― 第8節:重なりゆく世界 ―
夜が深まるにつれて、家の中の“境界”が揺らぎはじめた。
私の部屋、廊下、縁側。
昼間と同じ形を保っているはずのものが、どこか“質感”だけ違っている。
畳が軋む音も、風鈴の揺れるリズムも、少しずつズレていた。
いつもと同じであって、“まったく同じではない”。
まるで、よく似た別の空間を、誰かが上書きしているかのように。
布団に入り、天井を見つめる。
木目のパターンを追いながら、私は目を凝らした。
そして気づいた。
──模様が、“昨日と違う”。
そんなはずはない。
この家は古く、天井板の木目は何十年も変わっていないはず。
でも、昨夜までずっと天井の中央にあった“節の黒点”が、今日は見当たらなかった。
私はそっと身を起こし、障子を開けた。
廊下に出ると、闇の中に、縁側の影がじっとりと濃く張りついていた。
床板に映るはずの月明かりが、ぼやけている。
足音を立てずに歩く。
あたりは静まり返っていたが、耳の奥ではずっと風の音が鳴っていた。
この家の中にいるはずなのに、“外”の音が聞こえてくる。
それはつまり、この家の“中”と“外”が混じりはじめているということ──。
玄関に向かおうとしたとき、廊下の角に立つ鏡が視界に入った。
私はふと立ち止まり、その鏡に視線を向けた。
そこには私が映っていた。
肩まで伸びたくすんだ金髪、制服のままの姿。
でも──
鏡の中の私は、瞬きしなかった。
心臓が跳ねた。
私の身体は、たしかに小さく呼吸している。
でも、鏡の中の“それ”は、ぴたりと動きを止めていた。
凍りついたような無表情。
まぶたひとつ動かさず、ただこちらを見返してくる私。
「……誰?」
思わず声が漏れた。
それは、私自身への問いだった。
でも、答えは返ってこなかった。
視線をそらして、私は玄関を開けた。
夜の空気が、ひやりと胸元に入り込んできた。
外に出ると、世界が“重なって”いた。
まるで二重写しのように、現実の町ともうひとつの町が、透けて重なっている。
電柱が二本見える。
家の屋根が微妙にずれている。
地面の舗装が、一部だけ違う素材で見える。
私は目を凝らして、一歩、足を踏み出した。
足元の感触が、左右で違っていた。
右足はアスファルト。左足は土。
世界が“ふたつ”存在していて、私の身体がその境界に乗っている。
私は今、どちらの世界に立っている?
この場所は、現実? 記憶?
それとも、すでに混ざりきってしまった“なにか”?
風が吹く。
その風は、片方の世界でしか感じられなかった。
髪の一部だけが揺れて、残りは静止したままだった。
私は確信した。
この世界は、もうひとつの世界と**“ずれて重なっている”**。
そして、その境界に私は囚われている。
そのとき、ふと視界の端に赤いものが映った。
──鳥居。
坂の上にあったはずのあの鳥居が、
なぜか町のすぐ裏手に、浮かぶように立っていた。
私の目にだけ、それが見えている。
私は思わず、数歩だけそちらへ足を向けた。
でも、そのとき──空気がぴたりと止まった。
そして、もうひとつの世界の“音”だけが残った。
草の擦れる音。
誰かの足音。
そして──風鈴の、からんと鳴る音。
この音は、もう片方の世界のもの。
私がいない間に、そこに存在していたもの。
“誰か”が、まだあの世界にいる。
私の代わりに。
あるいは、私として。
まどかという名前を背負って、この世界に適応した“何か”が。
私は静かに立ち尽くした。
頭の中で、現実と記憶がせめぎ合う。
自分の立ち位置が、わからなくなっていく。
そして私は理解した。
この世界には、**“ふたりのまどか”**が存在してしまっている。
ひとりは記憶を持つ私。
もうひとりは、この世界に馴染んだまま、私の居場所を塗り替えている存在。
“戻る”とは何か。
“本当の世界”とはどちらなのか。
その問いが、ゆっくりと喉の奥に絡まりはじめていた。