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3─2由布院の邸へ

 リムジン客室キャビンの設計思想は、何よりもまず快適な空間造りが至上の命題とされ、徹底的に追求されている。

 外部の日常的空間から完全に切り離され、ほんのわずかなノイズや振動さえも一切車内に拾う事がなく、走る応接室さながらの内装に仕立て上げられているのだ。

 空調によって車内は適温に維持され、本革シートのクッションに程よく沈み込んだ夕陽の身体は、柔らかに包まれるようにして受け止められている。

 そんな状態では、誰しも睡魔のいざないから逃れるのは難しく、特に体力の落ちている夕陽は何時しかうたた寝を始めてしまう。

 夕陽にとって、ボリュームの絞られたショパンの調べは、まるで子守唄のような心地よさだった。




『――お館さま、よろしいですか?』


「何か? 久沓くぐつ




 華月宮大学付属病院を離れ約一時間が過ぎた頃、ショパンを奏でるピアノの音色が不意に途切れ、16.1chのサラウンドシステムを構成するスピーカーから、運転手ドライバーであろう若い男のバリトンが流れた。

 それに対して由布院楓の、つまり客室キャビン側の音声は高感度マイクで集音されていて、彼女はまるで目の前にいる相手に答えるかのような、静かで気負いのない返事をする。

 その時まで浅い微睡まどろみの中にいた夕陽は、ふたりのやりとりに過剰に反応した。

 ぱっちりと目を見開くと車内のあちらこちらを見渡し、状況を把握すると桜色の頬をほんのりと朱に染め、そわそわと落ち着きのない様子を見せ始める。

 手毬と小毬のふたりはそんな夕陽に気付くと、それぞれに目許を緩め、由布院楓たちの会話の邪魔にならないよう、左右から身を寄せそっと囁いた。




「ご心配いりません、夕陽さま。音楽が流れている間は、あらゆる回線はオフになっています」


「そうです、夕陽さま。先程までの会話の内容の一切はぁ、運転席側には漏れていませんから」


「あっ……そ、そうなんだ? だったら、いいんだけど」




 心の内を見透かされた夕陽は、両肩を小さくすくめると、綺麗に揃えた膝の・・・・・・・・・で両の拳をぎゅっと握り締め、今度は紅葉色に紅くなった顔を隠すようにうつむかせる。

 この時、夕陽は気付いていなかったが、客室キャビン内の赤裸々な会話を聞かれたかもしれないと早合点して、それまで感じた事のない程の強烈なじらいを覚えた対象が、まだ姿も見ぬ“男性”だった事実は、以前までの夕陽自身のメンタリティからすれば考えられない事だった。

 少年だった頃の夕陽なら周りを女性に囲まれた中で、自らの恥部をさらけ出してしまったさっきまでの状態こそが、耐え難きはずかしめだったはずなのだが、今感じているあまりのいたたまれなさは、それとは比べるべくもない。


 肉体的に女性化した結果、異性と同性に対する精神的な認識と距離感が、メタモルフォーゼ以前とは男女反転してしまっているのだ。


 夕陽はまだ自身の緩やかでありながらも、着実に進行している変化に対して、はっきりとした自覚は持っていなかったが、それに気付くであろう時はそう遠くない未来に確実に訪れるはずだった。

 夕陽が意識を客室キャビンに戻すと、スピーカー越しに聴こえる若い男のバリトンが、由布院楓に伺いを立てている。




『入門のご許可を願いたいのですが』


「あら、もうそんな“頃合い”でしたか」


『ただ、少々懸念が。どうやら途中から尾行されているようです』


「そう? 車種は?」




 由布院楓は顎を心持ち上げると、瞳を一本の線で描いたかのように細める。




『赤のシボレーです』


「ああ……あの、あちこちいじくり回してある趣味の悪いオモチャですか。かまいません、このまま奥の院に回線を繋ぎなさい。朱理と恵那のお姉さま方のお遊びに付き合う必要はありません、どうせこれ以上は何も出来やしないのですから」


『御意』




 一拍の間を置いて、由布院楓は何事もなかったかのように、おっとりした口調のままで誰か別の人間に呼びかける。




女郎花おみなえし、聞こえて?」


『――――――』




 聴こえて来るのは微かなノイズと、衣擦れの音。




女郎花おみなえし?」


『――…うるさいぞ、楓。名は一度呼べばよいと何時も言っているであろ』




 うっそりと不機嫌そうに響く、幼女とも老女とも判断のつかぬ、一種異様で不可思議な“声”。

 夕陽は自分の両側に座る手毬と小毬のふたりが、息を詰め、緊張に身を固くする気配を感じた。




「申し訳ございません、お姉さま。入門のご許可を頂きたいのですが」


『まあ、待て。一応確認の為に訊く、夕陽は? 首尾よくやったか』


「全て、お姉さまのおっしゃるとおりでした」


『そうか、あの面子めんつを相手に、よくやった。この日を一日千秋いちじつせんしゅうの想いで待ちかねたぞ』


「お姉さまの“夢見”に、万が一などあり得るはずもございませんでしょうに」


『世辞はよい。あらゆる意味で宝玉ほうぎょくにも等しい希有けうなる存在の妹姫じゃ、決して粗相のなきように注意せよ。久沓くぐつともうひとり、四季しきには特によく言って聞かせておかねばならぬ。そうは思わぬか、のう? 手毬に、小毬よ』




 名を呼ばれたふたりの少女は音を立てて息を呑み、身をひとしきり震わせると、もんどり打つかのようにシートから飛び降りてフロアにひざまずき、勢いもそのままに叩頭こうとうする。

 そんな彼女たちの頭上に、さらなる“声”が容赦なく降り注ぐ。




『夕陽が落とした涙の価値は重いぞ。分をわきまえよ、ふたり共。童子わらし相手の戯れに、己れの身がただ朽ち果てていくだけの日々に戻りたいか?』


「「ひっ、ひらにご容赦をっ。どうかお赦しください、奥の院さま!!」」




 声を揃えて必死に赦しを乞う尋常じんじょうではないふたりの様子に、夕陽はどう反応すべきか分からずに、ただ唖然としてうろたえる事しかできない。




女郎花おみなえし


『何じゃ、楓。後には出来ぬのか、わらわの用はまだ済んではおらぬ』




 溜息まじりに由布院楓が呼びかけると、女郎花おみなえしという名で呼ばれた“声”の主は、さもわずらわしげに唸り声を上げる。




「このふたりは、かねてからの望みのとおりに夕陽さん付きになれましたゆえ、今回は少々はしゃいで羽目を外してしまいましたけれど、四季しきの見立てにこれまで狂いがあった事は一度たりともございません。もうしばらくは、猶予を与えるのがよろしいかと」


『ならぬ! それでは後々(のちのち)そやつらの為にならぬぞ』




 叩頭し続けているふたりの少女の両肩がびくりと跳ね、怯えを感じているせいからか身体のふるえがさらに酷くなる。

 夕陽にもそんなふたりの感情が伝染うつったのか、あるいは“声”の威厳を伴う迫力に気を呑まれたのか、顔から血の気が見る間に失せていく。




「あまりにお小言が過ぎますと、まだ会いもしないうちから夕陽さんに怖がられてしまう事になりますよ」


『むぅ……っ』




 少々呆れ気味に、由布院楓が言葉を重ねると、回線の向こう側で相手が絶句する気配が伝わってきた。




やしきに着きましたらすぐにでも、夕陽さんを連れて参りますから、機嫌を直して頂きたいのですが」


『いや、もうよい……それには及ばぬ。事がここに至ればもはや慌てる必要など何もない。夕陽がわらわの前に姿を見せる“時”は既に決められておるからの、その時が来るまでゆるりと待つとしよう』


「では、入門のご許可を」


『もう、とうの昔に許可済みじゃ。窓の外を見てみよ、既に由布院の敷地内のはず。朱理と恵那の車も振り切れたであろ? 早く戻って、夕陽をやしきで休ませてやれ』


「ありがとうございます」


『聞こえるか、夕陽。次に月のよわいが満ちる夜、開かずの間にて逢おう。月の光の導きがそなたを招くであろ』




 由布院楓が女郎花おみなえしと呼んだ相手の、厳しかった“声”のトーンは若干以上に緩められている。

 夕陽はそこに、自身に向けられた親愛の情の深さを感じ取り、張り詰めていた緊張の糸を解いて、ほっとひと息吐く。

“声”は夕陽の返事を待つ事もなく、盗聴防止に軍事目的から転用されている衛星電話の回線を切った。

 同時に、長い長い溜息を吐いた手毬と小毬のふたりは、フロアの上でそれまでじっと固くしていた姿勢を膝から崩す。




久沓くぐつ、パーティションを開けなさい」


「御意」




 由布院楓の指示に、夕陽が不安に揺れる眼差しを向けると、彼女は慈愛を込めた微笑を浮かべ、何時ものようにおっとりした口調で答える。




「心配は無用です、夕陽さん。窓は全てUVカットガラスですから、安心なさってください」




 その言葉に胸を撫で下ろした夕陽は、いざるようにしてシートから降りると、まだその場から動けないでいる、手毬と小毬のふたりの許へ這い寄っていく。




「いけません、夕陽さま。せっかくのお召し物が汚れてしまいます」


「もったいのうございます、夕陽さま。さぁ、立ってくださいまし」




 ふたりの少女は目尻にうっすらと光る涙を指で拭うと、慌てて居住まいを正して、バランスの危うい夕陽の身体を両側から抱き支える。

 夕陽はまだ多少は顔を蒼褪あおざめさせていながらも、ふたりに向けて、にっこりと実に屈託のない笑顔を見せた。




「泣かないで、大丈夫。おれは奥の院さまがどんな人かまだ知らないけど、今度逢える時が来たら、ふたりの事はちゃんと話しておくからさ」




 それが、彼女たちふたりの限界だった。




「「ゆっ……ゆ……ひさまっ!」」




 手毬と小毬の涙腺が一気に決壊し、大粒の涙が止めどなく瞳からあふれ出す。

 ふたりは夕陽の身体に左右からすがり付くと、誰にはばかる事もなく、まるで子供のようにしゃくり上げ、その身を震わせ泣き崩れてしまう。

 由布院楓はしばらく沈黙を保ったまま、出逢ったばかりでまだぎこちない関係でいる主従が作りだしたその光景を、ただ微笑を浮かべて見守るばかりでいた。


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