― 第6節:日常のズレ ―
それは、ほんの小さなことだった。
最初は、気のせいだと思ったし、たまたまだと思いたかった。
──でも、違った。
朝食の準備を手伝おうとして、私は何気なく箸を手に取った。
その瞬間、横で祖母が持っていた箸の使い方に、私は違和感を覚えた。
母の持ち方と、似ている。
けれど、どこかぎこちない。微妙に、位置がズレている。
そう思って、ふと、以前の記憶をたぐった。
──あれ?
うちの母は右利きだった。
ずっとそうだったはずだ。
一緒にカフェでパフェを食べたとき、ペンを貸したとき、ハンカチを渡されたとき……
全部、右手でやっていた。
なのに今、思い出す母の姿が、左手で箸を持っている。
しかも、自然に。まるでそれが“ずっとそうだった”かのように。
その一事だけで、脳がふわっと浮いたような感覚に包まれた。
おかしい。
でも、誰にも「おかしい」とは言えない。
だから私は、言葉を飲み込んだ。
朝食は、いつもと変わらないように見えた。
それでも、卵焼きの甘さが少し強すぎた気がしたし、味噌汁の具も昨日とは違っていた。
それを祖母に言っても、笑って「今日は暑いからちょっと薄味にしたのさ」と返された。
──それなら、そうなんだろう。
私は自分にそう言い聞かせた。
昼前、部屋の片隅に置いてあったアルバムを何気なく開いてみた。
祖母の若い頃の写真や、母が子どもだったころの記録がたくさん貼られていた。
その中に、見覚えのある写真があった。
私と、友達──美香と一緒に撮った夏祭りの写真。
だけど、アルバムの端に貼られたキャプションには、こう書いてあった。
《まどか・美紀 夏祭りにて》
……美紀?
思わず、二度見してしまった。
私の隣に写っているのは、間違いなく美香だった。
髪型も、目元のホクロも、笑い方も、全部覚えてる。
でも、名前が違う。
気のせい。誰かの書き間違い。そう思いたかった。
でも、別のページの写真にも──同じ文字。
《まどか・美紀・翔太》
美紀。
確かにそう書いてある。しかも何枚も。
全部、過去の記録が“書き換えられている”。
震える手でスマホを取り出して、美香のLINEを確認する。
表示されている名前は──「美紀」。
タイムラインも、やり取りも、すべて“美紀”として残っていた。
でも私は、確かに彼女のことを“美香”と呼んでいたはず。
録音なんて残っていない。記憶だけが、私にそう訴えていた。
午後、気を紛らわせるために、台所の棚を整理することにした。
調味料を並び替えていて、ふと気づいた。
醤油とみりんの位置が逆になっている。
普段なら、醤油が左。みりんが右。
祖母が料理しているところを何度も見ているから、間違えようがない。
それが、逆になっていた。
誰が並べ替えた? 私じゃない。
祖母は、何も言っていなかった。
でも、まるで“いつもこの配置”であるかのように、他の調味料もピタリと揃っていた。
気がつくと、私は震えていた。
夕方、祖母に呼ばれて縁側に出ると、すでに涼しい風が吹き始めていた。
風鈴が、からんと小さく鳴った。
その音を聞いた瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇る。
坂の上の赤い鳥居。
その奥に開いていた、光の届かない影。
そして、あの風鈴の音が、私を引き戻した。
「ねえ、おばあちゃん」
私は、思いきって話しかけた。
祖母はお茶を手にしながら、私の方を向く。
「もしもさ……世界が、少しだけ変わっちゃったらって、思ったことある?」
「世界が?」
私の目を見て、祖母はほんの少し首をかしげた。
「うん。昨日までと全部同じように見えるのに、箸の向きとか、呼び方とか、調味料の位置とか……細かいところだけが、少しずつ違う。そういうこと、ない?」
祖母は、お茶をひと口飲んでから、ぽつりと答えた。
「あるよ。……あるっていうか、“戻ってこれた子”がみんなそう言ったんだよ」
“戻ってこれた子”。
その言葉の意味が、胸にひやりと染み込んでいった。
「ねえ……それって──」
「まどかは、大丈夫だよ」
祖母が、そう言って笑った。
だけどその笑顔は、どこか“確認するような”目つきをしていた。
──本当に、私は“私”のままでいられている?
風鈴が、もう一度鳴った。
音は、さっきよりも少し高く、そして妙に長く響いた。