鴉の亡骸
最寄り駅までの道端で、私は白い布きれが落ちているのを見つけた。いくら郊外の片側一車線しかない道路とはいえ、朝方の通勤時ならばそれなりに車は通る。しかし布は風が吹いても動かずただそこにあった。何かが下にあるのだ。遠目で見ていた私もすぐに理解した。
私の前方をサラリーマンが一人歩いていた。彼はふと腕に巻いた時計を見るや、何やら慌てた様子で駆け出した。いや、彼にとっては走っているつもりだったのかもしれないが、私にはせいぜい早歩きしているようにしか見えなかった。道端の白いカタマリに近づくと、彼はその不格好な走りの歩幅を少しだけ伸ばして、ひょいと越えていった。
次は私の番だ。私は布きれの前に立って足元を見た。近くで見ると、布の端から黒い羽に包まれた身体がはみ出しているのを知る。そうか、これは鴉の死体なのだ。あれだけ街中でガアガアと騒々しく鳴いているわりには、その亡骸を見たことは今までなかった。
どうしてここで亡くなったのだろう。ふと、そんなことが気になった。事故であろうか。隣にある電柱か、それとも民家のフェンスにでもぶつかったのかもしれない。そうすると、一度失敗すれば死んでしまうような生活をずっと続けてきたということになる。何とも泥縄的な生き方だ。
いや、そうとも限らないか。この鴉は元々、病を抱えていたのではないだろうか。そうして偶然ここを飛んでいたときに力尽きてしまった、というわけである。しかし、鴉には自分の体調を把握することができないのか。最期を穏やかに巣の中で抑えること、ただそれだけのことでも、野生の動物には難しいのかもしれないな。死期が近いと知りつつも、今日を生きるため外へ飛び立つ。それは何とも酷な宿命なのだろう。この鴉のこれまでの日々に思いをはせていると、何だか生きているのがつらくなってくる。
次第に私は鴉そのものよりも背後の物語が気になり始めていた。この布を被せた人は、いったいなぜそうしたのだろうか。いや、簡単なことだ。布の下にある鴉の死に様があまりにむごいからである。では、どうして人間は死を目に触れないようにしておきたいのだろう。目を背ければ死の運命から逃れられるとでも思ったか。死は穢れているからいけないのか。しかし、生きているからには皆すでに汚れているのだ。大して変わらない癖に。
これは精神や倫理だけの問題ではない。感情を排して実利だけの問題に帰着させても、結局駄目である。野鳥の死体には細菌や寄生虫が付着している可能性が高いから、触るだけでも危険なのだ。布きれをかけたことで清潔になるわけではないのだから。
吐き気がする。本当はずっと前から気がついていたのだ。そうでありながら、エゴのために無視していた。最も穢らしく醜いのは私だ。他者の行為を悪し様に解釈して、その場その場で低俗な批判をするから、自分の中で矛盾を起こす。
そんな私が今、するべきことは何だろう。少なくともピカピカの革靴が汚れることを気にしている場合ではない。だからといってこの場所に長居して、社会人の責務を放棄するべきではなかろう。ああ、ようやく私はこの鳥が布を被っている理由が分かったぞ。何かしたかった、いや何かしなければならないと思ったから行動したのだ。たとえその行動に、倫理的な疑念を挟む余地があるのだとしても。たとえ合理性を欠いていたとしても。人間は正しくはあれないが、それは正しくあろうとしなくていい理由にはならないのだ。
小さな発見のおかげで私の憂鬱な朝は少しマシなものになった。終わりのない生を超克する。生を全うした一つの魂と、名も知らぬ人の善意が、私にその力を与えてくれた。
しかし、人生とはそう上手くはいかないものである。ここまでの話はすべて嘘なのだ。現実の私は布に覆われた鳥の亡骸を一瞥するや、「珍しいものを見た」とだけ考えてその場を後にした。




