― 第9節:呼び戻す術 ―
夜の町に、私はひとりだった。
誰もいない道を歩きながら、空気の重さを背負っていた。
風はない。音もない。
ただ、世界そのものが、私を試しているような気がしていた。
もう片方のまどか。
あの子が、何者なのかはわからない。
でも、確かなのは──あの子が“私の代わり”にこの世界に残っているということ。
だったら私は、どうすれば“自分”を取り戻せるの?
問いに答えてくれる人は、いなかった。
でも、声はあった。
歩いているうちに、再びあの声が耳に届いたのだ。
──「まどか」
今度は、風に混じるような音ではなかった。
頭の中に、直接落ちてくるような響き。
眠る直前に聴く、誰かの囁きのような……
それは、もはや言葉ではなく、“意図そのもの”だった。
気づくと私は、町外れの神社にいた。
坂とは違う場所。
でも、鳥居があり、拝殿があり、石灯籠が立ち並んでいた。
まるで“もうひとつの坂”に導かれたような気がしていた。
境内の奥に、小さな祠があった。
普段なら見落としそうなほど古びたそれは、
今は不自然なほどくっきりと存在していた。
私は無言のまま、その前に立った。
祠の前に、紙の束があった。
誰かが置いたのだろうか。
けれど、その紙は雨にも風にも傷んでいなかった。
まるで“今ここに現れたばかり”のような清潔さを保っていた。
私はその一枚を手に取る。
そこにはこう書かれていた。
「世界に存在するためには、“片方”を選ばなければならない」
「名を持つ者は、名を失った者を追い出す力を持つ」
「最後に名前を呼ばれた“まどか”が、まことのまどかとなる」
文章は短く、淡々としていた。
だけど、その意味はあまりにも重かった。
つまり、今この世界には**“ふたりのまどか”が存在してしまっている**。
どちらかが、完全に“消えなければならない”。
そしてそれを決めるのは──“名前”だ。
名前。
この数日間、私はその言葉を何度も噛みしめてきた。
誰も私を名前で呼ばなかった。
だから私は、自分を見失いかけていた。
でも、思い出す。
あの路地裏で、誰かが──
確かに“まどか”と呼んでくれた。
その声だけが、いまだに私を“私”として繋ぎ止めている。
私は再び紙束をめくった。
次の一枚には、こう記されていた。
「声の記憶は、世界の扉である」
「呼び戻したければ、名を声に出して呼びなさい」
「ただし、ひとつだけ。“もうひとり”が返事をしたら、そちらが本物になる」
思わず手が止まった。
返事をした方が、本物になる?
じゃあ、呼んで返事をした“もう一人”が、私の代わりに残るということ?
──私は、試されている。
この世界に適合した、偽物のようでいて“本物になりかけている”まどか。
その子は、もしかしたら──私以上に、“この世界にふさわしい”のかもしれない。
でも。
それでも私は、譲れなかった。
記憶を持っているのは、私だ。
怖くて、苦しくて、孤独だった時間を、誰よりも強く通ってきたのは──私だけだったから。
だから私は、声に出した。
夜の静けさの中で、名を──
「まどか」
空気が震えた。
鳥居がかすかに軋み、祠の紙がふわりと宙を舞った。
そして──その奥から、返事があった。
「……はい」
その声は、私の声だった。
でも、私ではなかった。




