― 第2節:坂の話 ―
「裏の坂……まだあるの?」
そう聞いた瞬間、祖母の動きがぴたりと止まった。
何気ないやり取りの途中だったからこそ、その静止がやけに目立つ。
縁側に吹き込む風の音さえ、止んでしまったように感じた。
たまたま風がやんだだけかもしれない。でも、私は直感的に悟っていた。
いま、自分は“触れてはいけない何か”をつついたんだ、と。
「……坂?」
祖母の口調がほんの少しだけ掠れている。
さっきまでの朗らかな雰囲気とは違って、どこか慎重だった。
「子どものころに言われたんだよ。登っちゃダメって。裏山の、細い道……ほら、赤い鳥居があるとこ」
口にしてから、しまったと思った。
軽い気持ちで話題に出すべきじゃなかったのかもしれない。
それでも、好奇心の方が勝ってしまったのだから仕方ない。
「ああ、あるよ。今もそのまんま。消えるようなものじゃないからね」
そう言った祖母の目は、笑っていなかった。
遠くを見ているようでいて、しっかりと“坂”を見据えている。
風も吹いていないのに、風鈴がからんと揺れた。ちいさく、不気味な音色だった。
「ねえ、なんでダメなの? 神社でもあるの? それとも、祠?」
「さあね」
祖母は腕を組み、縁側に視線を落とした。
「理由なんて、誰もはっきりとは知らないのさ。昔から“行ってはいけない”と言われてきた。それだけで十分なんだよ」
曖昧な答え。それでも、そこに嘘はなさそうだった。
知っていて隠しているというより、本当に“誰も知らない”。
けれど、その曖昧さこそが逆に怖い。
だって、理由が不明なルールほど、人は従ってしまうものだから。
「でもさ、本当に誰かが登っちゃったって話、あるの?」
私が問いかけると、祖母は少しだけ口元を引き結んだ。
何かを迷うように、でもやがて、ぽつりと語り出した。
「昔ね、いたんだよ。小学校に上がったばかりの子。男の子だったかな」
話は淡々としていた。でも、その淡々さが逆に恐ろしかった。
「その子、夜中にひとりで坂を登っちゃったんだって。
気づいたときにはもういなくて、家族が気づいたのは翌朝」
「……でも、戻ってきたんだよね?」
「うん。戻ってきた。自分の足で家に帰ってきたよ」
それなら、何も起きなかったってことじゃ──
そう思いかけたところで、祖母は言葉を継いだ。
「でもね、その子はもう“その子”じゃなかったのさ」
鳥肌が、腕に浮かんだのがわかる。
声も、顔も、仕草もほとんど変わっていなかったという。
けれど、細かいところが違っていたらしい。
「右利きだったのに、箸を左手で持ってた。昔嫌いだったピーマンを、ぱくぱく食べてね。
何より、家族との思い出を微妙に間違える。日付が一日ずれていたり、話に出てこないはずの人物を知っていたり」
祖母は、膝の上にそっと手を置いた。
その手が小刻みに震えているように見えたのは、気のせいじゃない。
「本人は“自分が本人だ”って思い込んでたよ。自分の名前も、家族のこともちゃんと話せた。でも、誰も“あの子”をあの子として見られなかった。……家の中が、だんだん静かになっていった」
「それで、その子……どうなったの?」
問いながら、自分の声がほんの少しだけ震えているのを感じた。
「消えたよ」
短い言葉だった。でも、重たかった。
「朝になったら、いなくなってた。部屋には誰もいなくて、布団だけがきれいに畳んであったんだってさ。まるで、最初から存在してなかったみたいに」
空気がひやりと冷たくなる。
私の手のひらからも、すうっと熱が抜けていった。
「作り話、だよね?」
無理やり笑おうとした。でも、口元がうまく動かなかった。
祖母は何も言わず、ゆっくりと立ち上がる。
「まどか、あの坂には行っちゃいけない。……もう、戻ってこれなくなるから」
静かに告げられたその言葉が、縁側に残る風の匂いと混じりあって、じわりと私の肌に染み込んできた。
夜になっても、その話が頭から離れなかった。
布団に入って、天井を見上げる。
遠くで風鈴が鳴っていた。昼間よりもずっと、澄んだ音色で。
──登ったら、帰ってこれなくなる。
そう言われたら、普通は避けるはずなのに。
なのに私は、なぜか“もう一度あの坂を見てみたい”と思ってしまった。
まるで、その場所だけが現実から外れているような気がして──
私は布団の中で、目を閉じた。
でも、眠りはすぐにはやってこなかった。