― 第8節:裏返った現実 ―
私は──たしかに、鳥居をくぐった。
その瞬間、音が変わった。
坂の上でずっと聞こえていた風の音が、ぴたりと止まる。
代わりに、遠くで水の流れるような音が耳に届いた。
どこかに川があるのかもしれない。でも、ここには川なんて──
──いや、待って。
足元の感触が変わっている。
草が乾いていたはずの道が、しっとりと濡れている。
靴の裏に、水を含んだ土の柔らかさが伝わってきた。
湿度が増した空気が肌にまとわりつく。
急に、夏の夜とは思えないほど空気が重くなっていた。
鳥居の向こうには、坂の続きがあるだけだった。
ただ、坂の傾斜は緩やかになり、左右の木々が不自然なまでに等間隔に並んでいる。
まるで、人の手で“並べられた”みたいに。
そこにあるのは、自然じゃなかった。
でも、それをおかしいと思う感覚が、少し鈍くなっている自分に気づいた。
私は歩き出す。
もう、引き返すタイミングは過ぎてしまっていた。
戻る気持ちより、確かめたいという欲の方が強くなっていた。
この世界が何なのか。
そして、私はいま“どこにいるのか”。
坂を下りきった場所に、木製の小さな標識が立っていた。
手書きの文字で、こう書かれている。
《この先 たましいの村》
──たましい?
一瞬だけ読めなかった。
たまし……いたま……?
なんだか、ふりがなでも振ってほしくなるような読みにくさだった。
それでも、私はそのまま進んだ。
その先には、村があった。
灯りが点いた家。
軒先に吊るされた風鈴。
遠くで誰かが笑っているような声。
夜なのに、まるで昼のように明るい。
でも、空は真っ黒で、星ひとつなかった。
雲もないのに、星も月も見えない。
なのに、家々の窓からは、オレンジの光が漏れている。
私は道を歩く。
静かすぎる村だった。
音はしているのに、足音も人の気配もどこにもない。
家の中に誰かがいるのかもしれない。でも、カーテンが閉じられていて見えない。
──おかしい。
そう思って振り返ると、さっきまで歩いてきた道が消えていた。
坂がない。鳥居もない。
後ろは、ただの暗い道に変わっていた。
私はまっすぐ歩いてきたはずなのに。
「……こんにちは」
不意に、子どもの声がした。
見ると、前に、小さな男の子が立っていた。
浴衣を着て、足元には裸足。
髪は濡れているようで、額に張りついていた。
目が、笑っていない。
笑っていないけれど、口元だけがにやりと歪んでいる。
「……こんばんは、じゃないの?」
私がそう返すと、男の子は首をかしげた。
「このへんでは、ずっと“こんにちは”って言うんだよ。夜でも朝でも、おんなじ」
その言い方が、なぜかひどく気味悪く感じた。
「君、名前は?」
私が尋ねると、男の子は答えずにこう言った。
「きみ、しってる?」
「なにを?」
「きみの なまえ」
喉がひゅっと鳴った。
意味が分からない。
いや、分かりたくないだけだったのかもしれない。
「私は……早瀬まどか、だよ」
自分の名前を口にしたとき、不思議なことに、胸のあたりに“違和感”が走った。
まるで、口にした名前が“自分に合っていない”ようなズレ。
男の子は、じっと私を見つめていた。
その目の奥に、“誰か”がいた気がした。
「そっか。じゃあ、いいや。ここまでこれたなら、きっとだいじょうぶだね」
「……なにが?」
「もうすぐ、むかえがくるから」
むかえ?
その言葉に続きはなかった。
男の子は、まるで空気に溶けるように姿を消していた。
私は、その場に立ち尽くした。
風が吹かないのに、草が揺れていた。
虫が鳴かないのに、耳の奥で羽音がした。
風鈴が見えないのに、音だけがどこからか聞こえてくる。
──この世界は、私を“受け入れた”のだろうか。
それとも、“まだ試している最中”なのか。
私は、後ろを振り返ることができなかった。
なぜなら、もう“戻れる場所”がそこにはない気がしていたから。