― 第1節:仮住まいの決定 ―
東京の駅って、なんでこんなに空気が重いんだろう。
アスファルトから立ち昇る熱で、息がまともに吸えない。
セミがどこかで鳴いているけど、空に吸い込まれているのか、やけに遠く感じる。
私はホームに立っていた。キャリーケースの取っ手を握りしめたまま、なぜかその場を動く気になれなかった。
ああ、行きたくない。
たった三文字が、頭の中をずっとぐるぐる回ってる。
もう覚悟は決めたはずなのに。移動の疲れもあるのかもしれない。
それとも、気持ちのどこかがまだ抵抗してるんだと思う。
──おばあちゃんの家で、夏を過ごす。
それが、私の“今年の夏休み”になった理由。
父は仕事で海外に行くことになって、母は職場で大きな案件を抱え込んでいる。
それで、家に残される私を“避難”させることにしたらしい。
「まどか、この夏だけでいいから。お願いね」
母の頼み方は、いつもより真剣だった。
こっちは渋々了承するしかない。反抗してどうにかなるなら、とっくにしてる。
電車に乗り込んで、指定席に体を沈めた。
シートが冷たくて、思わず肩がすくむ。
窓の外を流れる景色。街のビルが小さくなっていくたびに、胸の奥で妙な違和感がじわじわ広がっていった。
この違和感。
子どものころ、一度だけ感じたことがある。
おばあちゃんの家に行った、あの夏。
乗り換えの電車に揺られ、さらにローカル線の終点でバスに乗り継ぐ。
エアコンの効きが悪い車内で、スマホを開いてみたけど、アンテナが一本しか立っていない。
SNSの通知も来てない。LINEも読み込みが止まったまま。
やっぱり圏外。
軽く絶望しかけたところで、運転手さんが「次、終点です」とマイク越しに言った。
降りた瞬間、空気が変わった。
湿度が低くて、どこか冷たい。
山の匂い。土と緑が混ざった空気。思いっきり深呼吸したら、肺の奥にまで染み込んできそうなほど澄んでいた。
歩き始めると、すぐに見覚えのある道が現れた。
田んぼのあぜ道、古びた電柱、そして瓦屋根の平屋。
あれが、祖母の家。
玄関の上に、風鈴がぶら下がっていた。
引き戸を開けると、畳の匂いが鼻に飛び込んでくる。
懐かしさというより、体が勝手に反応した感覚だった。
「ただいま……って、あれ。こんにちはの方が正しい?」
苦笑しながら靴を脱いで、玄関を上がったそのとき──
奥から、畳を踏む音。ゆっくり、静かな足音が近づいてくる。
「おかえり、まどか」
懐かしい声。
出てきた祖母は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
少し背が小さくなった気もしたけど、それ以外は昔のまま。
変わらない人って、本当にいるんだなと思った。
「久しぶりだねぇ。東京の子って、こんなに白かったっけ?」
私の腕をつかんで笑う祖母に、つられて私も笑う。
「ちゃんと日焼け止め塗ってるもん。……焼けたら怒るでしょ、ママ」
「はは、あの子は昔から色白だったからねえ」
なんて、取り留めのない会話をしながら縁側に通された。
目の前に広がる庭。木漏れ日。風に揺れる葉っぱの音。
蝉の声は、ここでははっきりと耳に届いた。
時間が止まったような場所。
スマホの通知も来ないし、風の音以外、何もない。
私は祖母の横で、しばらく黙って座っていた。
どこか懐かしくて、でもやっぱり居心地が悪い。
この家には、“何か”がある──小さい頃から、なんとなくそう感じていた。
そういえば、と思い出す。
この家の裏には、坂があった。
子どもの頃に一度、登りかけて──その時に、祖母から強く止められた。
「ねえ、おばあちゃん。裏の坂……まだある?」
私がそう言ったとき。
祖母の表情が、ほんのわずかに強張った。
今まで笑っていたのに、その笑顔がピタリと止まる。
風もないのに、風鈴がからん、と鳴った。
空気の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。