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『とこしえ坂』  作者: 血反吐P
第2章:坂の向こう側
21/22

― 第10節:坂を越えたもの ―


──「……はい」




 その声が届いた瞬間、世界の色が反転した。




 空が裏返り、足元が一瞬浮かんだ気がした。


 それはたぶん、現実がぐらついたのではなく、


 私の“存在”がぐらりと傾いたのだ。




 




 返事を、してしまった。


 私ではない、“もうひとりの私”が。




 祠の奥から、誰かがゆっくりと歩いてくる音がした。


 砂利を踏む、規則的な足音。


 それが、私の“決断の代償”を連れてくる。




 




 やがて、鳥居の下に姿を現した“彼女”は──私だった。




 髪の色も、肌の質感も、制服の皺の位置までも。


 でも、目だけが違っていた。




 その目は、私よりも澄んでいて、まっすぐで、


 そしてなにより“この世界に順応していた”。




 私は、もう知っていた。


 選ばれたのは、あっちだ。




 




 彼女が一歩近づくごとに、私の足元の感覚が薄れていく。


 地面を踏みしめる感覚が、靴の中から抜け落ちる。


 まるで、私の“存在の輪郭”が削れていくようだった。




 指先が、冷たい。


 喉の奥で声がつかえて、名を呼ぶことすらできなかった。




 




 “返事をした方が、本物になる”。




 それが、この世界のルール。


 それは最初から書かれていた。


 だから私の敗北は、最初から決まっていたのかもしれない。




 




 でも、おかしかった。


 返事をしたのは“あっち”なのに、なぜか私の中で確かなものが“戻ってくる”感覚があった。




 輪郭がぼやけていたはずなのに、


 記憶が揺らいでいたはずなのに──




 “私”は、いまここにいる。


 立っている。感じている。




 




 なのに、目の前の“まどか”は、何も言わなかった。


 ただ、私を見て、ゆっくりと微笑んだ。




 その笑みは、まるで──「これでよかった」と言っているように見えた。




 




 その瞬間、私は確信した。




 




 返事をしたのは、私だった。




 




 ──なのに、私の口は、動いていない。


 私は名を呼んだだけで、返事をしていない。




 




 じゃあ、“はい”と答えたのは……


 誰だった?




 




 頭の奥で、記憶のページが静かに閉じていく。


 時間が、ゆっくりと止まっていく。




 




 空が晴れた。




 風が吹いた。




 風鈴が、ひとつだけ鳴った。




 




 その音に紛れるように、ふと後ろから声がした。




 




 ──「おかえりなさい、まどか」




 




 でも、私は気づいた。




 




 その声の主は──


 私のことを、“名前で呼んでいない”。




 




 “まどか”という名は、確かに聞こえた。


 でも、それは“宛てて言われた名前”ではなかった。




 私は、名を与えられなかった。




 




 だからその瞬間、すべてがわかった。




 




 




 ──私は、世界に選ばれていなかったのだ。




 




 




 選ばれたのは、“私ではない”まどか。


 声を発したのは、確かに私。


 でも、“呼ばれた”のは、別の誰かだった。




 




 私の世界は、ここで終わる。




 感覚が、ひとつずつ消えていく。


 音。光。匂い。名前。


 そして──記憶。




 




 でも、最後にひとつだけ残った。




 




 




 「家の人たち、誰も“私”の名前を呼ばなかった。」




 

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