表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『とこしえ坂』  作者: 血反吐P
第1章:夏休みと田舎
7/22

― 第6節:日常のズレ ―


それは、ほんの小さなことだった。


 最初は、気のせいだと思ったし、たまたまだと思いたかった。




 ──でも、違った。




 朝食の準備を手伝おうとして、私は何気なく箸を手に取った。


 その瞬間、横で祖母が持っていた箸の使い方に、私は違和感を覚えた。




 母の持ち方と、似ている。


 けれど、どこかぎこちない。微妙に、位置がズレている。


 そう思って、ふと、以前の記憶をたぐった。




 ──あれ?




 うちの母は右利きだった。


 ずっとそうだったはずだ。


 一緒にカフェでパフェを食べたとき、ペンを貸したとき、ハンカチを渡されたとき……


 全部、右手でやっていた。




 なのに今、思い出す母の姿が、左手で箸を持っている。


 しかも、自然に。まるでそれが“ずっとそうだった”かのように。




 その一事だけで、脳がふわっと浮いたような感覚に包まれた。




 おかしい。


 でも、誰にも「おかしい」とは言えない。


 だから私は、言葉を飲み込んだ。




 朝食は、いつもと変わらないように見えた。


 それでも、卵焼きの甘さが少し強すぎた気がしたし、味噌汁の具も昨日とは違っていた。


 それを祖母に言っても、笑って「今日は暑いからちょっと薄味にしたのさ」と返された。




 ──それなら、そうなんだろう。


 私は自分にそう言い聞かせた。




 




 昼前、部屋の片隅に置いてあったアルバムを何気なく開いてみた。


 祖母の若い頃の写真や、母が子どもだったころの記録がたくさん貼られていた。


 その中に、見覚えのある写真があった。




 私と、友達──美香と一緒に撮った夏祭りの写真。




 だけど、アルバムの端に貼られたキャプションには、こう書いてあった。




《まどか・美紀 夏祭りにて》




 ……美紀?




 思わず、二度見してしまった。


 私の隣に写っているのは、間違いなく美香だった。


 髪型も、目元のホクロも、笑い方も、全部覚えてる。


 でも、名前が違う。




 気のせい。誰かの書き間違い。そう思いたかった。


 でも、別のページの写真にも──同じ文字。




《まどか・美紀・翔太》




 美紀。


 確かにそう書いてある。しかも何枚も。


 全部、過去の記録が“書き換えられている”。




 震える手でスマホを取り出して、美香のLINEを確認する。


 表示されている名前は──「美紀」。




 タイムラインも、やり取りも、すべて“美紀”として残っていた。


 でも私は、確かに彼女のことを“美香”と呼んでいたはず。


 録音なんて残っていない。記憶だけが、私にそう訴えていた。




 




 午後、気を紛らわせるために、台所の棚を整理することにした。


 調味料を並び替えていて、ふと気づいた。


 醤油とみりんの位置が逆になっている。


 普段なら、醤油が左。みりんが右。


 祖母が料理しているところを何度も見ているから、間違えようがない。




 それが、逆になっていた。




 誰が並べ替えた? 私じゃない。


 祖母は、何も言っていなかった。


 でも、まるで“いつもこの配置”であるかのように、他の調味料もピタリと揃っていた。




 気がつくと、私は震えていた。




 




 夕方、祖母に呼ばれて縁側に出ると、すでに涼しい風が吹き始めていた。


 風鈴が、からんと小さく鳴った。


 その音を聞いた瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇る。




 坂の上の赤い鳥居。


 その奥に開いていた、光の届かない影。


 そして、あの風鈴の音が、私を引き戻した。




「ねえ、おばあちゃん」




 私は、思いきって話しかけた。


 祖母はお茶を手にしながら、私の方を向く。




「もしもさ……世界が、少しだけ変わっちゃったらって、思ったことある?」




「世界が?」




 私の目を見て、祖母はほんの少し首をかしげた。




「うん。昨日までと全部同じように見えるのに、箸の向きとか、呼び方とか、調味料の位置とか……細かいところだけが、少しずつ違う。そういうこと、ない?」




 祖母は、お茶をひと口飲んでから、ぽつりと答えた。




「あるよ。……あるっていうか、“戻ってこれた子”がみんなそう言ったんだよ」




 




 “戻ってこれた子”。




 その言葉の意味が、胸にひやりと染み込んでいった。




「ねえ……それって──」




「まどかは、大丈夫だよ」




 祖母が、そう言って笑った。


 だけどその笑顔は、どこか“確認するような”目つきをしていた。




 ──本当に、私は“私”のままでいられている?




 




 風鈴が、もう一度鳴った。


 音は、さっきよりも少し高く、そして妙に長く響いた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ