表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『とこしえ坂』  作者: 血反吐P
第2章:坂の向こう側
18/22

― 第7節:日記の文字 ―


祖母の家に戻ったとき、空はすでに薄い紺色に染まりかけていた。


 外灯が、まだ完全に闇になりきっていない道を照らしている。


 それでも、空気の重さは昼間のものとまるで違っていた。




 私はまっすぐ自室に向かった。


 夕飯の声もかけられなかったし、祖母の姿も見えなかった。


 それが逆にありがたかった。




 今は、誰かの目を感じたくなかった。




 




 部屋に入ってすぐ、私は棚の奥から日記帳を取り出した。


 中学生のころから使っている、ごく普通のノート。


 鍵もついていない。シンプルな黒い表紙の、一冊。




 私はページを開いた。


 何も考えずに、ただ自分が最後に書いた記憶のある日付を探した。




 




 ──おかしい。




 




 私が最後に書いたはずのページが、違っていた。




 記憶では、坂のことに触れた文章を残したのが最後だった。


 けれど、開いたそのページには、見覚えのない文章が並んでいた。




 




 《七月三十日 午前一時》


 「戻ってきた。たしかに戻ってきた。けど、どこかが違う気がする。でもそれは、きっと気のせいだ。何もかも、私が望んだ通りのはずだから」




 




 読んだ瞬間、背中がぞくりとした。




 この文字は、私の字だった。


 書き方も、改行の癖も、筆圧も──すべてが“私のもの”に見えた。




 でも、私はこんな文章を書いた覚えがない。


 ノートに触れてすらいなかった。


 その日、私は坂を登ったあと、“まだ”戻っていない。




 ──それなのに、この記録は何?




 




 私はページをめくった。




 




 《七月三十一日》


 「学校に行った。友達は、みんな私のことを普通に迎えてくれた。“まどか”として。うれしかった。やっと居場所を取り戻せた気がした」




 




 ぞっとするほど冷静な文体だった。


 感情を抑え、淡々と綴られた文面。




 それは、私が“自分を納得させるとき”によく使う文章のパターンだった。




 




 まるで、私自身が、自分の不安をごまかすために書いたように見える。




 




 でも私は、書いていない。


 ペンも持っていない。


 第一、その日は私は──




 ……図書館にいた。


 違和感を確かめに行って、記録の捏造を見て、そして……




 




 私は、手を止めた。




 ノートの最終ページには、ひとつだけ大きく文字が記されていた。




 




 《おかえりなさい、まどか》




 




 その一文には、日付もなかった。


 名前も、署名もない。


 ただ、それだけが、大きく丁寧な字で書かれていた。




 書体は──やはり、私のものだった。




 




 私は、その場にへたり込んだ。


 手が震えて止まらない。


 鼓動がひどく速くなって、胸の奥が痛くなるほどだった。




 




 誰が書いた?


 いつ、こんなことを?


 それとも、私が“記憶していない自分”として書いたというのか?




 




 日記帳は、まぎれもなく私の手にあった。


 鍵も何もない。誰かが開けた痕跡もない。


 なのに、その中身は“私が知らない私”の記録にすり替えられていた。




 




 ──もしかして。




 




 私がいなかったあいだ、別の“まどか”がこの身体を使っていたの?




 




 私は、自分の指を見つめた。


 爪の形、関節の感覚、皮膚の乾燥具合。


 すべてが、私の知っている私の手だった。




 でもその“中身”が、一度でもすり替わっていたとしたら。




 




 私は、本当にずっと“私”だったの?




 




 風鈴の音が、小さく鳴った。




 それは、どこからか吹いた風のせいじゃない。


 音だけが、世界の隙間から漏れてきた。




 




 その音に、私の記憶がわずかに揺らいだ。


 “あの日、鳥居をくぐったあとに何があったのか”


 その記憶だけが、霧のように薄く、曖昧なまま残っている。




 




 日記の文字は、たしかに私のもので。


 でもその言葉は、“私が発したもの”ではなかった。




 だったらいったい──




 この身体は、今、誰のもの?



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ