― 第3節:坂のかたち ―
朝の光で目が覚めたとき、時計は八時を回っていた。
こんなに長く眠っていたのは久しぶりだ。東京にいるときは、スマホのアラームが鳴る前に通知の音で目が覚めるのが日常だったのに。
あたりは静かだった。
虫の声はかすかに聞こえるけど、テレビの音も車の走る音もない。
窓の外から射し込む陽射しが、畳に長い影を落としていた。
顔を洗って歯を磨いてから階下に降りると、祖母はすでに朝食の支度を終えていた。
ちゃぶ台の上には湯気の立つ味噌汁と、焼き鮭、卵焼き、それに胡瓜の漬物。
見慣れた食卓ではないけど、不思議と落ち着く雰囲気があった。
「よく眠れたみたいだね」
祖母が笑いながらお茶を注いでくれる。
私はこくりとうなずいて、「うん、ぐっすり」とだけ返した。
本当はあまり眠れていなかった。
夜中に何度も目が覚めたし、布団の中であの坂のことを何度も思い出していた。
でも、それを口にすると何かを壊してしまいそうな気がして、言わなかった。
食後、祖母は家の中を片づけにまわり、私は一人で縁側に出た。
陽射しは強く、庭の草木が青々としていた。
蝉の声が絶え間なく降ってきて、空気のなかに混ざって揺れている。
──坂は、本当にあるんだよね。
昨日の夜の話。祖母の語った“もう戻ってこられなくなる”という言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
誰かの作り話にしては、祖母の目はあまりにも真剣すぎた。
そして、あの風鈴の音──あれだけは今もはっきりと耳に残っている。
ふと、私は縁側から立ち上がった。
手にしていたスマホをポケットにしまい、裏手へと足を向ける。
祖母には黙っていたけど、やっぱりあの坂を、この目で確かめたくなった。
草を踏み分けるようにして、家の裏へと回り込む。
背の高い草が足首を撫で、蝉の声とは違う静けさが、そこには漂っていた。
耳が詰まったように、音が一段階くぐもる。そんな感覚。
やがて、草の影に飲み込まれるようにして、一本の細い道が姿を見せた。
あれが、坂。
間違いない。
幼い頃に見た記憶の中と、今目の前にあるこの光景は、ぴたりと重なっている。
舗装はされておらず、土の地面がぐねぐねと曲がりながら上へ続いている。
道の脇には雑草が伸び放題で、時折、揺れもしていないのに葉が小刻みに震えているように見える。
あれは風のせいではない。何か別の“気配”が揺らしている──そんなふうに思えてならなかった。
それでも、私は坂の前に立った。
登るつもりはなかった。ただ、見にきただけ。
なのに、足がじりじりと前に出てしまう。
五歩、六歩。
草を踏む音が、自分の足音だけで構成された空間に響く。
坂の上には何があるんだろう。
赤い鳥居。確か、昔見た気がする。
でも、昨日の昼間に外から見たときには、鳥居なんてどこにもなかった。
なのに今は、見えている。
いや、見え“かけて”いる。
視界の端で、赤い影がちらりと揺れた。
「まどか!」
不意に声がして、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、祖母が立っていた。
庭のほうからこちらを見ている。
「ちょっと裏に出ただけだよ」
私は慌てて言い訳を口にした。
祖母の目には怒りはなかったけど、なぜかじっとりと濡れているように見えた。
それが汗なのか、それとも別のものなのか、わからない。
「このあたりは草が深くて危ないからね。虫もいるし、蜂も出る。あんまり近づいちゃダメだよ」
祖母はいつもと変わらない口調でそう言った。
でも、その言葉の奥には、何かを強く隠している気配があった。
それは“危険だから”ではなく、“見てはいけないものがあるから”という、もっと根深い何か。
「……うん、わかった」
私は素直に頷いた。
でも、そのときすでに、頭の中には鳥居の輪郭が焼き付いていた。
間違いなく、あれは私を見ていた。
草の向こうで、赤い枠の中から、誰かがこっちを覗いていた──
そんな錯覚が、ずっと消えなかった。
足元の雑草が風もないのに揺れている。
ほんのわずかに、坂の上から冷たい空気が流れてきた。
祖母の手が私の肩にそっと触れる。
その手の温度が、さっきよりもひんやりしている気がした。
「冷たい麦茶、あるからね。戻ろう」
私は「うん」と返し、視線だけを坂の奥に残した。
目の前にあるのは、ただの坂道。
なのに、私は確信していた。
あの先は、この町の地図には載っていない“どこか”につながっている。
その“どこか”が、少しずつ私のほうへにじり寄ってきている気がして──
私は背中をそっと強ばらせた。