1─2目覚めし時
とろけるような、甘く囁くシュガーボイスが耳朶をくすぐった。
「ねえ。夕陽ちゃん、うなされてるみたい」
「可哀想、よっぽどショックを受けたのね」
右の瞼に冷たさが心地よい誰かの細い指先が置かれると、そっと目尻に向けて拭われた。
左の瞼にはマシュマロみたいに柔らかな別の誰かの口唇が触れ、ちゅっと小さな音を立てる。
「あ、花織ずっるーい」
「何よー、菜摘。あんたもすればいいじゃない」
「言われなくたって」
「ほら、涙零れちゃうよー」
再びちゅっと何かを吸う音がして、夕陽はそれが自分の涙なのだとようやく気付く。
どうやら泣きながら眠っていたようで、誰かが溢れ出る涙を口唇で吸い取ってくれたらしい。
その濡れた何処か淫靡な響きと、むせかえる程に漂う甘酸っぱい柑橘系の匂いが、夕陽の胸を妙に落ち着きなく、ざわめかせた。
さらには患衣越しに感じる、左右の二の腕を抱え込むようにして押し付けられている、柔らかなふくらみが形を変えるたびに、頬がかぁっと熱くなり、呼吸が乱れ息苦しくなる。
同時に、ベッドで眠る自分の身体を挟むようにして、両脇に寄り添う人の気配に戸惑いを覚えた。
それが誰なのかを確かめようと、瞼をそっと開けて様子を伺ってみる。
「あ、夕陽ちゃん、目が覚めた?」
「葵姉ー、夕陽ちゃん気付いたから診てあげて」
天使がふたり、そこにいた。
双子よりも遥かにそっくりな、鏡像と実像の関係にも似た全く同じ二つの顔が、左右シンメトリーに上から夕陽を見下ろしていた。
地上に降りた天使を具現化したとしか思えない存在が、お互いの吐息を感じるくらいの間近で、夕陽に向かって優しく笑いかけてくれているのだ。
「レイが、ふたり……?」
彼女たちは夕陽がこれまでに見た、誰よりも可憐で美しく、そして魅力的だった。
それもそのはず、夕陽の目の前にいるのは、この数十年間トップアイドルの座を誰にも明け渡す事なく守り続けているライバル不在の女王――水無月黎だった。
絹糸のように艶やかな髪は、蜂蜜にも似た琥珀色に染められ、豪奢に波打ちながら腰の辺りまでを覆っている。
くっきりとした二重瞼に長く震える睫毛、潤んだ瞳は灰色で、こじんまりした鼻にふっくらとした深紅の口唇。
関節の存在をまるで感じさせないしなやかで華奢な身体を、細かなレースとフリルをふんだんにあしらった白のシフォンワンピースに包む姿は、精緻なアンティークドールのようだ。
人工的な造形美にも勝る華やかさと共に、そこはかとない色気が醸し出されている様はまさに絶妙なバランスで、夕陽の瞳を捉えて離さない。
「本物? どっちがレイ?」
ふたりのレイは、その愛らしくつぶらにきらめく灰色の瞳を全く同じタイミングで細めると、慈愛に満ちた視線を夕陽に落とした。
彼女たちは、ふふっと含み笑いを小さく洩らすと、甘いシュガーボイスで交互に囁く。
「どっちも本物だよー、夕陽ちゃん」
「でもね、ふたりだけでもないんだ」
その言葉の意味を推し量る間もなく、夕陽が横になっているベッドの上半身側が静かに角度を変え始めた。
夕陽から見て左側の少女が、ベッドサイドにあるコントロールパネルを操作して、ベッドのリクライニング機能を起動させたのだ。
微かなモーターの駆動音とギアが噛み合う小さな振動が、夕陽の背中に微かに伝わってくる。
ふたりのレイはベッドの動きに合わせて、ゆっくりと身を起こしていく。
夕陽の視界が徐々に天井から移動していくと、ベッドの足許側に誰かがもうひとり佇んでいる事に気付いた。
「レイ……っ」
そこにいたのは三人目のレイだった。
「芙蓉だ、夕陽くん」
「――――っ?」
「今後は、葵と呼んでくれ。気分はどうかね? 催眠鎮静剤の効果がまだ残っているだろうから、若干だるいかもしれないがわたしが側にいる。きみは何も心配しなくていい」
夕陽は目の前の状況に思考が追い付いていかずに、様々な感情で胸がいっぱいになる。
同じ室内に揃う天使の容姿を持つ三人は、どう見てもトップアイドルの水無月黎にしか見えなかった。
夕陽の主治医を名乗る芙蓉葵だけは、瞳と髪の色など細かな差異があるが、間近に見るその姿はやはり同一人物としか思えない。
だが、夕陽が真に驚愕するのはここからだった。
芙蓉葵の言葉どおりに催眠鎮静剤の効果が残っていなければ、再びパニック状態に陥っていたに違いない。
「ふうん? めずらしいじゃん、芙蓉。あんたが下の名前で呼ぶ事を許すなんて」
「全くだわ。朱理といい恵那といい、やけにご執心ね。まあ、気持ちは分かるけど」
白衣のポケットに手を突っ込んだまま佇み、取り澄ました表情を崩さない芙蓉葵の背後から、くすくすと笑い声が起きた。
タイミングを同じくして、夕陽の背中に伝わっていたモーターの駆動音とギアが噛み合う振動が止んで、ベッドのリクライニング機能が停止する。
視界に入る予想外に豪華で、リゾートホテルの一室のような病室に驚く暇もなく、夕陽の思考は千々に乱れた。
芙蓉葵の背後に、さらに七人のレイがいたからだ。
彼女たちは室内の思い思いの場所に位置取り、皆がそれぞれに夕陽に向けて柔らかな視線を送っていた。
「歓迎するよ、安曇野夕陽。千人目の妹姫。わたしたちは“Project.KAGUYA”創設メンバー、始祖の十人だ」
お待たせしました。遅くなりましたが、第二話です。今後はなるべく十日以内に一話更新のペースで行きたいんですが、遅くなっても見捨てられないよう内容でも頑張ります。
執筆の励みになりますので、夕陽共々、作者の方も応援よろしくお願いします。