真陽なんか大嫌い。夕陽を置いて、パパやママと一緒に行っちゃうつもりなんだ。だから目を覚ましたくないんだ」
「それも、もう終わりです。むしろ問題はリハビリ面で、真陽さんは脊椎の損傷が酷いらしく、このままではお目覚めになられても寝たきりの不自由な病床生活が長引く事が間違いないそうです。最悪の場合、下半身不随も覚悟されなくてはならないとか。こればかりは、医学界で神の領域と称される、芙蓉のお姉さまだけが成し得る事のできた超高高度医療でさえも限界があるそうなのです」
「…………」
「そこで、お目覚めになった真陽さんを由布院でお預かりして、操の兄……操人を側に付けようかと今考えているのですが、いかがでしょうか? 夕陽さん程の動きはとても望めないにしても、おそらくは日常生活にそう不自由しない程度には動けるようになるはずです。それは世界中何処を探しても、この由布院でのみ可能な……あえてこう申しますが、希少価値のある技術なのです」
「由布院で……だけ?」
本来なら夕陽はこの場面で、かねてより抱いていた疑問について、納得いくまで質問するべきだったが、幼児退行している今の夕陽は、幸か不幸か現状で直面してしまっている現実については現実として、あるがままに受け入れてしまっていた。
由布院楓の言葉の内容を理解する程度の知識と知性を維持してはいるものの、それを使いこなすまでには至らない状態にある。
「いかがですか? いっそ、この邸にこれからずっとお住みになられたら。わたくし、由布院楓があなたたちの身元引受人に……いいえ、おふたりさえ宜しければ正式な家人として由布院に迎え入れる用意もあります。安曇野の姓を棄てろとは、わたくしも申しません。普段はそう名乗って頂いても結構です。それでも由布院の名の力は絶大で、義理とはいえわたくしと姉妹の契りを結んで頂ければ、これから先の何不自由ない暮らしと、この世のいかなる災厄からもおふたりを守り抜く事をお約束します」
由布院楓はできるだけ押し付けがましくならないよう、細心の注意を払って最後までそう言い終えると、息を詰めて夕陽の答えを待つ。
「かじんって、何?」
「家族の事ですよ、夕陽さん」
「楓お姉ちゃんが、夕陽を家族にしてくれるの? 何で?」
「あなたの事が好きだからですよ、とても大事に思っています。あなたの為になら、例え他の始祖の十人を敵に廻す事になったとしても後悔はしないでしょう」
抱き締める由布院楓の腕に、やんわりと力が加えられ、夕陽は軽く身じろぎをするが、それでも逃れようとする気配は微塵も見せずに、姉に逆らう事なくされるがままに任せている。
夕陽もまた、由布院楓同様に今の状態を心地よく感じ、ふたりが共有しているこの時が永遠に終わらない事を願っていた。
静かな時が、ふたりの間に緩やかに流れていたが、事態はこの後急変する。
「好き? 姉さん、本当に夕陽の事が好き? ずっと夕陽の側にいてくれる?」
「もちろんですとも。夕陽さんがそう望んでくださるなら、ずっと側にいます。むしろ、こちらからそうお願いしたいくらいなんですが」
「でも……そんなの無理だよ。家族なんて簡単に壊れちゃう。誰だってみんな、夕陽を残していなくなっちゃうんだ。パパやママや、真陽みたいに……真陽なんか、生まれた時からずっと一緒だったのにっ、死ぬ時までずっと一緒だって言ってたくせにっ。約束破って、夕陽をひとりぼっちにしてるんだ。真陽と同じこの顔のせいで、何時だって怖い思いをしてるのにっ。何時だって酷い目に合ってるのにっ。いらない……こんなっ、こんな女みたいな顔なんていらないっ。もう、誰もそんな目でおれを見るな! 目でおれをレイプするな!」
夕陽の口調が途中から徐々に現在のものに変化していく。
吐き出される言葉の内容も、深刻に、そして苛烈になっていく。
最後には泣き叫ぶようにして、喉を掻きむしろうとする。
「やはり、抑えきれないトラウマがありましたか。落ち着いてください、夕陽さんっ」
我を失った夕陽の耳には、もはや由布院楓の声も届く事なく、強引に腕を振り払って、立ち上がりながら逃れようとする。
「放せ! こんな顔の皮なんか剥ぎ取ってやるんだ!」
霊糸から伝わる、夕陽の千々に乱れた感情の影響をもろに受けた操が悲鳴をあげ、片膝を付いた。
操の感情は荒れ狂う波に呑み込まれ、ズタズタに寸断される。
傷だらけになって剥き出しにされた操の原初の感情を、さらに夕陽が感知すると、最初とは比べものにならない程の大きな情動となって激しさを増していく。
それは、歪な感情のループ。ハウリング現象にも似た、無限の連鎖。
傀儡操者たる操の能力が完全に裏目に出てしまい、音叉の姫君たる夕陽の能力の暴走を加速させてしまっている。
つい先刻、由布院楓が示した杞憂もそのままに、今まさにそれが現実のものとなっていた。
「操、おまえの霊糸、一時わたくしが預かります!」
「でっ、ですがお館さまっ」
「二度は言わないと、そう言ったはずです! 事は急を要するのです! おまえでは、負に陥ってしまった音叉の共鳴螺旋から、夕陽さんを救い出せない!」
由布院楓は湯槽から飛沫をあげて立ち上がると、操には振り向きもせずに、夕陽の手前にある、何もない空間に向かって腕を振るう。
張り詰めた糸が切断されたかのような音が幾重にもかさなり辺りに響くと、琴の音色にも似た旋律が周囲一帯の空気を震わせた。