― 第10節:坂を越えたもの ―
──「……はい」
その声が届いた瞬間、世界の色が反転した。
空が裏返り、足元が一瞬浮かんだ気がした。
それはたぶん、現実がぐらついたのではなく、
私の“存在”がぐらりと傾いたのだ。
返事を、してしまった。
私ではない、“もうひとりの私”が。
祠の奥から、誰かがゆっくりと歩いてくる音がした。
砂利を踏む、規則的な足音。
それが、私の“決断の代償”を連れてくる。
やがて、鳥居の下に姿を現した“彼女”は──私だった。
髪の色も、肌の質感も、制服の皺の位置までも。
でも、目だけが違っていた。
その目は、私よりも澄んでいて、まっすぐで、
そしてなにより“この世界に順応していた”。
私は、もう知っていた。
選ばれたのは、あっちだ。
彼女が一歩近づくごとに、私の足元の感覚が薄れていく。
地面を踏みしめる感覚が、靴の中から抜け落ちる。
まるで、私の“存在の輪郭”が削れていくようだった。
指先が、冷たい。
喉の奥で声がつかえて、名を呼ぶことすらできなかった。
“返事をした方が、本物になる”。
それが、この世界のルール。
それは最初から書かれていた。
だから私の敗北は、最初から決まっていたのかもしれない。
でも、おかしかった。
返事をしたのは“あっち”なのに、なぜか私の中で確かなものが“戻ってくる”感覚があった。
輪郭がぼやけていたはずなのに、
記憶が揺らいでいたはずなのに──
“私”は、いまここにいる。
立っている。感じている。
なのに、目の前の“まどか”は、何も言わなかった。
ただ、私を見て、ゆっくりと微笑んだ。
その笑みは、まるで──「これでよかった」と言っているように見えた。
その瞬間、私は確信した。
返事をしたのは、私だった。
──なのに、私の口は、動いていない。
私は名を呼んだだけで、返事をしていない。
じゃあ、“はい”と答えたのは……
誰だった?
頭の奥で、記憶のページが静かに閉じていく。
時間が、ゆっくりと止まっていく。
空が晴れた。
風が吹いた。
風鈴が、ひとつだけ鳴った。
その音に紛れるように、ふと後ろから声がした。
──「おかえりなさい、まどか」
でも、私は気づいた。
その声の主は──
私のことを、“名前で呼んでいない”。
“まどか”という名は、確かに聞こえた。
でも、それは“宛てて言われた名前”ではなかった。
私は、名を与えられなかった。
だからその瞬間、すべてがわかった。
──私は、世界に選ばれていなかったのだ。
選ばれたのは、“私ではない”まどか。
声を発したのは、確かに私。
でも、“呼ばれた”のは、別の誰かだった。
私の世界は、ここで終わる。
感覚が、ひとつずつ消えていく。
音。光。匂い。名前。
そして──記憶。
でも、最後にひとつだけ残った。
「家の人たち、誰も“私”の名前を呼ばなかった。」




