― 第2節:ズレた日常 ―
翌朝、私は制服に着替えていた。
いつも通りのシャツ、スカート、リボン。
鏡に映る自分はたしかに“高校生のまどか”で、髪も肌も、何も変わっていないように見えた。
でも、鏡の奥の“視線”だけが、どこか冷たい。
その正体は分からなかった。
私自身が自分を見ているはずなのに、“まどか”じゃない何かに覗かれているような錯覚。
制服の襟元を整えながら、私はふと考える。
今日が何曜日なのか。どこから“日常”が再開するのか。
祖母の家を出て、駅まで歩いた。
電車に乗り、学校へ向かう。
車内の空気は静かで、誰もがスマホを見たり、ぼんやり外を眺めていた。
何もかもが“いつも通り”のはずだった。
でも、私は落ち着かない気分でずっと足を組み替えていた。
駅のホームに着いたとき、ふと、電光掲示板の文字に目が留まった。
──日付。
「7月29日(金)」
私は一瞬、視線をそらしてから二度見した。
違う。
私が坂を登ったのは7月30日の夜だった。
なのに、日付が“戻っている”。
タイムスリップ?
……そんな非現実的な言葉が頭をよぎった。
でも、あり得ない話だとは言いきれなかった。
この世界には、“常識”の形をした“異常”が隠れている気がしたから。
学校の正門をくぐると、生徒たちの笑い声が耳に届いてきた。
誰も私を不審な目で見る人はいない。
皆が、私のことを“いつものまどか”として扱っているように見える。
でも──そう“見えるだけ”。
私はクラスに入る。
教室の空気は、妙に重かった。
気のせいか、机の位置が数センチずれていた。
掲示板の貼り紙の内容が、私の記憶と食い違っていた。
“学園祭の準備は8月3日から”という文言──私は、その日付がもっと先だったことを覚えている。
誰も、その違和感に気づいていないのだろうか。
それとも、気づかないふりをしているのか。
「まどかー、おはよ!」
声をかけられて、私はびくりと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこに立っていたのは──“美紀”。
いや、私の記憶では“美香”だったはず。
でも、彼女の名札には、はっきりと「美紀」と書かれていた。
「ねえ、昨日さ、あの坂の話してたじゃん? あれ、マジで怖くない?」
「……坂?」
私はとっさに聞き返していた。
「ほら、裏山にあるやつ。登ったら帰ってこられないって噂の──って、言ってたのまどかじゃん」
まどか。
たしかに、彼女はそう言った。
でも、“私”の名前を口にしたその声に、わずかに違和感が混じっていた。
音は同じなのに、“意味”が通っていない。
それは、録音された音声を再生しているような、そんな質感だった。
「……うん。言ったかもね」
私は曖昧に笑って答えた。
笑顔を保ったまま、心の中でぞわぞわとした不安が広がっていく。
目の前にいる友達の顔。
何度も見てきたはずなのに、その頬のカーブ、まつげの角度、笑い声のトーン──
全部が“似て非なるもの”に思えてきた。
授業が始まっても、私は上の空だった。
ノートに文字を書こうとして、手が止まる。
漢字の一画目が、まるで記憶と違う方向から始まりそうになる。
頭の中の地図が、少しずつ塗り替えられていく。
この世界が“まどか”という存在を吸収しようとしている。
チャイムが鳴っても、耳が反応しなかった。
周囲がざわつく中、私は自分の指先を見つめていた。
この世界は、たしかに“日常”の顔をしている。
でも、その内側は、完全に別物でできている。
もしかして──
私はもう、“私”じゃない。
そして、ここにいるみんなも、“本物”じゃない。