5─1始まりし時
目を覚ますと薄暗い闇の底に、夕陽は横たわっていた。
「何処、ここ? 由布院のお邸? おれ、いつの間にか眠っちゃったんだ……」
夕陽は自らが置かれた状況を今ひとつ把握できずに、檜の無垢材で構成された竿淵天井をぼんやりと眺めながら、目が冴えるのをしばらく待つ。
やがて、周囲の状況を把握しようと頭を巡らすと、どうやらここが床の間と呼ばれる十畳間程の和室であるらしい事に気付く。
床柱と床框による飾り座敷が設けられている方を枕側にして、夕陽は畳に敷かれた布団に寝かされていた。
敷布団は夕陽がそれまでに経験したどんな寝具よりもふかふかで心地よく、掛け布団は羽根のように軽い。
少しでも気を緩めてしまうと、すぐにでも眠りに引き込まれてしまいそうな程の快適さだ。
夕陽はそうしてしまいたくなる誘惑に逆らって、自らの好奇心を満たすべく、身体を起こそうと身動ぎをすると、左側の障子の外から中を伺う声がした。
それまで人の気配がまるでしなかったので、夕陽は思わず両肩をびくりと震わせる。
「お目覚めですか、夕陽さま」
それは夕陽が初めて聴く知らない女性の声で、酒で喉を潰したかのような掠れた低めのハスキーボイスだった。
中性的なその響きはかえって魅力的で、何処か芙蓉葵にも似ている為、夕陽はまだ姿も知らぬその声の持ち主に、無意識レベルで早くも親近感を抱く。
「……夕陽さま?」
「あ、はい。ごめんなさい、今起きました」
「では、失礼してもよろしいですか」
「ど、どうぞ」
心持ち緊張を覚えながら、夕陽がぎこちなく返事をすると、左側足許の障子が音もなく敷居を滑り、室内に月明かりが射し込んだ。
現れたのは色鮮やかな、緋色の女だった。
短めの髪を後ろに流して、後れ毛を油で撫で付けるでもなく、自然のままに任せている。
着付けもやはり同様の印象で、やや崩し気味ながらも、明るい朱色の着物を決して下品になる事なく婀娜に着こなし、色気のなかにも知性を感じさせる容姿と、前裾を片手で捌いて叩首する折り目のついたその所作は、例えは悪いが遊廓の遣り手の女主人や、鉄火場で親分衆を向こうに回して場を仕切る女博徒を連想させる風格がある。
さすがに寝たままでは失礼だと考えた夕陽は、慌て半身を起こそうとするが、身体はやはりまだ重く感じられ、のろのろと自由の効かない自身の身体が酷くもどかしい。
「はじめまして、夕陽さま。わちきは由布院の女房方まとめ役、女中頭の四季と申します。この度は、久しく開かずの間のひとつとなっておりました、西の対に、新たなる主さまをお迎えする事ができまして、たいへん嬉しゅうございます。これで奥の院に籠もってしまわれたきりの女郎花さまも、東の対に戻られるやもしれぬと、お館さまも期待されておられるご様子で、まさに――」
女中頭を名乗った四季は礼を終えて顔を上げると、男好きがするであろう肉厚のぽってりした口唇を開いて、立て板に水の如く喋り始めた。
メタモルフォーゼ以後、低血圧にでもなってしまったのか、どうやら寝起きに弱くなってしまったらしい夕陽には、四季の口調は少し早口であまり日常的ではない内容である事も相まって、いくつかの単語を断片的にしか拾う事ができない。
それでも殊勝な態度を崩す事なく、おとなしく話を聞いていた夕陽だったが、四季の話の腰を思わぬ形で折ってしまう事になる。
“くぅ〜……”
夕陽の腹の虫が可愛らしく鳴くと、ふたりは思わず見つめ合う。
真っ赤な紅葉色に頬を染め、目尻に涙を光らせ、羞恥に震える夕陽は、羽根をもぎ取られた天使さながらの儚さで、四季は視線を奪われ目を離せなくなってしまう。
「…………」
「…………」
「ごめんなさい」
「いっ、いえ!」
右手人差し指の背で涙を拭って、はにかみながらぽつりと洩らした夕陽の謝罪の言葉に、四季はらしくもなくうろたえてしまう。
『何なの、何て事なのかしら、この可愛らしさは。あの娘たちが、羽目を外した気持ちが今なら分かる。この百戦錬磨、常勝無敗の四季姐さんを一瞬で墜とそうとするなんざ、相当手練れの誑しだわ。最強だわ。無敵だわ。やっぱり天然が一番怖いわね、危険すぎる。思わず式の術を使って、攫ってしまいたくなったじゃないのさ』
四季は脳の仮想領域内で呪によるコードを展開し、特定の人間にしか聞きとる事のできない、高速化言語のスキルを無闇やたらに無駄遣いしまくりながら、溢れ出る想いの丈を洗いざらいにぶちまけ続ける。
その間も四季のリソースが言語領域優先になっているせいか、彼女は襟元や髪へとしきりに手をやり、意味もなく整えたり、崩したりする仕草を繰り返す。
目の前の新しく迎える主の、そのとてつもなく愛くるしい様子に、異性のみならず同性への性愛趣味をも併せ持つ両刀遣いの四季は、理性の箍が弾け飛んでしまいそうになる限界にまで、既に追いやられている。
それでも四季は、女中頭の矜持を必死にかき集められるだけかき集めると、夕陽への想いを込めて和かに微笑んだ。
努めて平静を装い、落ち着いた大人の女の魅力を演出するよう細心の注意を払ったのは、誰にも知られたくない四季だけの秘密となった。
「ちょうどようございました。正殿大広間にて、由布院の一族への夕陽さまの御披露目の宴が、今宵この後しばらくして執り行われる予定にございます。それでは、お召し物の着替えをいたしましょうか」
夕陽はその言葉に、自分が朝病院を出た時のままの服装でいる事に気付く。
四季が両掌を軽く二度打ち鳴らすと、彼女の左斜め後ろに、それぞれが衣装盆を持った三つの影が現れた。
「本日ただ今より、夕陽さま付きでお世話をさせて頂く側仕えにございます。さ、粗相のないようしっかりご挨拶するんだよ」
廂と呼ばれる板張りの廊下に衣装盆を降ろし、跪いて叩首しようとした三人の少女たちに、夕陽の弾んだ声がかけられる。
「姉さんから聞いてる! 姉妹の方が、手毬さんに、小毬さんだよね。これからよろしくっ」
「まあ、夕陽さま」
「感激しましたぁ」
藍色に染められた揃いのお仕着せに身を包んだよく似た外見の姉妹が、蕩けるような笑顔を見せる。
夕陽も何故か訳もなくテンションが上がり、思わず布団から身を乗り出そうとした時にそれは起こった。
急なバランスの変化に身体が付いていく事ができずに、夕陽は畳に向かって顔から崩れ落ちそうになる。
その場にいる誰もが息を呑み、声にならない悲鳴をあげた。
夕陽に救いの手を伸ばそうと皆が腰を浮かせたが、ひとりだけ落ち着きを失う事のない者がいた。
「え……?」
夕陽の鼻先が畳の表面に触れようとした寸前、まるで糸の絡まった操り人形の如く、不自然な姿勢のままに急制動がかかり、床に顔面が激突する直前にぴたりと止まる。
自分の意思とは一切関係なく、時が逆流するかのように重力に逆らいつつ、夕陽の身体は元の半身を起こした姿勢にゆっくりと戻っていく。
「よくやったよ、操。さすが久沓の一族で、兄と並び立つ傀儡操者だけの事はある」
「久沓?」
小首を傾げながらも、既に落ち着きを取り戻しかけている夕陽が四季の言葉に反応すると、自己紹介をまだ終えていなかった、藍色のお仕着せに身を包んだ最後のひとりが姿勢を正す。
彼女は改めて廊下に三つ指を付くと、叩首して挨拶を始める。
「申し遅れました、わたしの名は久沓操。本日運転手を務めさせて頂きました久沓操人の妹です。夕陽さまのリハビリのお力添えになれますよう、この度夕陽さま付きのお側仕えに志願いたしました」
面を上げた白皙の少女の口唇はやはり紅く濡れ、無表情ではあるが、兄と同じく際立った美貌の持ち主だった。