見えざる攻防
村の境界に現れた不穏な霊的現象は、日を追うごとにその強度を増していった。夜になると、森の奥から聞こえる呻き声はより生々しくなり、村人の悪夢を誘発した。道標に刻まれた印は村の奥深くまで侵食し始め、人々の間に根拠のない疑心暗鬼が広がり始めた。ナタリーは、この見えざる「霊力」が、村の絆を分断し、最終的に内部から崩壊させようとしていることを察した。
ナタリーは、夜な夜な泉を訪れ、泉の囁きに耳を傾けた。泉の力は、その「霊力」の性質を彼女に教えてくれた。それは、人々の負の感情、不安、恐れ、嫉妬などを増幅させ、現実世界に影響を及ぼす力だった。肉体的な攻撃ではないが、精神を蝕み、やがて村全体を絶望の淵に突き落とす危険を孕んでいた。
「執事、この霊力は、村人の心を狙っています。物理的な障壁では防げません」
ナタリーの声には、焦りの色が滲んでいた。泉の守護者としての力は、これまで物理的な脅威や、土地に宿る力を制御することに特化していた。しかし、人々の「心」に働きかけるこの霊力に対し、どうすれば対抗できるのか、明確な策が見つからずにいた。
そんな中、孤児院の子供たちの中にも、体調を崩す者が出始めた。夜泣きが増え、昼間も怯えた表情を見せる。ナタリーが彼らの額に触れると、微かな悪意の波動を感じ取ることができた。彼女は、子供たちだけでも守りたい一心で、泉の力を借りて、小さな結界を張った。それは、子供たちの心を悪しき霊力から守る、一時的な障壁でしかなかったが、少しでも彼らに安らぎを与えたかった。
「ナタリー先生、怖い夢を見たの…大きな黒い影が、私を追いかけてくる夢…」
小さな女の子が、ナタリーの服の裾をぎゅっと握りしめた。ナタリーは優しくその子を抱きしめ、泉の清らかな波動をそっと送り込んだ。子供の顔から、わずかに緊張が和らぐ。
ナタリーは、この状況を打破するため、より強力な手段を講じる必要があると悟った。彼女は再び古文書を広げた。泉の守護者の記録の中に、「心」と「絆」に関する記述はないかと探し求めた。
やがて、彼女の目に留まったのは、泉の力が「人々の絆を強化する」という一文だった。そして、その力を最大に引き出すためには、村人全体の「信じる心」が必要であると記されていた。
「信じる心…」
ナタリーは呟いた。これまでの彼女は、自身の力を隠し、陰で村を守ってきた。しかし、この見えざる霊力に対抗するには、村人自身が持つ「信じる力」を呼び覚ます必要があるのではないか。
その日の午後、ナタリーは神父に相談を持ちかけた。
「神父様、もし村人全員の心が一つになれば、この霊力に打ち勝つことができるかもしれません。村の皆を教会に集め、この村に古くから伝わる歌を歌っていただけませんか?」
その歌は、村が困難に直面した際に、人々が団結し、希望を求めて歌い継いできたものだった。ナタリーは、その歌声に込められた「信じる心」が、泉の力を増幅させ、霊力を打ち払う鍵になると直感していた。
神父は、ナタリーの言葉に驚いたが、すぐにその意図を理解した。
「分かりました、ナタリー嬢。この村の皆の心を一つにしましょう!」
その日の夕刻、教会の鐘が村中に鳴り響いた。不安に怯える村人たちが、お互いを励まし合いながら教会へと集まってくる。神父は祭壇に立ち、村人たちに語りかけた。
「村の皆さん、今、私たちに試練が訪れています。しかし、決して恐れることはありません。私たちには、この村に古くから伝わる、希望の歌があります。心を一つにし、共に歌いましょう!」
神父の呼びかけに応え、村人たちが一斉に歌い始めた。最初は小さな歌声だったが、次第に大きくなり、教会全体に響き渡る。その歌声は、不安を打ち払い、人々の心に温かい光を灯していくようだった。
ナタリーは教会の片隅で、静かに目を閉じていた。村人の歌声が、泉の力を増幅させ、彼女の内に流れ込んでくるのが分かった。その力は、これまでのどんな時よりも強く、清らかだった。そして、その清らかな力が、村を覆っていた悪意の霊力を押し返し始める。
見えざる攻防が繰り広げられた。村人たちの「信じる心」と、ナタリーを通して増幅された泉の力が、森から放たれる霊力と激しくぶつかり合う。やがて、森からの不穏なざわめきが徐々に小さくなり、道標に刻まれた印も薄れていくのが感じられた。
歌声が最高潮に達した時、村を覆っていた重い空気が一変した。清らかな風が吹き抜け、人々の顔から不安の色が消え去った。霊力は完全に退けられたのだ。
ナタリーは目を開けた。そこには、歌い終えて安堵の表情を浮かべる村人たちの姿があった。彼らは、何が起こったのか完全に理解はしていなかったが、自分たちの歌声が村を救ったことを直感していた。
「私たち、やったんだ!」
子供たちが笑顔でナタリーに駆け寄る。ナタリーは、その子供たちの笑顔を見て、心からの安堵を覚えた。
しかし、ナタリーは知っていた。これは一時的な勝利に過ぎない。この霊力を操る者たちは、まだ森の奥に潜んでいる。彼らは、なぜこの村を狙うのか。そして、彼らの正体は一体何なのか。ナタリーの「守護者」としての真の戦いは、今、まさに始まろうとしていた。




