― 第4節:夜の呼び声 ―
日が暮れると、空気の質ががらりと変わる。
昼間はあれほど騒がしかった蝉の声も、夕方にはすっかり姿を消して、代わりに草の間から細い虫の音が漏れてくる。
暗くなるにつれて、祖母の家は不思議な静けさに包まれていった。
東京の夜とは違う。車の音も、信号の電子音も、人の話し声すらしない。
あまりに静かすぎて、耳の奥に残っていた昼間の喧騒が嘘みたいだった。
夕飯のあと、祖母はあっさりと自分の部屋に引っ込んだ。
時計を見たら、まだ九時前。
早寝が習慣なのか、それとも疲れていたのか……何も言わず、静かに襖を閉めた。
私は一人、客間でスマホをいじっていた。
けれど、電波が弱くて画面はすぐに固まる。
通知は来ない。タイムラインも更新されない。
まるで、私だけがこの世界から切り離されてしまったような感覚。
さっきまで観ていた動画の断片が、音もなく途中で止まった。
そこに写っていたはずの明るい部屋も、人の笑い声も、一瞬で遠ざかっていく。
何もかも、現実じゃなかったみたいに思えてしまった。
寝ようかどうか迷いながら、私は布団の上に座った。
スマホを閉じ、天井をぼんやりと見つめる。
風が窓の外を通り過ぎる音が聞こえる。でも、それだけ。
時計の針の音も、虫の声も、すべてが妙に遠く感じた。
……いや、違う。
耳に届いていた音が、少しずつ“消えている”気がした。
虫の鳴き声が途切れていた。
さっきまで確かに聞こえていたのに、今は何もない。
音のない夜。
そう呼びたくなるような、静謐というより“空白”のような沈黙。
そのとき、なぜか“耳の奥”で何かが囁いたような気がした。
言葉にはならない。けれど、確かに“呼ばれている”。
おいで。
──そんな風に。
私は立ち上がっていた。
気づいたら、スリッパを履いて廊下を歩いていた。
音を立てないように、ゆっくり、そっと。
祖母の部屋の前を通ると、微かな寝息が聞こえた。
眠っている。それは安心材料になるはずだったのに、どうしてか“心細さ”が増していく。
玄関の引き戸を開けると、夜の空気がすっと入り込んできた。
ひやりとした風。鼻先に触れた瞬間、肌が粟立つ。
月が明るくて、庭全体がぼんやりと白く照らされていた。
裏手へまわると、足元に絡みつくような草の感触。
でも、昼間に比べて歩きやすかった。
草の背が、ほんの少しだけ低くなっているような気がした。
誘導されている。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
なぜ、道が開けている?
なぜ、迷わずに“そこ”へ行けてしまう?
あの坂が見えた。
昼間よりもはっきりと、くっきりと。
月の光を受けて、坂の輪郭が浮かび上がっている。
道はまるで、私を迎えるためにそこにあるかのようだった。
草が避け、風が止まり、音が失われていく。
私は、足を踏み入れた。
一歩ごとに空気が重くなる。
でも、息苦しさは感じなかった。
むしろ、胸の奥に張り詰めた何かが緩んでいくような感覚。
登っていく。
二歩、三歩。
どこからか、鳥の鳴き声……ではなく、“風鈴のような音”が微かに耳に届いた。
けれど風は吹いていない。草も、木も、揺れていない。
その音はどこから響いている?
家のほうから? それとも……坂の上?
私は顔を上げた。
──見えた。
赤い鳥居。
子どもの頃に見た、あの記憶。
錆びて歪んだその枠が、月光の中で浮かび上がっている。
その奥には何もない。社も灯籠も、なにも。
ただ、闇。
光の届かない影だけが、そこに口を開けていた。
それでも、足が止まらなかった。
鳥居をくぐりたかった。
その先にある“何か”を、この目で確かめたくなった。
……そのとき。
からん──
風鈴の音が、はっきりと耳元で鳴った。
家のほうから。
あれは、私を“呼び戻している”。
そう確信した瞬間、足が止まっていた。
はっとして振り返る。
坂の下。月明かりの庭。家の縁側。
遠い。でも、まだ戻れる。
私は踵を返した。
走らず、でも急ぐようにして坂を下った。
足音は音を立てず、まるで地面に吸い込まれていくようだった。
家に戻ると、風鈴はもう鳴っていなかった。
引き戸を開け、そっと中に入り、布団に戻る。
しばらくの間、ずっと心臓の音だけを聞いていた。
それ以外、何も聞こえなかった。
あの鳥居の奥にあった“闇”が、まぶたの裏に張りついて離れなかった。
その夜は、一度も眠れなかった。
目を閉じるたびに、鳥居の向こうから、誰かがこちらを覗いている気がして──