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3─1由布院の邸へ

 由布院家所有リムジン車中の内装は、夕陽の想像を超えた豪華さだった。

 全長八メートルを優に超す車内は走行中とは思えない程にとても静かで、微かに流れているクラシック音楽以外、エンジン音はもちろん、あらゆるノイズから遮断されている。

 電動式パーティションにより、客室のプライベート空間は完全に保たれ、運転手や外部からの視線に晒される事は一切ない。

 間接照明に照らし出されるインテリアは、白を基調にメイプルウッドをあしらい、瀟洒しょうしゃで上品な、落ち着いた雰囲気をかもし出す。

 進行方向に対して車体の右側面にはカウンターが設置され、白の本革シートが運転席真後ろの位置と、車体左側面から最後尾にかけてL字型に配置されている。

 由布院楓は最後尾のシートの真ん中にひとり、帯の形が崩れないよう背筋を綺麗に伸ばした姿勢で浅く腰掛け、夕陽は左側面のシートで、手毬と小毬のふたりに両側を挟まれて座っていた。

 夕陽の着衣は退院時にふたりの少女メイドによって、病室のクローゼットに収納されていたアウターに着替えさせられている。

 オフホワイトの生地に小さな花柄が全体に散らされた、フリフリのプリントワンピース。

 朱理と恵那のふたりが夕陽の退院に備えて、自分たちの趣味全開で、インナーも含めて事前に用意していたものだ。




「さあ、夕陽さま。ベルギー王室御用達ガレーのチョコレートはいかがですか?」


「こちらのぉ、デンマーク王室御用達ロイヤルダンスクのバタークッキーもどうぞ」




 右に手毬、左に小毬。

 彼女たちはそれぞれ菓子の詰められたケースのふたを開けて、満面の笑みで夕陽に勧めてくる。




「さあさあ、ご遠慮なさらず。とても美味しいんですよ」


「あーんです、夕陽さまぁ。あーん。あーんしてください」




 ケースを膝の上に置いた小毬が、ビスケットをひとつ右手指先でまみ上げ、左手を添えながら夕陽の口許にそっと差し出す姿に、手毬の顔色がさっと変わる。




「やるわね、小毬。さあ、夕陽さま。わたしのもあーんしてください」


「やだ、手毬ちゃん。割り込まないでよぉ。夕陽さま、先にこちらを」


「「はい、あーん」」


「………………」


「「あーん……」」


「………………」


「「……………」」




 手毬と小毬はふと視線を合わせると、しばらく無言で見つめ合う。




「お館さまぁ、夕陽さまが冷たいんですぅ」


「さっきから、何も喋ってくださらなくて」




 沈黙を保つ夕陽に耐えきれなくなったふたりは、由布院楓に泣きついた。




「そんな事より、手毬。夕陽さんには当分、チョコレートのような刺激物や、胃に負担のかかるものはだめですからね。それくらいの気が利かなくてどうするのです。おまえたちを信頼して夕陽さんの側仕そばつかえに選んだ、四季しきの顔に泥を塗るつもりですか?」


「もっ、申し訳ございません。以後気を付けますので、女中頭おかしらにはどうかご内密にしてくださいませ」




 微笑ましげに夕陽たちの様子を見守っていた由布院楓が、手毬に対してやんわりと注意を与えると、彼女はしゅんとしょげ返る。

 小毬はそんな手毬の様子に、自分が叱られたかのようにうなだれてしまう。




「仕方ないですねえ、ふたり共。それでどうなの? わたくしが目を離している隙に、夕陽さんを怒らせるような事を何かしたのかしら?」


「い、いいえ、お館さま。そんな事は決して。ねえ、小毬」


「は、はいですぅ。着替えの時にちょっと遊んだくらいで」




 由布院楓からの問いが思いがけなかったのか、弾かれたように反応した手毬に続いて、小毬もコクコクと小さく首を縦に振って同調する。




「バ、バカ、小毬。あんた、自分で何言ってるか分かってんの?」


「あぁ、ごめん、手毬ちゃん。お館さまには内緒だったんだよね」


「小毬のバカ、お黙り!」


「え? え? 何でぇ?」




 自分の失言に気付いていない小毬は、不思議そうに小首を傾げている。

 それを見た手毬は不意の頭痛に襲われ、こめかみを指先で押さえながら、小さくうめいた。




「どうなの? 夕陽さん。黙ってらしたら、わたくしには何も分かりませんわ。さ、遠慮なさらず、言いたい事がありましたらおっしゃってください」




 由布院楓に促される形で、夕陽はようやくぽつりと言葉をこぼす。




「……姉さん」


「はい」


「このふたり……日、日焼け止めを、日焼け止めを塗るのに……っ」




 じわりと、目尻に涙を浮かべた夕陽を見て、手毬の焦りはピークに達した。




「ゆっ、夕陽さま? 誤解なさらないでください。ねえ、小毬」


「はいですぅ。全身隈くまなく塗るようにとぉ、お館さまから厳命を頂きましたので」




 しどろもどろになる手毬に対し、小毬は何処までものんびりとしていてマイペースだった。




「だからって、あんな場所にまで。お、おれ、今の身体、自分でもまだ見た事なかったのに」




 くすんと鼻をすすり始める夕陽に、場の空気を読めない小毬がこの後かけたひと言に、手毬は思わず頭を抱える事になる。

 今この瞬間にも、由布院楓からの視線を痛い程に感じているのだ。

 それでも手毬は気付かないふりをして、必死に意識を逸らし続ける。




「誇りにこそすれど、何を嘆く事がございましょう、夕陽さま。たいへん綺麗なお身体で、小毬はいたく感激いたしましたぁ」


「小毬はもう、お黙り! あんたが口を開くと話がややこしくなる。それは確かに、今まで見た事ないくらいに綺麗だったけどさ」




 手毬はもはや自爆している事にさえ気付かない程に混乱している。

 夕陽はそんなふたりを余所よそに、ひとり鬱々とした気分のままでいた。

 女性化した自分の身体を初めて目の当たりにしたショックと、それを初対面の人間にいいようにもてあそばれてしまったじらいから、未だに立ち直れずにいるのだ。

 姉である姫たちのメリハリの効いた身体と違い、メタモルフォーゼ直後の特徴である、第二次性徴前の少女のように華奢で肉付きの薄い身体。

 日焼け止めを全身に塗り込めるふたりの少女メイドの繊細な手つきや、ほんのわずかな衣擦きぬずれの感覚にさえ、自分の意思を離れてことごとく身体が反応してしまった感覚が、今でも鮮明に夕陽のなかに残っている。

 刺激が加えられる度、喉がのけ反り、背中は弓形ゆみなりになり、口唇からは甘く小さな悲鳴が洩れ、それぞれに何とか抑え込もうとしてもまるで思い通りにならず、全くの徒労に終わってしまった。

 夕陽はそんな自分の新しい身体に、今はただ戸惑うばかりだ。

 全身の神経が皮膚のすぐ真下を通っているかのように敏感な肌。

 髪は艶やかさを増し、細くさらさらになり、枝毛など傷んだ箇所は全く見当たらず、毛先にまで神経が行き届いているかのような感覚がある。

 それらはいずれも、ほんのちょっと前まで普通の少年だった夕陽には全く未知の感覚で、慣れるまでにはかなりの時間がかかりそうだと、あきらめ半分で覚悟した。


 何より、爪先から頭の先までがあまりに敏感にすぎるのだ。

 誇張でも何でもなく、肌に合わない衣服をただ身に付けているだけで、不快な感覚に悩まされるであろう事は想像するにかたくない。

 例えば、夕陽が入院中に着ていた患衣がそうだった。

 裏地にある縫い代による折りでさえ、少しでも処理が甘い部分があれば、素肌をちくちくと刺すような刺激があった。

 だからあえて、ふたりの少女メイドに感謝する部分を探すなら、それは彼女たちに無理矢理身に着けさせられた、シルク製キャミソールのなめらかな肌触りにある。

 その着心地は想像以上に気持ちよくて、素肌への不快な刺激を全て絶ってくれるのだ。

 夕陽はこれ以降、洋服以上に下着に凝るようになるのだが、これはそのきっかけとなる出来事だった。

 こうして、あらためて自分の身に起きた劇的な変化に意識を向けると、由布院楓によって一度は落ち着きかけた感情の波が、ほんのわずかだが再びざわめき揺れる。

 それがまた、夕陽の心に若干ではあるが、暗い影を落とす。

 人前で涙を見せた覚えがほとんどなかった以前の自分に比べて、何故これ程までに情緒不安定になってしまったのか全く理解不能で、思い通りにならない自身の感情がもどかしく、ただひたすらに持て余すばかりでいた。

 それら全ての変化はメタモルフォーゼにより、体内のホルモンバランスが崩れてしまった結果にるものなのだが、この時点での夕陽の知識では、そこまでうかがい知るのはとうてい無理な話だった。

 そんな夕陽がうつむき加減でいた顔を思わず上げたのは、由布院楓の次に続く言葉があまりに意外だったからだ。




「なるほど、そういう事でしたか。ですが夕陽さん、それは慣れていただくしかないですねえ。そのふたりはあなた付きの側仕えなんですから、ご自分でよい関係を築いてください。もちろん主従の枠を超えて、行き過ぎた面があるようでしたら、わたくしからきちんと注意するようにいたしますから」


「なっ、慣れって……このふたり、カッ……カテーテルだって、無理矢理……ちゃんと、看護師さんたちがいたのに……!」


「カテーテル?」


「……………っ」




 夕陽の淡い桜色の頬が、散り際の紅葉のように一気に紅く染まった。

 由布院楓は、夕陽の身に何が起きたかおおよその事情を察してはいたが、それでも穏やかな態度をあくまで崩す事なく、おっとりした口調のままに言葉を続ける。




「なるほど、困りましたねえ。ただ、結局はそちらの件もあなたに慣れていただくしかないんですが。今は理不尽だと思われるかもしれませんが、そういくらも待たずに理由がわかる時が来ます。その時には必ずこのふたりに対して、感謝の気持ちを持つ事になるでしょう」




 由布院楓は右手指先を頬に軽く当てながら小首をかしげ、さほど困った様子も見せずにそう言う。

 夕陽は本当に納得でき得る理由があるのかと疑念を抱きつつも、既に一度姉と思い定めた由布院楓にそこまで強く言い切られると、それ以上反論すべき言葉を持ちはしなかった。

 区切りの十話です。


 毎回読んでくださっている方、お気に入り登録してくださった方、評価ポイント入れてくださった方、感想をくださった方。


 全ての方々に作者より多大なる感謝を、今後もMTFをよろしくお願いします。


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