幕間2月下の迷宮
厳島神社を何処か連想させるようにして、湖のほとりに建てられている由布院の邸は、平安時代発祥の高床式寝殿造りと呼ばれる建築様式を、現代風にアレンジした設計になっている。
それでも、竣工は明治初期にまで遡る為、元々の朱塗りを多用した絢爛さと、侘びや寂びと呼ぶに相応しい、充分な時を重ねただけの風合いを同時に醸し出しているのだが、不思議な事に未だ老朽化の気配が忍び寄る様子は微塵もない。
その基本構造は建屋の中核を為す主殿を中心に、正面入口側を起点にして時計廻りに表の院、西の院、奥の院、東の院という名の独立した建屋がぐるりと取り囲む。
その配置は方位学的な見地から、主に鬼門を避ける目的で、東西南北の正確な方位からは僅かばかりずつズラされている。
それぞれの建屋は、基本的には何れも決められた主が全てを差配する権限を与えられてはいるのだが、それらを含む由布院の全てを司るのが、表の院と主殿の主たる由布院楓だった。
表の院に対する奥の院、東の院に対する西の院は、たがいを合わせて対屋として扱われる事も多く、特に夕陽を西の院に迎え入れた今では、女郎花が永らく不在にしていた東の院に戻るのではという期待の意味も込められて、東の対、西の対との呼び方をする者が使用人たちの間で増えてきていた。
各建屋は主殿を構成する一辺よりもやや長い程度で、建屋同士の連絡と主殿への行き来には、それぞれに繋がれている渡殿と透き渡殿と呼ばれる回廊を利用する。
米国国防総省庁舎ペンタゴンを、スクエアに構成し直した建屋を想像すれば、由布院邸の構造上の外観イメージからはそれ程遠く外れる事はない。
◇ ◇ ◇
朧はもうかなりの長い刻を、由布院邸の中で彷徨い続けていた。
予定では早々に暁を喚び出した後に、この邸を後にする目算だったが、それは未だ叶わずにいた。
それどころか、何時の間にか後を追われてしまっている事にも気付いて、思わず舌打ちをする。
追跡者は執拗で、気配を完全に消しているはずの朧の背後をつかず離れず、その存在を隠そうともせずに追ってくる。
その事実から、朧は姿を見せない追跡者の実力をかなり高めに見積もった。
甘い予想はしない、彼我の実力差を見誤れば、待っているのは死あるのみだ。
朧はこれまで、そういう世界で生きてきた。
「くそっ、これだけ動き回ってどうして誰とも出会わない」
朧は忌々しげに吐き捨てると口唇を歪める。
事態の打開を図る為には人質を捕る事も厭わない朧だったが、これだけの広大な邸であるにも関わらず、使用人の姿をひとりとして見ない。
このまま持久戦に持ち込まれてはジリ貧だった。
地の利を考えても、主導権は完全に追跡者側が握っている。
暗い方、暗い方へと逃れてきたが、それすら敵の罠に思えてくる。
朧にすればどうにも分が悪く、彼女は決断の時に迫られていた。
「仕方ない、やるか」
体術も人並み以上にこなす朧は、追跡者を迎え撃つ決意を固めると、その後の行動を素早く起こす。
不意をつき、迷宮のような通路を一気に駆け抜け手近な角に飛び込むと、追跡者を誘い込む。
朧は和服の前裾を捌くと、後を追ってくる気配に向けて、振り向きざまに鞭のようにしなり、身体に巻き付く回し蹴りを放つ。
それは絶対に避けられない、一撃必倒のタイミング。
「おお、怖い、怖い。いきなりご挨拶だねえ」
だが、飄々としたその声は、ありえない事に朧の背後から聞こえてきた。
「バカな……っ」
朧は自らの攻撃が空を切った事に信じられない思いで振り向くと、そこには緋色の和服を婀娜に着こなす四季が、男を誘う遊女のように両の肩をすとんと落として、全身から力を抜いた隙だらけの艶やかな姿で佇んでいる。
実力のない者なら迂闊に四季の間合いに飛び込んで返り討ちに合ってしまうだろうが、朧はそんな愚は犯さなかった。
慎重に間合いを計って、距離をとる。
「確か朧さん……でしたか。そんなに急いだ様子で一体どちらへ? 何か要りようなものがあればわちきが承りますが? 誰の許しも得ずに、勝手に邸内を動き回られては困っちまうんですがねえ」
「だったら牢にでも入れおけ。武器を取り上げただけで部屋に鍵も掛けず、監視も付けずにいれば、誰だって逃げる事を考えるだろう」
嘲りを含んだ朧の答えに、まるで見えない何かにしなだれかかっているかのような姿のままでいた四季の雰囲気は、ただならぬ色香を漂わせながらもあくまでも飄々としている。
この状態の四季から危険な匂いを感じ取れる朧もまた、ただ者ではない。
「逃げられやしないよ、この邸からはねえ。勘違いしてるようだが、これはあんたの為に忠告しているんだ。この邸内でもまた、迷い人になりたくないなら大人しくしているんだね。何年も行方知れずになって、亡骸になってから見つかるなんて事になりたくはないだろう?」
「何を言ってるんだ、おまえ。阿片でもやっているんじゃないだろうな?」
「なあに、そんなに構えなくてもいいんだよ。これはただの昔話さ。浦島太郎って知ってるかい?」
「浦島伝説くらい知っているが。それがどうした」
「察しが悪いねえ、その浦島太郎みたいにはなりたくないだろうって、わちきは言ってるのさ」
「…………」
「この邸はねえ、さしずめ浦島伝説の竜宮城なのさ。いや、由布院に敵対する者にとっては、あれより余程たちが悪いかもしれない。種も仕掛けもない絡繰り邸みたいなもので、何処の時代や空間に繋がっているかもしれない陥穽が、至る所に転がっている迷宮みたいなもんなのさ。例えばあんたが今曲がったばかりのその角の向こうは、もうあんたがさっき通ってきた廊下とは、違う時空に繋がっちまっているかもしれないんだよ」
世間話でも語っているかのような軽い口調だったが、四季が紡ぐ言葉の内容は衝撃的で、朧はしばし言葉を失った後でようやく口を開いた。
「バカな……浦島伝説は事実だったとでもいうのか? そんなの信じられる訳があるか」
「常世やニライカナイのまほろば伝説は信じて、浦島伝説は信じられないってのかい? ただの昔話だって? とんでもない。だったら龍宮伝説と言い換えてもいいさ。根はみんな同じ他界信仰から来てるんだよ。信仰ってのはねえ、ただの妄想ばかりじゃないのさ。それに、あんたはもう既に、玉手箱を半分開けちまっているってのに」
「玉手箱だって?」
「まだ気付いてないのかい? 自分の今の姿形をようく確かめてみな。帯だってもうすっかり緩んじまってる。和装でなければ、すぐにでも自分の身に起きた変化に気付いただろうに。おそらくは、声も変わっちまっているんじゃないのかねえ?」
朧は自身の姿を見下ろし息を呑んだ。
手足はすらりと長く伸び、胸の辺りは膨らんでいるのか僅かに隆起している。
どうやら髪も長くなっているらしく、まとめてあった髪が乱れて、ほつれ毛がひと房、ふた房、はらり、はらりと肩口から垂れてくる。
四季が指摘するとおり、着物の丈も身頃もまるで合っていない。
確かに帯が緩んでいなければ、相当に窮屈な思いをしていただろう。
着物が縮んだ訳ではなく、自身が成長したのだとすぐに気付きはしても、そう簡単に受け入れられる事実ではない。
朧は長い時をかけて、肺からの空気を搾り出すようにして呻いた。
「こ、これは…………っ」
声も意識して聞いてみれば、以前に較べ、若干ではあるが大人びた響きに変化している。
「どうだい? えらく女っぷりが上がってるじゃないか。夕陽さまには到底及ばないが。それでも大体同じ年頃くらいにはなったかねえ。その程度で事が済んで運がよかったよ。下手すりゃ、皺くちゃのばあさまになっちまってた処だ。でもこれで分かったろう? この邸内をひとりで勝手に動き回る愚かさが」
「おまえ、何者なんだ? おまえも何か術を使うのか?」
「わちきかい?」
未だ完全には立ち直れてはいない朧に向かって、四季は恭しく腰を折る。
それでも慇懃無礼な態度にならないのは、さすが由布院本家の女中頭だったが
、名乗りを上げる四季の言葉はそれだけには留まらない。
「これは申し遅れました、わちきは由布院女房方取りまとめ役、女中頭を務めさせて頂いております、四季と申します。と、まあそれは表の顔でねえ、現世から迷い込んできた鼠を駆除する役目も仰せ遣っているのさ。さて、そこで訊かせてくれるかい? 朧と暁、あんたたちは保護すべき迷い人か、恩知らずの薄汚いどぶ鼠の一体どちらなんだい?」
四季の挑発めいた言葉に対する朧の答えは、そっけないものだった。
「どちらでもないさ、わたしたちふたりはただの傭兵だ」
「傭兵だって? こいつぁ驚いた、お館さまのお見立てが外れるなんて。とてもじゃないが、言葉どおりには受け取れないねえ。大体、いつの時代かは知らないが、傭兵にしては学もあるし、えらく忠義じゃないか。敵も味方もない藩主の為にこんな時の狭間にまで流れてくるなんざ。それもまあ、死に損ねたあげくの偶然の産物なんだろうけどさ。けれど、それにしてはえらく往生際が悪い。鉄の駕篭、リムジンを奪おうとしたばかりか、うちの大事な姫君さまに手をかけようとまでするなんざ、全く許し難い話だよ」
「必死にもなる、わが藩は今の戦で敗色濃厚なのだ。負けてしまえば、今までの禄の回収ができなくなるばかりか、明日からの食い扶持にも困ってしまう」
「それでかい。主君……雇い主がいなくなれば相手が戦意喪失して言いなりになると思い込むなんざ、確かに傭兵の発想だけどねえ」
「勝手な事を言ってくれるじゃないか」
歯軋りが聞こえてきそうな表情で、朧は言葉を吐き捨てる。
そんな朧の神経をさらに逆撫でするかのように、四季の挑発は続く。
「まあ仮にあんたらふたりが、幼いながらもいっぱしの傭兵とするなら、主君とは餌をたらふく食わせてくれる相手か、そうでないかの違いでしかないんだろうねえ。忠義を尽くすのは食う為で、米倉の米を食いつぶすしか能がないなんざ、どぶ鼠とさして変わらないさ。連中でさえ、数に頼めば船底に穴を開けて大きな軍船を沈めるくらいはしてのける」
「おまえに何が分かるっ」
「分かりたくもないねえ、わちきはこれ以上あんたらの事情って奴には興味がないのさ。いずれにせよ、とんだ無駄骨を折ったもんだよ。あんたらが戻るべき場所なんて、もうとっくに消えてなくなっちまってるだろうに。米倉どころか、田畑の一枚さえも残っていやしないだろうねえ。国敗れて山河ありってやつさ。そんな処に、鉄の駕篭なんざ持って行ってどうするつもりだい? 敵国の騎馬隊に対抗するつもりだったんだろうけどさ、ありゃぁ平地でしか使えないよ? 繰り返すが、あんたらふたりは雇い主には二度と会えないだろう。それどころか、元の国、元の時代に戻れるかどうかさえ定かじゃない──っ!?」
言葉の途切れた四季の口唇から、『ゴブリ』と音を立て、鮮血が溢れだす。
ゆっくりと胸元を見下ろす彼女の瞳に映ったのは、自身の身体を貫通する、血にまみれた一本の貫手だった。
「いい加減に黙りやがれ。それ以上、朧に汚い言葉を吐くのを止めろ」
肩越しに朧よりも幼い姿のままの暁の姿を確認し、四季は息も絶え絶えの様子で言葉を紡ぎ続ける。
「あんたが、暁……かい。ようやく姿を現してくれたねえ……身柄を預けた久沓の元から、姿を消したと聞いて……ずっと探していたのさ……」
「迂闊だったな、暁は目が覚めてからすぐに喚び出し、合流してからはずっと、わたしの影に潜んでいたんだ。何時だって、わたしの一番側にいてくれる」
「ふ……ふふっ。辛抱強く……あんたを泳がせ続けた甲斐が……あったってもんさ」
「何……っ?」
四季の身体の輪郭が一瞬で不確かなものになったかと思うと、次の瞬間には、鮮血は真紅の蝶に、足許からは純白の蝶に、幾百幾千もの数に細かに分裂し、雪崩を起こしたかのように音を立てて全身が崩れ落ちていく。
最後まで崩れず残っていた四季の口唇は、耳許まで裂けたかのような笑みの形に象られていた。
「まさか、暁が式神だったとはねえ。同業者なら遠慮はしないよ!」
紅白の吹雪が吹き荒れ、音を立て、朧と暁のふたりに叩き付けられるようにして降り注がれていく。
口に、鼻に、朧の呼吸器官の全てを、四季の意志が操る吹雪によって埋め尽くされていく。
「あ……か……っき…………っ」
必死に喚んだ暁の名は、もはや声にならない叫びにしかならなかった。
視界もすぐに埋め尽くされ、朧の瞳からは暁の姿はとうに消え失せている。
かろうじて繋ぎ止めていた意識も薄れ始め、いずれ気を失ってしまうのも、後はただ時間の問題となっていた。
今回は予定をちょっと変更して、四季と朧の絡みを書いてみました。
朧と暁が登場した回が分かりにくいとのご指摘をお二方から頂きましたので、早めに伏線を回収した方がよいのではという判断からです。
余計分かり辛くなっていたらどうしよう。
ただ、朧の素性はあくまで仄めかす程度で、これ以上は詳しく書かないつもりです。
彼女に関する情報は今回で必要最小限書いたつもりなんですが、どうでしょうか?
それと、彼女を急速に成長させたのには、もちろん意味があります。その意味については今後の展開を待つ事となります。
つたない作品ですが、いつも応援して頂いて、本当に感謝しています。
評価も含めて、読者の方の励ましがなければ、たぶん前作みたいに途中で書けなくなってしまうでしょう。
今後も頑張りますので、MTFをよろしくお願い致します。