4─1刻まれし時
リムジンの電動式パーティションが、微かなモーター音を立てながら開いていくと、車体は竹林の中の石畳が綺麗に敷かれた一本道を走っていた。
左右の窓外を、密集した青竹の一群が後方へと飛ぶように流れていく。
夕陽がフロントグラスに視線を移すと、竹林の終わりはすぐ間近に迫っていた。
路面はやや下り勾配の緩やかなスロープになっていて、俯瞰気味の視点から前方に拡がる景色を見渡す事ができる。
視界の開けたその先には、澄んだ碧に水面がきらめく湖が見える。
その湖のほとりに建てられている和風建築の荘厳さに、夕陽の視線は思わず奪われた。
水際に展開する趣ある光景は、世界遺産で知られる広島県宮島の厳島神社に似ているが、朱塗りを多用した華やかさ、絢爛さはなく、どちらかといえば京都・奈良等で多く見られる神社仏閣に通じる落ち着いた雰囲気があった。
見る者が見れば、平安時代の建築様式である高床式寝殿造りが後世の建築技術で再現され、建具や水回りなどは現代人が住居として住むに相応しい造りになっている事に気付くまで、そういくらも時間はかからないはずだ。
屋根の上一面には、ソーラーパネルさえ乗っているが、それが建物も含め、周囲の景観を損ねるような事には一切なってはいない。
「スゴ……イ。あれが、由布院のお邸?」
「今日からあなたの家ですよ、夕陽さん」
夕陽は自分の身体に縋るようにして泣いているふたりの背中を撫でてやりながら、リアシートに座っている由布院楓に視線を戻したが、その瞳は戸惑いに揺れていた。
「いいんですか、本当に? あんな立派なお邸の一室が、月五千円なんて。あれじゃ、例え物置部屋でも文句言えない気が……」
「ご冗談を。ただ自宅に帰宅をするだけの相手に、誰が家賃など求めましょうか」
加賀友禅の袖口で口許を隠し、由布院楓は弓形に両目を細める。
「え……だって」
「わたくしに、大切な妹姫から家賃を取れとおっしゃるのですか? それとも、わたくしを姉と呼んでくださった気持ちは嘘偽りだったとでも?」
「そんな……っ、嘘なんかじゃ」
「それでは、一時の気の迷いだったとでもおっしゃるのでしょうか?」
「ちっ、違います。本当に姉さんだと思って」
「でしたら、この話はこれでもう終わりです。よろしいですね」
「あ……で、でも――」
夕陽の言葉は最後まで続く事なく、不意に途切れてしまった。
リムジンのブレーキ・ディスクが、フルブレーキングによる負荷に耐えきれずに上げた、断末魔にも似た金属音によって掻き消されてしまったのだ。
急制動が掛けられた車体は荷重が進行方向に移動し、夕陽の身体もまた前方につんのめるようにしてバランスが崩れ、運転席側に向かって、フロアの上を何の抵抗もできず滑るようにして吹っ飛んでいく。
慣性の法則に為す術もなく弄ばれるままの夕陽は、運転席背面にあるシートに激突する事を覚悟した。
「――――!?」
相応の衝撃を覚悟して思わず目を閉じた夕陽だったが、その瞬間はいくら待ってもやって来なかった。
何らかの干渉が働いて、ほとんど全ての衝撃が吸収緩和された夕陽の身体は、今度はゆっくりとその場に崩れ落ちそうになるが、誰かがそれを抱き止めてくれている事に気付く。
「何事ですか、久沓?」
「申し訳ありません、お館さま。子供が急に飛び出して来たので、少々乱暴な運転になってしまいました」
「子供が? この由布院の敷地に? これはめずらしい。それで、まさか轢いてしまったのではないでしょうね」
「それは大丈夫ですが、念の為に様子を確かめて参ります」
エンジンはアイドリングのまま、重厚なドアの開閉音がして、久沓という名の黒ずくめのスーツに身を固めた長身の男が、車体の後方へと向かう。
夕陽は自分を抱き締めている女性の腕の中で、その様子をぼんやりと目で追っている。
「大丈夫ですか、夕陽さん。そんな身体でシートから立ち上がるのは危ないと、あれ程申しましたのに」
普段通りの落ち着きある“声”が、すぐ耳許でした。
どうやら“声”の持ち主である由布院楓が、身を挺して夕陽を抱き止めてくれたらしい。
だが、夕陽はその事実に、何故だか言葉にできない程の、そこはかとない違和感を抱いた。
「ご、ごめんっ。姉さん(・・・)の方こそ大丈夫? 何処もケガしてない?」
由布院楓の膝の上で抱きつく形になっている事にようやく気付き、夕陽は慌てて彼女から身体を引き離す。
そんな夕陽の様子に自然と目許を緩ませた由布院楓は、首を縦にゆっくりと頷いて見せる。
夕陽はほっと安堵の溜息を吐きながらも、理由もなくふと思い付いたままの言葉を、気付けば口にしていた。
「んっ? えーと、でも、あれ? 姉さん……は、後ろのシートに座ってたんじゃなかった?」
喋りながら夕陽は、自分が酷く馬鹿げた事を口走っているとの思いに苛まれ、語尾が消え入りそうに小さくなっていく。
「まあ、夕陽さん。朝早くからお目覚めでしたから、少々寝惚けてらっしゃるようですね。わたくしは最初から、ここに座っておりますが」
「そう……だったよね。姉さんは最初から(・・・・)前に座ってた。俺が横のシートから姉さんの隣に移ろうとした時に、車が急に停まって――」
その時、シートの上から、藍色の刺繍も色鮮やかな大小ふたつの毬が、夕陽の足許に転がり落ちた。
フロアの上をころころと転がっていく様子を見ながら、夕陽は何故だか胸の鼓動が早くなっていくのを感じた。
まるで夢現の出来事のように、何かが酷くもどかしい。
「手毬と小毬のふたり……は?」
由布院楓のしなやかな手が、夕陽の細い手首をやんわりと掴む。
夕陽自身気付かぬうちに、また喉許を掻きむしろうとしていたのを止めたのだ。
「さっきからそればかりですねえ。そんなにご自分に付く、側仕えが気になりますか? 心配なさらないでください、女中頭の四季は信頼できる人間です。彼女が選んだふたりなら、きっと夕陽さんとよい関係になれますよ。分をわきまえてさえいれば、主従の形にこれといった正解はありません。いかようにも思うとおりになさいませ」
「ふたりは邸で、待ってくれているんだよね」
縋るような、哀願するような表情を夕陽は浮かべている。
まるで自分が望んだ答え以外の言葉を、由布院楓が話しだすのを怖れるかのようだ。
「ええ、そうです。きっとふたり共、夕陽さんの到着を心待ちにしているでしょうね」
「おれも早く会いたいです。ふたりとは絶対に仲良くなれる、そんな気がしてるんだ」
そんな夕陽の言葉にまるで返事でもするかのようなタイミングで、フロアの上で止まりかけていた大小ふたつの毬が、ころんと最後のひと転がりをした。
「お館さま、失礼致します」
運転席を離れていた久沓が、客室のスライドドアを開いて顔を覗かせた。
その腕の中には、ぼろぼろになった絣模様の着物に身を包んだ小さな少女が、ぐったりとして意識を失っていた。