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『とこしえ坂』  作者: 血反吐P
第2章:坂の向こう側
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― 第5節:“誰か”の声 ―


図書館の扉を押し開けた瞬間、世界が“静まり返った”。




 夕方の町には、人がいたはずだ。


 学校帰りの学生や、買い物帰りの主婦。


 子どもたちの笑い声に、自転車のブレーキ音──


 けれど、私が外へ出たその瞬間、すべてが音を失っていた。




 蝉の声も、風の音も。


 ただ、私の靴音だけが、アスファルトに乾いた音を刻んでいた。




 私は歩き出した。


 少しだけ速足になる。


 気づかないうちに、背中に冷たい汗が伝っていた。




 




 どこへ向かっているのか、わからなかった。


 ただ、町を歩くことで、この“歪んだ日常”から距離を取ろうとしていた。


 でも、歩けば歩くほど、私はその中心に巻き込まれていく。




 




 四つ角の交差点に差しかかったとき、私は足を止めた。


 信号が変わる音が、鳴らない。


 電光表示は点いているのに、音だけが存在しなかった。




 この世界は、“形”だけを真似ている。


 音も匂いも、意味も伴わない、空っぽの殻。




 




 そのときだった。




 




 ──「まどか」




 




 名前を、呼ばれた。




 




 一語だけ。


 小さく、でもはっきりと。


 空気を切るような鋭さではなく、


 耳元にふわりと漂うような、やわらかな響き。




 私はその場に立ちすくんだ。


 鼓動が一気に高鳴る。


 肺の奥にまで音が染み込んでいく。




 確かに聞こえた。


 誰かが、“私の名前”を呼んだ。




 正確に、迷いなく、まるで“私という存在”を知っている人のように。




 




 ──もう一度。




 「まどか」




 




 振り返る。


 でも、誰もいない。


 通りには私しか立っていなかった。


 電柱も家々も、音もなくそこにあるだけ。


 それでも、その“声”は間違いなく私の名を呼んでいた。




 




 私はゆっくりと歩き出した。


 声の方へ。


 導かれるように、吸い寄せられるように。




 ──呼ばれたのは、きっと久しぶりだった。


 “本物の私”を呼ぶ声を聞いたのは。




 誰もが名前を忘れたこの世界で、


 ようやく“私を見ている”声に出会えた。




 




 通りの先、雑居ビルの脇にある細い路地へと入る。


 その先は、急に気配が変わっていた。


 空気が、湿っている。


 まるで、遠くの坂道の記憶とつながっているような匂いがした。




 




 路地の奥に、古びた建物があった。


 その壁に沿って、誰かが立っていた。




 逆光で顔は見えない。


 けれど、その人は、間違いなく私を見ていた。


 立ち姿、佇まい、その“存在の感触”が、空気をわずかに歪ませている。




 




 私は一歩近づいた。


 でも、その人は何も言わない。


 ただ、じっとこちらを見ていた。




 




「……呼んだの、あなた?」




 私は声をかけた。


 けれど、その人は頷きもせず、微かに口を動かしただけだった。




 ──だけど、次の瞬間、私の胸の奥に直接言葉が届いてきた。




 




 「まだ思い出せてないんだね」




 




 声じゃなかった。


 頭の内側に響いた“意識の音”。


 それは、確かに“言葉”だったけれど、


 誰の口から発されたわけでもなかった。




 




「……思い出す? 何を?」




 私が聞き返すと、その人の姿が──ふっと、揺らいだ。




 映像の乱れのように、少しだけ輪郭がにじむ。


 その直後、姿は霧のようにほどけ、風と共に消えていった。




 




 私は、その場に立ち尽くした。


 名を呼ばれたという確かな感触だけを、胸の奥に残して。




 




 “まどか”という名前が、この世界で通じた。




 その事実は、ほんのわずかに私を支えてくれた。


 でも同時に、この世界には“別の知覚”があると教えてくれた。




 




 私は決めた。




 もっと、深く知る必要がある。


 “思い出していないもの”があるのなら、それが何かを。


 私が“ここにいる理由”と、“帰るべき場所”の正体を。




 




 それがわからないまま、この世界に飲まれるわけにはいかない。


 だって──私はまだ、“まどか”だから。



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