― 第5節:祖母の記憶 ―
朝になっても、体のだるさが取れなかった。
目は開いているのに、夢の中にいるような感覚。
起き上がって顔を洗っても、どこか“昨日の空気”が、肌にまとわりついている気がする。
鏡の中に映った自分が、ほんのわずかに“誰かに似ている”。
自分なのに、自分じゃないような──そんな違和感。
化粧もしていない顔に、異物感なんてあるはずがないのに。
嫌な感覚を振り払うように、私は手早く朝の支度を終えた。
朝食の席。
祖母は相変わらず、何事もなかったかのように湯気の立つ味噌汁を出してくれた。
ちゃぶ台には、昨日と同じような献立。
焼き鮭、漬物、卵焼き。
だけど、味噌汁の香りだけが、なぜか昨日と少し違っていた。
気のせい? それとも本当に“何か”が違っている?
「今日はゆっくりしてなさいね。日差しが強いから、熱中症になるよ」
祖母はにこにこと笑いながら言う。
だけど、その声が昨日よりも少し“低い”気がして、私はまたしても黙り込んでしまった。
食後、私は気まぐれに家の中を歩いた。
特に何かを探していたわけじゃない。
けれど、気づけば階段下の奥にある襖の前に立っていた。
以前、祖母が「物置みたいな部屋だから入らなくていいよ」と言っていた場所。
私はそっと襖を開けた。
中は、薄暗かった。
畳の色がくすんでいて、空気がわずかに澱んでいる。
古びた木箱、封を切られていない段ボール、埃をかぶった古新聞。
その山の隙間に、小さな木箱が積まれていた。
なぜか、それに惹かれた。
無意識に膝をついて、その箱の蓋をゆっくりと開ける。
中には古びたアルバムと、一冊の手帳のようなものが入っていた。
それは、紐で留められた薄いノートだった。
表紙には、手書きでこう書かれていた。
《記録帳》
ありふれた文字。でも、どこか“重たい”。
私は紐をほどいて、中を開いた。
日付と簡単な出来事が、箇条書きのように並んでいる。
《昭和五十三年七月八日 坂の上で足音。振り向いても誰もいない》
《七月十日 イチが帰ってくる。顔は同じ。でも違う》
《七月十一日 母がイチの目を見て泣いた》
《七月十三日 夜、風がないのに風鈴が鳴る》
《七月十四日 イチが消える。布団が畳まれていた》
──イチ?
思わず声に出しかけて、慌てて口を閉じた。
まどか、落ち着け。
この記録は、ただの昔話かもしれない。
だけど、紙面に刻まれた文字には、あきらかに“怯え”がにじんでいた。
特に「イチが消える」の一文には、ペンの跡が何度も重なっていた。
破れそうな紙。にじんだインク。
これは、何十年も前の誰かの──“本物の恐怖”だった。
「それ、見つけちゃったんだね」
背後から声がして、私は跳ね上がった。
振り返ると、祖母が立っていた。
いつの間に? まったく気配を感じなかったのに。
「勝手に見ちゃって……ごめんなさい」
私は手帳を閉じ、そっと箱に戻した。
怒られると思っていたのに、祖母は私の隣にすとんと腰を下ろした。
そして、小さな声で呟いた。
「イチは、私の弟だったよ」
え……?
言葉が出なかった。
祖母は続ける。
「小学校に上がったばかりの頃だった。ふらっと、ひとりで坂を登っちゃったの。夜中に、こっそりね。誰にも見られずに」
──聞いた話と、同じ。
でも、それが祖母の“弟”だったなんて。
「翌朝、イチは帰ってきた。普通に玄関から、何事もなかったように。
でもすぐに気づいた。あれは、イチじゃない」
祖母の手が、そっと拳を握る。
「箸の持ち方、利き手、好き嫌い、歩き方……全部が少しずつ違っていたの。
母もすぐに泣いた。『この子は違う』って言って。
でも、あの“イチ”は、ずっと自分が弟だと信じていたよ。名前も言えたし、過去のことも語ってた。……だから余計に怖かった」
「それで……その子、どうなったの?」
私の声は、小さく震えていた。
「ある朝、いなくなった。
布団だけが、きれいに畳まれていてね。まるで、最初からいなかったかのように」
祖母の言葉は静かだった。でも、どこかで“詰まっていた”。
涙は出ていない。でも、その表情が、すべてを語っていた。
少しの沈黙のあと、祖母が私の顔をじっと見つめた。
「まどか……」
「なに?」
「──あんたは、本当に“まどか”だよね?」
その問いが、心の奥に突き刺さる。
私は何も言えなかった。
いや、答えられなかった。
祖母は立ち上がると、「ごめんね」とだけ言って、そっと襖を閉めて出ていった。
取り残された私は、ただひとり、埃の匂いのする部屋で動けずにいた。
自分は、自分のはず。
でも──
その“はず”が、ぐらぐらと揺らいでいる。
──あの坂に行ったあの日、
本当に“何も”起きていなかったの?